第25話 荒療治

 はっとして見上げると蒼太が真っ直ぐな瞳で俊介のことを見つめている。


「いや……、俺は無理だ。知ってるだろ? 俺は人前で演奏できないんだから……」


 蒼太はむっとした顔で口を開く。


「僕は……、君じゃなくちゃいやだよ」

「……って言われてもなあ」


 思わず目を背けようとするとぐっと襟元を引っ張られた。


「逃げないでよ」

「逃げてなんか……」

「日和らないでよ。僕にあれだけ強気で言っておいて君が腹を括らないなんて許さないから。それに君が弾かないんだったら僕は作りたくない」

「そんなこと言われても。他にちゃんと弾けるやつの方が……」


 蒼太の指がそっと俊介の頬に伸びる。

 そのまま頬を強くつねられて俊介は目を見張った。


「にゃ……にゃにするんだ……」

「君が! 弾くんだよ!」


 蒼太の手がぱっと離れる。

 俊介は頬をさすりながら弱々しく呟いた。


「……でも」

「僕のこと散々引っ掻き回しておいて自分だけ逃げようだなんて許さないよ」

「引っ掻き回してなんか……」

「別に君だけが頑張るわけじゃない。僕だって手伝うから。二人で乗り越えるんだよ」


 蒼太の手がぐっと俊介の腕の付け根を握った。

 まるで逃げるなと言っているようだった。

 強い決心が注がれてくるようで胸がひりつくような気がする。

 技術を考えれば自分よりも適任者はいっぱいいる。

 それこそ俊介の大学には星の数ほどいるのだ。

 でもそれでも蒼太は俊介のピアノがいいと言っている。 

 俊介はなんだかくすぐったい気持ちになった。 

 お前のピアノがいいなんて言われたのは久しぶりだ。

 それこそ大昔父親に言われたきりだと思う。

 胸のうちが熱くなるのが分かる。

 誰かに必要とされるのは素直に嬉しい。

 少しだけむず痒さを覚えるけれど、蒼太が必要としてくれるなら頑張る価値は十分にあると思う。

 俊介はぐっと握り拳を作った。


「わかったよ……。お前が頑張ったのに俺が何もしないなんてフェアじゃないもんな」


 頬をぽりぽりと掻いて蒼太に向き直る。

 真っ直ぐな視線が心地よかった。

 何かを乗り越えたという事実がこんなにも人の表情を様変わりさせるなど知らなかった。

 自分も同じようになりたい。

 今までピアノに少し後ろめたさを感じていたのに一歩だけ先に進めたようなそんな気持ちになった。


「俺も克服して……お前の頑張りにふさわしい俺になるよ」


 蒼太がそっと微笑んだ。

 少しはにかむような顔が今までの背伸びした表情じゃなくて年相応の少年のように見えた。


「ふん。まあ、いいんじゃない。今はそれでもさ」


 そっと本の埃を払って立ち上がる。

 ぐっと伸びをすると俊介に振り返った。


「だったらさ、早速おいでよ」


 おいで? 

 おいでとは一体何のことだろう? どこに?


「え? だってもう目標の本は見つかったんじゃ……」


 蒼太は指先をさっと払う仕草をして俊介に冷たい視線を向けた。


「僕はいいんだよ。もう解決したも同然だから。問題は君。さっき誓ったの忘れたの?」

「へ……。え……?」


 わけもわからずにただ蒼太の顔を見上げているとはあとため息をつかれた。


「ほら立って。早速、始めるよ」

「え……ええ?」


 引きずるように俊介を立たせると蒼太は母屋を出てトロイメライへと向かう。

 フロアのドアを開けて向かったのは飴色の年代もののスタンウェイ。

 俊介は椅子にどかりと座らせると蒼太はふんと鼻を鳴らした。


「ほら見てるからさ。とりあえず弾いてみなよ」

「え? いきなりかよ! いや……えっと。しかしだな」


 蒼太の否応がない視線が俊介の顔をとらえる。


「……わかった」


 俊介がそっと鍵盤に指を置く。

 目を瞑って曲の情景を思い浮かべる。

 どんな風景でどんな人が歩いているのか。天気は? 風は? 音はどんなふうに聞こえてくる?

 頭の中で絵を描く。

 曲の解釈は人によって様々だけれども俊介はいつも頭の中に描いたビジョンをもとに構成を考えていった。 

 指が滑るように動く。

 その淀みのない旋律に蒼太は息を飲んだ。

 しかしふっとその呼吸が唇からこぼれた瞬間、俊介の小指が一瞬ぎこちなく揺らいだ。


「あ……っ」


 一瞬のミス。


 しかしそれは今まで俊介が練り上げた楽曲の世界を崩すのには十分だった。 

 まるで砂の城が細波に消えていくように次々に纏まっていた音が崩れていくのが分かる。

 そんな様子を俊介が気づいていないはずもなかった。

 必死になって崩壊を止めようと歯を食いしばる。

 少しでも意識が音楽の世界に戻れるようにと集中する。

 しかし一度ぼろぼろになったものを修復することは難しかった。

 しばらく俊介は奮闘していたが、ふと手が止まった。

 そこで演奏が終わったんだと気づいた。


「ひどいもんだろ?」

「いいや……」


 実際、途中で崩れなければ見事なものだったと思う。

 しかし一瞬ダメになってしまったら持ち堪えるのは至難の技に見えた。

 実際俊介は非常に心を砕いていたと思うが曲を取り戻すことは出来なかった。


「どうして崩れたんだろう? それまではよかったのに」

「言っただろ? 人前じゃあ難しいって。いや、正しくは人の気配がする場所は難しいんだ」

「気配?」


 俊介はゆっくりと頷く。

 その顔は暗く、いつもの俊介からは到底考えられないくらいに疲労が滲んでいる。


「ああ、なんていうか。人に見られてるのを実感するとダメなんだ。なんか自分が不安なのを見透かされてるっていうか。それまでは楽曲を楽しもうとか、世界をちゃんと表現しようって考えてるのに途端に指が動かなくなる……。俺はそれをラフマニノフの幻影って呼んでるんだけど」

「ラフマニノフ?」

「そ。ロシアの有名な作曲家。超技巧曲が有名でさ。昔俺はそれを父親にレッスン受けてコンクールで発表する予定だったんだ」


 今でも思い出すだけで指先がぞわりとする

 体に突き刺さる視線の痛みはあれから数年たった今でも忘れる事はできない。

 あれからまるで幽霊に取り憑かれたかのようにピアノを弾こうとすると途中で上手く指が動かなくなった。

 まるで幻影に怯えるかのように。


「結果は散々だった。それから俺は舞台の上で何もできなくなったんだ。せっかく父さんにいろいろ教えてもらったのに全部台無しだった」

「それ、病院に行った? 薬とか治療とかなかったの?」

「医者には見せたけどさっぱりだった。多分レッスンの重圧によるストレスって言われたけど。でもそれからどんな治療をしても一向に治らない。あの日、俺の音楽はどこかに消えてしまったんだと思う」

「……」


 蒼太は指先を顎につけて考え込む仕草をした。


「なあ、さっきも言ったけどやっぱり俺じゃなくて誰か他の適任なやつを紹介しようか? 大学にだったらきっと俺よりも上手いやつがいっぱいいるはずだし……」

「嫌。言ったでしょ? 君じゃなかったら僕だって作らないから。次に同じこと言ったら引っ叩くからね。そんなことよりも自分がどうしたら演奏できるようになるか知恵を絞ったら?」

「って言われてもな……」


 俊介が腕組みをしながら天を仰いだ。


「正直それが分かったら苦労してないし」

「うーん……。そうだよね……」


 二人で頭を悩ませるもいい案は浮かばなかった。


「ちょっと休憩しようか。珈琲淹れて来るね」

 蒼太はそう言うと厨房へと消えていった。

「どうすればいいのかなんてなあ……」


 俊介は頭を捻らせる。


(一人のときはなんとか上手いこと昔の弾き方に持っていけるのになあ)


 スタンウェイに近づき、そっと鍵盤に手を置いて弾き始める。

 さっきは中盤で音がばらけてしまった。

 やっぱり人の気配がするとどうも上手くいかない。

 意識した瞬間に指先が急に重くなって動きづらくなってしまう。

 そうしたら最後、そこから持ち直すことが出来ないのだ。

 ぐっと踏ん張ってそのまま演奏することができればいいのだが。

 そういえば蒼太は病院を話題に出していたけれど、治療できたらどんなに楽だっただろう。


(何か荒療治みたいなことが起こればいいのに……)


 背中を無理矢理押してくれるようなことが起こればこのような袋小路に入った状態から脱することもできるのではないだろうか。

 自分の音楽を取り戻す、いいきっかけが。

 その時、きいいという音を立ててトロイメライの戸がゆっくりと開いた。


「あれ……? 二人ともこんな時間に何やってるの?」


 戸口を開いて顔を覗かせたのは十四郎だった。


「おかえり。俊介に試作品を食べて貰ってただけだよ」

「そうだったのかい。ああ、ちょうどいい。俊介君にこれを渡そうと思ってさ」

「え? ……はい」


 手渡されたのはチケットだった。

 その印字された文字に俊介の視線は思わず引き寄せられる。


「矢地尾、雅樹……」

「そうなんだよ。君のお父さん、これからコンサートなんだってね。さっき商店街の人に貰っちゃった。僕も行きたったけど腰の調子が悪くてね。それに僕よりも俊介君の方が興味あるかなあって思ってさ」

「あ……、いえ。その……」


 こういう時なんて言って断ればいいのだろう。

 正直父親には合わせる顔がなかった。

 自分がコンサートでヘマをしてからというもの、まるで興味を無くしたかのように父は自分との関わりを絶ってしまったからだ。

 最後に話したのはいつ頃だろう。

 大学進学後は実家にも帰ってないから行けば数年ぶりに顔を合わせることになる。

 もちろん一観客の自分に気づくわけがないと思うけれど。

 でも同じ空間にいること自体に後ろめたさを感じてしまう。

 二の足を踏んでしまうのはそれだけではない。

 いく前から分かるのだ。

 父親の演奏を目の前にした時、自分がどんなに衝撃を受けるかということが。


「すみませんが……、俺は」


 断ろうとした時、後ろからにゅっと手が伸びて二人分のチケットが奪われた。


「ありがとうおじいちゃん。俊介と二人で行ってくるよ。ほら行くよ」

「え……、ちょっと待てよ」


 トロイメライを後にする蒼太の背中を追いかける。


「待てったら……」

「うわ。これ場所が関内じゃん。今からタクシー捕まるかな?」

「いや。人の話聞けよ」

「なんだよ」


 蒼太が振り返る。


「一体どう言うつもりだよ。俺は行くなんて決めてないぞ」

「何言ってるの。せっかくの機会なんだし見て損はないんじゃないの」

「って言ってもなあ……」


 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


「お父さんのこと、嫌いなの?」

「いや……そんな事はないけど」

「じゃあいいでしょ? 僕は楽しみだな。久しぶりにホールコンサートだなんて」


 浮き足立つ蒼太をよそに俊介の顔は固かった。

 運よくベーリックホール前でタクシーを拾い、関内へと向かう。 

 すっかり日は落ちて、夜の街がきらびやかになる。

 流れる夜景を車窓から見ていたが俊介は終始無言だった。


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