第23話 ピアノを弾いてよ

 諦めたかのようにまぶたをそっと伏せた時だった。


 ポン……。


 そう、音がしたような気がした。

 これだけ雨音がうるさいくらいに響いているのに、確かに白い鍵盤の音が耳にくっきりと残っている。

 引き寄せられるようにそっと戸を押すときぃと小さな軋んだ音を立ててドアがゆっくりと開いた。

 中はがらんとしていて誰もいないようだ。

 また勝手にして咎められるかもしれないというのに、まるで引き寄せられるように俊介はゆっくりと足を踏み入れる。 


 古びた床が軋む。 

 そっと近づく。

この部屋には自分以外は誰もいない。

 視線の先には年代もののスタンウェイが俊介を待っていたかのようにひっそりと置いてある。

 飴色のような肌にそっと手を触れる。

 指先が鍵盤に落ち着いた。

 しっとりとしていて冷たくて心地いい。

 お前の落ち着く場所はここなのだと主張しているかのようだ。

 椅子に座り、白鍵を弾いた。

 まるで俊介の手を招いているように胸がときめくような音色が紡ぎ出されていく。

 ああ、あの日と同じ自分の音が取り戻せている感覚が蘇る。

 いつでもこの音色が出せるのならどんなにいだろう。

 誰の視線があってもこの音が紡ぎ出せられるのなら。

 そう、誰かに見られていたって。


「いつも音の世界の中に入って行けたらいいのに……」


 ガタン。

 はっとしてピアノから手を離す。

 視線を向けると驚いた顔の灰色の瞳が俊介を捉えた。


「……蒼太」

「君は本当……、勝手に人んちの物に触るのが好きだよね」


 憎まれ口に覇気はない。

 綺麗な顔も少しだけやつれているような気がした。


(寝不足なのか……)


 髪の艶がなくてパサついている。いつもきっちりしている印象があるのに服はシャツにゆるっとしたパンツスタイルだった。なんだか彼らしからぬ姿に見えた。

 二人とも何も言わなかった。

 どう言葉にして今の二人をつなぎ合わせたらいいのかが全く分からなかったからだ。

 見つめあったまま時間だけが過ぎていく。

雨の音がよりいっそう大きくなった時に口を開いたのは俊介だった。


「ごめん……」


 ぽつり。

 まるで黒鍵を人差し指でそっと押したような声だった。

 心の柔いところを隠しているような呟きだった。


「ごめんな。俺……帰るわ」


 すっと立とうとする俊介に蒼太がそっと近づく。

 そのまま目の前に立って澄んだ瞳でじっと、俊介の心の中を見透かすかのような瞳の強さ見つめていた。


「……」


 俊介は静かに目を閉じる。

 審判を待つ囚人のように。

 静かに。

 しかし、予想に反して何も起きなくてそっと目を開ける。

 蒼太は立ったままだった。


「何してるんだ?」

「いいじゃない。だってここは僕の家だもの」


 確かにそうだな。

 そう思いつつも蒼太は無言になった。


「なんていうか、お前に打たれると思った」

「打たれたいの?」

「いや。そんなわけないだろ。打たれても当たり前だと思ってる」

「……」


 蒼太はそのグレーの瞳を瞬きした後、首を小さく傾げた。


「お前にひどいこと言っただろう?」

「ああ……あれは。まあ、そうだけど……」


 蒼太にしては歯切れの悪い口ぶりだった。


「あれは僕も悪かったし」

「へえ、お前でも謝ることはあるんだな」

「僕のことなんだと思ってるの」


 蒼太は困ったように笑った。


「座ってなよ。なんか淹れるから」

「ああ」


 厨房に行った蒼太が二人分のカップを持ってきた。


「ちょうどミルクがあったからココアにしたよ。甘さが足りないなら砂糖を入れて。そこにあるから」


 カップを受け取ってそっと口をつける。

 ふわりとした甘さが鼻をくすぐる。

 ほんのりと伝わる温かさに自分の体がだいぶ冷えていることに気づいた。


「……」

「聞かないのか?」

「何が?」

「俺がここに来た理由」


 蒼太はくすりと笑った。


「怒りに来たのかなって思った」

「怒る?」

「そう。偉そうに君に向き合いなよって言ったこと」

「ああ、あれね……」


 俊介は頬をぽりぽりとかいた。


「怒る気にもなれなかったよ。至極真っ当すぎて。自分の痛いところを突かれたなって思った。未練たらたらで向き合ってなくて……。正直今でもお前の前に出てくる資格なんてないんじゃないかって思ってる」

「そんなこと僕だって同じだよ」

「いやお前は努力を重ねてたじゃないか。俺は……なんもしてない」

「実は克服しようとしてる」

「できてなければ意味がない。見せられなければプロじゃない。料理人だってピアニストだって同じだろう?」

「それは……。でも努力してるんでしょ? そしたら……」

「もうピアノやめろって言われたんだ」

「……え」


 ひゅっと息を飲む音が聞こえた。


 眉間に驚愕の色を載せる表情に苦笑する。


「教授にさ。諦めろって。技術はあるのかもしれないけど、やっぱり俺がやってるのは音楽になってないってさ。人前に出れば音がばらける。それじゃあ人の心を打つ音楽にはならないって」


 俊介が項垂れる。

 雨が降ってはいないのにまるでびしょ濡れになった子猫のようにその体はいつもよりも小さく見えた。


「もう何年も前からやめろって言われてた。俺は好きだからどうしても諦めきれなくて。少しでも良くなりそうだと思って頑張ってる……。でもちっとも結果が出ないんだ。もう何年もずっとこの調子。正直俺はどうすればいいのかわからない」

「……」

「苦しいよ。どうしたらいいんだ。今も昔もピアノが好きで。一番気持ちが傾けられるものなのにうまくいかない。その間に周りはどんどん俺の音楽を置いていってしまう……」


 俊介はそっと笑った。

 その笑顔があまりにも悲しくて胸がギュッと締め付けられそうになる。

 胸のうちはきっと苦しい。

 かき乱したいほどの痛みがのたうちまわっているのだと蒼太は察した。 

 それは蒼太も同じ感情を持っていたから分かる。


「でもお前は俺とは違う。あと一歩のきっかけさえあれば、前進できる。俺と違って壁を乗り越えられると思うんだ。だから俺はお前のことを諦められない。俺と同じみたいにずっと立ち止まって堂々巡りなんかしてるのを見ていられないんだ……」

「無理だよ……」

「できる。俺が手伝う。力を貸すよ」


 蒼太の長いまつげがそっと伏せられる。


「一体何がお前にそうさせる? 話してみてくれよ……、それともお前に取って俺はまだ信用できないのか?」


蒼太は口を開くが、すぐに硬く閉じてしまう。


「ゆっくりでいいし。話せるだけでいい。何もお前を責めたいとかそういうんじゃない。力になりたいんだ」


しばらく雨の音が二人を包んだのち、蒼太の瞳に静かに輝きが灯った。

 視線がそっとスタンウエイに向けられる。


「ピアノがね、嫌いなんだよ僕。よく母さんが弾いてたからさ。僕の思い出って母さんがおピアノを弾いて父さんが料理を作る。そんな日常だった」


 蒼太の長い指先がそっと飴色の肌を撫でる。


「正義感の強い人だった。僕が道路に出て事故にあった時に庇って。運良く病院に運ばれたけど二人を助けるのは無理だって。わかり切った顔をして僕の体をお医者さんに差し出したみたい。その結果僕は母さんを犠牲にして生き残ってしまったんだ」


 雨の音が激しくなる。

 窓の外は風が荒々しく吹いていて、庭の木々が泣いているように軋んだ音を立てた。


「その後すぐだった。父さんが家から出ていったのは。料理人修行とか言っていたけど十分実力のある人だったから今更そんなこと必要ない。だからきっと僕を恨んでるんだ。僕のせいで母さんが死んでしまったから……」


 声が次第に弱々しくなっていく。


「おじいちゃんはここを閉めようとしていたみたい。さすがに高齢だし、料理人がいないとあれば開いている意味なんてない。それでもここは僕と家族の思い出の詰まった場所だ。守りたくて必死で勉強してなんとかトロイメライを引き継いで……。ここには父さんが残したレシピがいっぱいあった。でもそれに頼ってしまったらきっとまた子供だって飽きられちゃう。だから自分の力でなんとか歯を食いしばって頑張ってた……。でも寂しい。いくら腕をあげても、いくらお金を稼いでも父さんも母さんも僕のもとにはもう帰ってこないから……」

「蒼太……」


 ギュッと握られた拳に俊介はそっと自分の掌を重ねた。


「別にお前のこと嫌いとかじゃないんだ本当は……。お前と出会った日、お前がピアノを弾いているのを見て目が離せなかった。トロイメライは母さんが好きな曲だったから……。ひょっとしたら帰って来てくれたんじゃないかって。そんなこと……あるわけないのに」


 そっと掌を目に当てた。


「ピアノは嫌だったんだ。母さんを思い出すから。僕のせいで死んでしまったのに。僕はまだ母さんのことを乗り越えられてないんだ。音が聞こえるたびに死んでしまったことを思い出す。お前のせいなんだって言われているような気がするんだ。だからピアノを見るたびに自分の惨めさを感じてしまう。本当は辛いよ……。ここには昔の幸せな思い出ばかりが詰まっている……。何かあるたびにあの日の母さんがまだ生きてるような気がして……」


 雨音に嗚咽が混じる。

 項垂れている蒼太の顔は分からない。


「きっと父さんも僕のことを恨んでるに違いない……。僕のせいで自分の最愛の人が亡くなってしまったのだから当然だ。それだったら突然僕を置いて家を出ていってしまったのも肯ける。だから……、だから。あの日本当に死ぬべきだったのは僕の方だったんだ」

「は……?」


 思わず声が溢れた。


「なんだそれ」


 俊介がはっとして体を引き寄せる。

 肩を痛いくらいにぎゅっと握る。


「そんなわけあるかよ。死んでいいだなんて絶対に思ってない。お前が生き残って幸せになって欲しかったに決まってる。もし親父さんがいなくなったらきっと他に理由があるに決まってるだろ」

「でも……」

「もし死んでもいいとか思ってるならそれこそ今のことに向き合えよ。死んでいいなんてあるはずない!」

「……」


 蒼太の目が大きく見開かれる。

 俊介がはっとして我に帰った。


「あ……、いや。ごめん俺また余計なこと言ったわ。めちゃくちゃ偉そうだったし。またやっちまったわ」

「いいよ」


 蒼太は人差し指で眦をそっと拭った。


「いや……そうは言っても何回目って話だし……」


 頬をぽりぽりと掻く俊介の顔を蒼太は真っ直ぐな瞳で見つめる。

 そして意を決したように静かに呟いた。


「だったらお願い」

「?」

「ピアノ弾いてよ」


 俊介は思わず目を見開いた。


「俺、人前だと弾けないって言っただろう? それにピアノ嫌いじゃなかったのか?」

「でも形にはなるんでしょ。じゃなきゃ音大なんて通えるはずがない。それに君の演奏だったら聞いてもいい」

「下手だぞ。知ってるだろ?」


 苦虫を噛み潰したような顔でそういうと蒼太はふっと笑った。


「下手じゃないよ。君は……。君は下手じゃない」


 噛み締めるような口ぶりに俊介は言葉をなくした。

 なんだか蒼太の心のよすがに俊介のピアノがなりそうな気がした。

 こんなこと普段だったら思い上がりだと馬鹿にされそうなものなのに。


「いいでしょ? 今は聴きたい気分なんだ」

「そうは言われてもなあ……」

「何? 一人の時は人の家に勝手に上がって弾くのにお願いしたら断るの?」

「うっ……」 


 弱いところを疲れて思わず詰まる俊介の顔に蒼太が微笑み返す。


「冗談だよ。でも曲が聞きたいのは本当。ねえ、弾いてよ。今日の僕のために」


 拭ったはずの眦が少しだけ輝いたような気がした。

 まるで雨上がりに光る滴のようで俊介はそっと目を細めた。


「わかったよ……。トロイメライでいいんだよな。言っとくけど本当に後で下手とか言うなよ?」

「うん」


 そっと鍵盤に指を置く。 

 ゆっくりと流れる旋律に蒼太は静かにまぶたを下ろした。

 人の気配があるから完璧な演奏とは言えない。

 それでも俊介は少しでも蒼太の心が穏やかなものになるように祈りながら演奏した。

 確かにぎこちなくはある。

 しかしその旋律は何よりも蒼太の心の中を穏やかなものにしていく。


「こうして窓に寄りかかって母さんの曲を聞くのが好きだったんだ。色んな曲を弾いてくれた。あれこれ頼んではよく母さんを困らせていたっけ」


 ふっと笑みを浮かべる。

 その視線はきっと昔の思い出の中に漂っているのだろう。


「幸せだったんだ。父さんがいて母さんがいて、美味しい匂いがいっぱいで。そういう素朴な思い出がここにはたくさんある」


 曲が二人の間を流れていく。

 雨が次第に止んでいく。

 ただゆっくりと流れていく時間。

 曲が引き終わると蒼太が俊介に向き直った。


「ねえ、一緒に来て。父さんの部屋に。レシピを見るから」


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