第27話 夏風

 もう夏風がトロイメライに届くようになって数日経っても、まだ俊介はくすぶったままだった。

 引き続きバイトは続けている。

 大学のレッスンも通っている。

 今のところは問題がないように見える。

 だがどこかボタンがかけ間違えたようにしっくりこない自分もいた。

 父親の言葉が胸を苦しめる。

 自分は間違ってるのではないか。

 本当はもっと別の道があるのではないか。

 今までは浮かばなかった想いが頭のどこかでよぎる。

 そんな俊介を気遣ってか営業終了後に蒼太と俊介の間に一つ、日課が加わった。


「じゃあな、お疲れさん」

「及川さん、お疲れ様でした」

「はは、俺はこれから帰って寝るだけだからいいけどよ。お前さんたちも大変だな。あまり無理はするなよ」

「ちょっとばかり無理した方が俊介には丁度いいんだよ」

「お、お前が言うなよ」

「仲がいいのはいいことだ。まあ、頑張れよ!」


 片手を上げて帰る及川の背中を見送ると、俊介の目の前にどかりとコロッケとエビフライの載った皿がどかりと置かれた。


「はい。それが今日のまかない。五分で食べて」

「わかってるよ」


 大盛りのご飯をかき込みつつ、四分三十秒くらいで平げる。

 営業就労後にこうして二人で練習をすることになった。

 再び人前で弾けるようになるにはまずは数をこなした方がいいだろうと言うのが蒼太の主張だった。

 こうしてまかないを片付けてから取り掛かる。

 店の片付けをしてピアノの前に座ったのは二十三時を回った頃だった。


「さあ、はじめよう」


 テーブルセットの椅子を一つ近くに寄せて蒼太が座った。

俊介が鍵盤に手を置く。

気持ちを整える。

そして深呼吸をしてから弾き始める。

もちろん楽曲はラフマニノフだ。

 ほぼ蒼太に押される形で始まったこの練習方法もまだ結果を出せていない。

しかし蒼太がこうして俊介に付き合ってくれている以上は無下にもできなかった。


(今日は調子がいいかもしれない……)


 いつもより思った以上に指先が動く。


(これなら父さんが教えてくれた弾き方にもっと寄せることが出来るかも……)


 しかし欲が出ればミスが増える。

 一瞬だけ、音が乱れると蒼太が口を挟む。


「そこもう一回やろう」

「ああ」


 何回も弾いてはやめ、またやり直してを繰り返している。

 一歩進んで二歩下がる。

 何度やっても完璧までには程遠い。


「はあ……」


 もう何度目かのため息をついた。


(しぶといな……ラフマニノフの幻影)


 未だに人の目線があると音がばらけてしまう。

 こうして蒼太について貰っていても指先が動かない時もある。

 これでは克服したとは言えない。


(やはり……難しいのか?)


 不安が頭をもたげてくる。

 そうすると決まって父親の声が耳にそっと囁いてくるのだ。


『ピアノをやめろ。お前には向いてない』


 父親の性格を想起させる研がれたナイフのような言葉だった。

 全くの正論に言い返すことはできなかった。

 あの時蒼太が連れ出さなければきっと屈していたに違いない。

 正直助かったと思っている。

 もしあの時ピアノを諦めてしまっていたら、きっと後悔していたに違いないから。


「聞いてるの? 俊介」

「あ、ごめん」


 慌てて返事をすると蒼太が呆れ顔でため息をついた。


「全く……、集中力がないなら今日はもうやめようか。ちょっとお客さんも多くて疲れちゃっただろうし」

「……悪かったな」

「悪いと思ってるなら態度で示さなきゃだよ」


 蒼太がくすりと笑った。

 立ち上がり楽譜をぱらぱらと仕舞い込む。


「しかし難解な曲だよね」

「ああ過去には精神を病んでしまったピアニストもいるくらいらしいから」

「え……何それ。きついね……」

「俺も似たようなもんだよ、ずっとラフマニノフに取り憑かれてるわけだし。まあ父さんくらいに上手かったら難なく弾きこなすんだろうけど……」

「……」

「やっぱり父さんは凄いよな。そうでなくても人前じゃあ緊張するってのにあれだけ完璧な演奏をするんだから。いや……実の父親だけれども正直才能が怖いよ」


 しかし蒼太は同調も否定もすることなくただ俊介の言葉を反芻するような表情を浮かべた。


「ん? どうした?」


 黙ったままの蒼太の顔に視線を向けるとどこか不服そうだった。


「蒼太?」

「そればっかり」

「は?」

「俊介、最近お父さんのことばかり口にするよね。あのコンサートのあたりから」

「え? そうかな……?」


 はたと考えてみるが自分では意識していなかった。


(家族だし、まして父さんは俺のピアノの師匠なのだからピアノのことで口にするのは当然だと思っていたのだけれど……)


 蒼太からすれば意外だったと言うのだろうか。


「うん……。まるで自分じゃなくてお父さんを意識してピアノを弾いているみたい」

「そりゃあそうだろ。父さんが俺にピアノを教えてくれたのだんだからな。少なくとも俺の演奏技法は父さんから受け継いだと言っても過言じゃないし」

「……」


 蒼太は何か考え込んだ素振りを見せた。


(他人から見ても明らかに意識してるってことなのかな……?)


 しかしまるで父親のことを話すのが駄目のような口ぶりが腑に落ちない。

 ピアノを辞めろと俊介に言ってきたことを気にしているのだろうか。

 俊介はそっと鍵盤を撫でるとピアノから立ち上がった。


「じゃあ、俺は帰る。まかないありがとう」

「うん。ねえ俊介」

「ん?」


 荷物をまとめ、トロイメライを出ようとした時蒼太が呼び止めた。

 決して離さない、鋭い視線だった。


「俊介はラフマニノフの幻影を絶対に克服できるよ……。僕が手伝うからさ……」


 切なさに顔を歪めた蒼太に俊介は微笑み返した。


「ああ、ありがとう」


 トロイメライを出るとむわっとした空気が俊介を包んだ。

 このところ毎日夜遅く帰宅しているからそろそろ自転車なり買った方がいいなと思う。

 少しでも練習時間を増やしたくてギリギリまでいるせいもあって自宅に帰るのは零時を過ぎてしまうことも多くなってきた。

 俊介のことなのにどこか蒼太の方がピアノを弾けるようになるのに躍起だ。

 もちろん久江さんの思い出の味を再現するという目的のための協力だ。

しかし、それ以上に俊介の力になりたいのだという真っ直ぐな気持ちが向けられているのがなんだかこそばゆい。


(そういえば……、こうして俺に付き合ってくれるやつって今までいなかったな……)


 小さい頃、レッスンを父親から直接受けていたこともありほとんど友達がいなかった。

 著名なピアニストである矢地尾雅樹からの直接の教えなど、他から見れば手が出るほど貴重な時間であることは間違いないのだが当時はその厳格な教え厳しすぎて辟易しているほどだった。

 しかし幸いなことに他の子供たちが流行りのおもちゃに夢中になるように、自分にとっての最大の関心ごとはピアノだった。

 叩けば音が出る。しかも指先の強さ一つで音の強弱が変わる。

 家にあった子供用の楽譜の読み方を教えてもらい、見様見真似で演奏してみてその奥深さにすぐに虜になった。

 まるで指先からきらきらと光るように音が溢れていく。

 必要なのは自分とピアノだけなのに紡がれる世界の広さは無限大だ。

 人によって表現に違いがあるのも興味がそそられえた。 

 あの頃にとってピアノは世界の全てであり、自分の最大の友達だったのだと思う。

 自分で言うのもなんだが周りから神童と言われるほど俊介の才能は目を見張るものがあった。

 他の子供達が同じ歳にこなす内容を何倍も俊介はすんなりとこなしてしまう。

 だからこそ父が俊介にのめり込むようになるのもある意味時間の問題だったのかもしれない。

 自分に次々と舞い込んでくるコンサートの依頼を断ってまで子供のレッスンに没頭するようになった。


『俊介……、お前は私と同じような日本を背負うピアニストになれる……。私が絶対にお前をその高みへと連れていく』


 それが父親の口癖だった。

 次第に寝食を忘れてレッスンに明け暮れた。

 あの時の自分はまるでなんでも吸い込むスポンジのようだった。

 もちろん上手くできずに泣くこともあった。

 しかしそんな時は決まって出来るまで練習を求められたし、また父親が完璧なまでの技術で手本を弾きこなして見せた。


『そんなふうに熱心さに周りはいつか壊れてしまうよ』


周りの忠告もあったが、過酷なコンサートスケジュールをもこなす父にとってどうと言うことはなかった。

だからだろうか。

この頃から急にピアノが楽しくなくなった。

 次第に自分が好きにピアノを弾くよりも父親の教えたピアノを完全に再現することの方が求められるようになった。

 そして時折なんだか意識が遠のくような感覚に陥った。

 ピアノは自分にとって友達でわくわくするものであるはずなのに。

 叱られたり、叩かれたり辛いことが重なっていく。


『なんだそのお粗末なピアノは? 完璧を目指せ、俊介。お前は私の子供なのだ、私を超えてもっと完成度の高い素晴らしい演奏ができるはずだ』


 演奏している時の湧き立つような楽しい気持ちは遠のいた。

 自分が自由に引くと怒られる、辛く当たられる。


(お父さんが言う完璧を目指さなくちゃ。それ以外はゴミのようなピアノなんだ……)


そのあたりからだろうか。

父親の言う通りに弾きこなすことこそがピアノだと思えてきたのは。

 かちり。

 自分の中で歯車がかち合わなくなったような気がした。

 もしここで誰かが異変に気づいていたら自分はまだピアノを弾いていたかもしれない。

 そうして練習するうちに忘れもしない運命の日がやってきた。

 ジュニアコンクールの題材に父が選んだのはラフマニノフだった。

 難解でありながら一番の父親の得意な曲だった。


『お前なら完璧に弾ける。私がそう仕上げた。今まで様々な曲を弾いてきた。しかしこれほどまでに私の心を満たしてくれたものは他にない。お前こそが私の最高傑作だ』


 そう話して送り出してくれた父親の顔が思い出せない。


(ああ、絶対に完璧に弾きこなさなくちゃ。お父さんの言う通りに……)


 ピアノの前に座り、そっと鍵盤に指先を置く。

 ここでいつもなら曲の世界に入れるはずだった。


(あ、あれ……?)


 しかし、描けない。

 いつものように思考が広がらない。

 すぐに演奏を始めなくてはならないのに指先が動かない。

 喉がひりひりとして心臓の音が頭の中に響く。

 どうすればいい……。 

 さっと観客席に目を向ける。

 しかし暗がりの中で父親の姿を見つけることができない。

 どうしよう。

 焦りが広がっていく。

 会場が少しざわめき始める。

 体が寒い。

 ぶるぶると震えが走る。


(誰か助けて……)


 そう叫びたいのに喉がひりついて声が全く出ない。


(弾かなくっちゃ……、弾かなくちゃ。ピアノを! 完璧に……、お父さんのために!)


 無理やりにでも指を動かす。

 形にはなる。

 体がどんなふうに動けばいいのかそれを父親にこれでもかというほどに教え込まれたからだ。 

 そうだ。

 こんな時父親だったらどんなふうに弾くだろう。

 頭の中で姿を追いかける。

 しかし描けば描くほど、今まで積み重ねてきた音楽からは遠ざかる。


(ああ、どうすればいいんだろう)


 ぐちゃぐちゃでまとまりのない演奏ばかりをしてしまう。

 観客の視線が突き刺さって体から血が出そうになる。

 きっと父さんだったら上手くこなせるのに。

 そう思った瞬間。


「あ……っ」


 目に飛び込んできたのはフィーネ。

 終わりを告げる終止記号で俊介のコンクールは終わった。

 それからどうやって家に帰ったのか記憶が全くなかった。

 ただ父親がとても落胆していたのだけは覚えている。


(お父さんごめんなさい……)


 何も言わないままの父親の背中にそう心の中で呟くことしか出来ない。

 どんなふうに言葉をかければ良かったのか分からなかった。

 もっと自分がうまかったら。

 完璧な演奏が出来たのなら。

 父親にこんな悲痛な顔をせずとも済んだというのに。

 それから俊介は練習に明け暮れた。

 しかし上手くなるどころかどんどんピアノが弾けなくなっていく。

 心配した母親が病院に連れていったが原因は不明。

 苦し紛れに出された診断は過度なストレスによるものだと書かれていた。

 それから父親は俊介を避けるようになった。

 ピアノが上手く弾けなくなった自分には価値がなくなったのだと思っている。

 それでも諦めずに俊介がピアノを続けるのは、昔の輝かしく湧き立つような気持ちをもう一度感じていたいからなのかもしれない。


(まあ……、いまだに出来てはいないけど)


 昔のことに想いを馳せていると急に電子音が鳴り響いた。

 ポケットのスマホを手繰り寄せると蒼太から連絡がきている。


『明日は十四時に集合』

「はあ……?」


 唐突な呼び出しだった。

 明日は大学は午前中だけだからその時間に行くのは問題ない。


「でも……なんでだ?」


 明日はトロイメライのバイトはない。

 だから家か大学の練習室で何か弾いて時間を潰そうと思っていたのだが。


「一体何するんだろ? 映画でもいくんだろうか?」


 怪訝に思いながらスマホをタップする。


『明日休みだろ? どこ行くんだ?』

『ナイショ! でもきっと俊介も喜ぶと思う』

「喜ぶ……?」

『何か美味しいものでも食いに行くの?』

『ハズレ。と言うよりトロイメライのまかないじゃ満足できないの?』

『そうじゃないけど。てっきり呼び出されるなら参考に何か食いに行くのかと思ったんだよ』


 ふとホテルニューグランドのことを思い出す。

 あの時は無理矢理ついていった形だが蒼太と何か食べに行くのは悪くはなかった。


『降参だ。何があるのか教えてくれよ』

『行ってのお楽しみだよ。それじゃあ、明日。絶対に来てね』


 念を押されるとその後、蒼太からの返答はなかった。


「一体なんなんだ?」


 スマホの画面を見ながら呟くが明確な答えは思い浮かばない。


(まあ明日行けば分かるからいいか)


 そのままベッドの上でそっと目を閉じる。

 蒼太の言うお楽しみをあれこれと考えつつ、そっと意識を手放した。

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