第26話 矢地尾雅樹
貰ったチケットは二階席の端だった。
開演時間が近いせいかどの席もほぼ客で埋まっている。
やはり土地柄年配の女性客が多いせいか俊介たちのような若い男性客は目立っているように見えた。
「へえ……ちょっと遠いけどステージはよく見えるね」
「いや……というよりどうしてチケット貰ったんだよ。俺は断る気満々だったのに……」
「知ってるよ。だから僕が強引に連れてきたんじゃないか」
「は……? 一体どういう……」
そう言いかけて開演のブザーが鳴り響いた。
「ほら、ほら。早く座らないと」
「あ、ちょっと待て! 押すなよ」
いそいそと席についてステージを見守る。
中央にはきらりと黒光りするグランドピアノが一つ。
あの楽器一つだけで奏者は世界を構築する。
室内が暗くなり、スポットライトがすっと真っ直ぐに降り注いだ。
「……っ」
颯爽とステージに現れた男性に視線が集中する。
身長は俊介と同じくらいに高い。すらりとしているがどこか近寄りがたいなと幼心に思っていた。しかしどこか優しい雰囲気を纏っている俊介とは裏腹にまるで剃刀のような磨がれた顔をしていた。
(矢地尾雅樹……)
胸がちりちりと焼けるように疼く。
こみ上げてくる複雑な感情を整理するのにはまだ時間が足りなかった。
自分の実の父親でありながらもピアノの師である。
向こうは日本を代表するピアニストだが自分は挫折したアマチュアだ。
観客席と舞台の間には大きく、それでいてはっきりとした境界線が引かれていた。
雅樹は観客を見渡すと一礼した。
彼はいつも身のこなしに無駄がない。
完璧をその姿に宿したような男だった。
ふと彼が二階席へと視線を寄越した時、時が止まったかのように体が静止した。
少し見開かれた瞳。
完璧主義で感情の起伏を一切外に見せないのに少しだけ動揺したように見えた。
一瞬でも崩れた父親の顔を見たことがなくて俊介は思わず目を擦った。
しかし、瞬きをした一瞬。目を凝らしてみるといつもの冷静な表情に戻っていた。
(俺の見間違い……かな?)
目を擦ってもう一度見直したが、やはり彼はいつもの矢地尾雅樹だった。
引っ掛かりを覚えるものの、意識は自然とピアノへと移っていく。
今回演奏するのは何の偶然かラフマニノフ・ピアノ協奏曲第三番だ。
俊介が挫折し、自分の音楽を見失ってしまった曲。
それを一体どんなふうに弾くのだろう。
父親の演奏を聞くのはもうかれこれ数年ぶりだ。
雅樹が椅子に座りそっと手を置く。
世界が静寂に包まれる。
その綺麗な指先が鍵盤に沈みこむ瞬間、ふっと風がないのにもかかわらず空気がぐっと押してくるような感覚に陥った。
ラフマニノフは要求される演奏技術の高さから演奏家が最も頭を悩ませる曲の一つであると俊介は思う。
単に早いだけではない。
単に上手く弾けばいいのではない。
複雑な音の中に奏者は世界を作り出さなければならない。
前半の静けさの中からピアノとオーケストラが織りなす怒涛の構成に思わず鳥肌が立った。
俊介は右手を押さえた。
ざわざわと鳥肌が立つのが止まらなくて、震えていたからだ。
どんなに難解な曲でも平然とした顔をしてやってのける。それが父だった。
座席に座っていた数時間はただただ圧倒され、打ちのめされ、そして感動に震えていた。
この完成度を作り上げるまでに生まれてから積み上げてきた努力。そして彼の中に存在しうる才能が混ざり合い、練り上げた一音一音がどれほど尊いものか、実際にこの曲を演奏しようとしていた俊介だからこそ分かる。
自分にはなくて父親にはあるものの存在。
数年前まで自分がこの人から直に教えを受けていたなど思えないくらいに自分と父との力量さは歴然だった。
会場がぱっと明るくなり、ざわめきと共に観客が次々に立ち上がる。
しかし人が去っていく間にも俊介はその場から動けずにいた。
「俊介?」
はっとして顔を上げると蒼太が気遣うような眼差しで俊介を見ていた。
「ああ……、ごめん」
俊介はよろよろと立ち上がると放心したように歩き出した。
その後を寄り添うようにして蒼太が追いかける。
「ちょっと俊介。大丈夫?」
「うん? ああ、えっと……」
焦点の定まらない視線で俊介は虚な返事をした。
「水でも飲む? 向こうに販売機あったから……」
「ああ……、そう。そうしよう……」
「ちょっと休んでから帰ろうか?」
「いや、平気だ」
いつもは強気で接してくる蒼太が珍しく気遣ってくる。
俊介はよろめきながらも観客席を出て、ロビーの方へと向かった。
「すごかった……。本当に非の打ちどころがないくらいに素晴らしかった」
「そう? なんだか整いすぎてちょっと僕の好みではなかったけど……」
「いや凄まじかった……。言葉にするのがもったいないくらいだ。やっぱりすごいな、父さんは……。かなわねえ……」
右手で前髪をぐしゃぐしゃにしながら譫言のように雅樹への称賛を繰り返し、よろめきながら歩く。
蒼太に気遣われながらもミネラルウォーターを買ってロビーへと出ると、何やら人だかりができていた。
「なんだろ……。……っ、父さん?」
はっとして見上げるとどうやら雅樹がサインに応じているらしい。
(珍しいな。今までこんなことなかったのに……)
完璧主義で硬派なイメージの雅樹はサインに応じたことはなかった。観客に提供するのは自分の演奏であり、それ以外を切り売りするつもりはないというスタンスを徹底していた。だからファンサービスの類はいつも避けていたはずだった。
一体どういう風の吹き回しだろうと俊介が訝しげに見つめていると視線に気づいたのか雅樹が顔をあげた。
「あ……」
サインの要求を切り上げるとこちらへと向かってくる。
「え……ええっ」
(ちょ、ちょっと待ってくれよ!)
久しぶりの再会すぎて一体どんなふうに話せばいいのかがわからない。
第一、今まで全く俊介に連絡を一切寄越さなかったくせに今更どうしたのだろう。
親子というよりも子弟関係と評した方がしっくりくるくらいに、雅樹との関係は淡白なものであった。
(気持ちの準備が整わないってば……)
しかしそんな俊介などお構いなしに雅樹は話しかけてきた。
「久しぶりだな」
記憶の雅樹通り、低くて平坦な声だった。
小さい頃は感情の起伏が分かりづらくて怖い父親だと思っていた。
大人になれば少しは理解できるのではという期待もあったが、今こうして面と向かっていてもその心情は測り知れなかった。
「え……ああ。うん」
二人の間に重たい空気が流れる。
家族であるのに正直蒼太の方が話しやすいくらいだ。
数年離れている間にどう接したらいいのか完全に見失っていた。
「まだピアノを弾いていると聞いたが……」
「あ……うん。まあでも、まだ人前ではちょっと……」
「知っている。母さんから聞いているからな」
家を出てからも定期的に母親にだけは連絡をしていた。
しかしまさかそれを父親に伝えていたとは知らなかったけど。
「俊介……」
名前を呼ばれただけなのに心臓がえぐられるように痛む。
この声で呼ばれると体がすくんでしまう。
くらくらとめまいがして立っているのがやっとだ。
自分が呼ばれるときは決まってレッスンの時だった。
そしてこんなふうに少し低くて平坦な声色で呼ばれた時は決まってピアノのことで叱られるのだ。
「もう、ピアノをやめろ」
「……はっ?」
肺が軋んだような音がした。
今……なんて言った?
言葉にすることもできなくて思わず父親の顔を見た。
しかし無表情の顔からは相変わらず何の感情も読み取ることが出来そうもない。
「もう一度言う。ピアノをやめろ。お前には向いてない」
「そんなこと……」
そんなことないと断言できなかった。
遥か天上にいる世界を股にかけている相手に強気に言えるはずもなかった。
反論出来ないようなほどの圧が体に降り注ぐ。
確かにそうかもしれない。
人前で上手く弾けなくなってだいぶ経つ。
それからなんとか弾けるようにと必死で技術を磨いてきた。
その結果がどうだろう?
未だに自分は人前での演奏を克服できていない。
たった一人誰かが見ているだけで音が崩れる。
自分の本来の演奏が出来ないでいる。
もうそんな状態になって数年があっという間に過ぎた。
しかも治る見込みは全く見出せない。
(いやむしろ最初から自分になど才能なんかなかったのかもしれない……)
俊介はショックで項垂れる。
こうして圧倒的な相手から現実を突きつけられて言葉を無くした。
「音大も退学するんだ。他の一般大学に入り直すのなら、その受験費用も学費も私が出そう。もう一度言うがピアノは諦めろ。他の大学でやり直せばいい。また今の下宿も引き払え。実家に帰ってくればいい」
「……」
いつもならそれでも必死で抵抗しただろう。
しかし、先ほどまで完璧なラフマニノフ。
あれを見せつけられてしまっては抗う余力も残されていなかった。
「俊介、父さんの言うことを聞くんだ」
ああ、そうだ。
父さんがそう言うならば違いない。
俺にはやっぱり才能なんかなかったんだ。
それにピアノさえ諦めてしまえば楽になれる。
必要以上に練習で時間を取られることもないし、学費のためにバイトをしなくってもいい。
まるで甘い誘惑のように俊介の気持ちは傾いていく。
別にプロになんかならなくったってアマチュアで趣味でやっていけばいいじゃないか。
今まで必死で努力を重ねてきた心が均衡をなくしていく。
そうだ、全部捨てて仕舞えば楽になる。
こんなふうに打ちひしがれた気持ちにもならなくて済む。
それは今の俊介にとっては甘美な誘いだった。
気持ちが楽な道へと傾いていく。
(そうだ、父さんの言う通り。ピアノをやめてしまえばいい)
そうすればこんな追い詰められた気持ちから解放される。
その方がずっといい。
言われるがまま、誘惑されるかのように父親の手を取ろうとした時だった。
「ダメだよ……」
自分と父親の間に蒼太が立ちはだかっていた。
敵対心を剥き出しにして雅樹を睨みつけている。
「蒼太……?」
「なんだね、君は……」
雅樹の左眉がぴくりと跳ね上がる。
むき身のナイフのような雅樹の凄みにも蒼太は一歩も引かなかった。
「文句を言うのはこっちの方だよ。いきなり何を突然自分の息子に音楽を諦めさせようとしてるのさ。それに俊介も俊介だよ。こんな理不尽なこと言われて黙ってるなんてありえない。言い返してやればいいのに」
「お……おう」
らしくもなく怒りをあらわにする蒼太に圧倒される。
蒼太は再び雅樹を見上げてきりっとした視線を向ける。
「言っとくけど俊介からピアノを取り上げるなんて許さない。貴方は確かに実力のあるピアニストで俊介よりもキャリアも上だ。でもだからと言って俊介が一番大切にしているものを言葉一つで諦めさせようとするなんて横暴すぎる」
「これは私と俊介の問題だ。家族の話に首を突っ込まないでくれるかな?」
「残念だけど、無理。言っとくけどね。家族の問題に無理矢理関わってきたのは俊介の方が先だからね」
ぶっきらぼうにそう言うと蒼太は俊介の手を取る。
「もう帰ろうよ、ここにいると君はダメになる」
「待て。私の話はまだ終わってない」
「蒼太はピアノをやめないよ。とあるお客さんのため楽曲を弾いてくれることになってる。それに息子のこと……、まだ自分のいいように出来ると思ったら大間違いだ」
射殺すような視線で睨みつけた。
しかしまるで相手にされていないように鼻で笑われる。
それが余計に腹立たしくて蒼太の眉間に深い皺が刻まれた。
「俊介、付き合う相手は考えた方がいい。この子はまるでわかってない。どうせ音楽も知らないんだろう? だったら君が出てくる幕はない。息子が人前で演奏できないのは今に始まったことじゃない。詳しいことはわからないがそのお客さんというのにも失礼だろう。私が適任を紹介しよう。ここに連絡してくれればいい」
胸元のポケットから雅樹がそっと名刺を取り出す。
しかし一瞥した後、蒼太はその手をぱんと振り払った。
「悪いけど必要ない。僕は蒼太のピアノがいいんだ。他の誰でもなくね。それに蒼太はきっと乗り越える。いつまでも自分がいないと何もできない子供じゃないんだ。それを俊介と一緒に証明する。今のうちに見ているがいいよ」
「え……、あっ。ちょっと……」
ぐっと腕を引っ張られて会場の外へと連れ出される。
途端に蒸したむわっとした空気が二人を包んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます