第22話 雨
空にそっと手をかざすとぽたりと滴が垂れていく。
さわさわと風と雨が新緑の葉を揺らす音が絶えず聞こえてきて、あたりに人の気配がないことをより一層際立たせていた。
そう言えば蒼太と初めて会った日も急に降ってきたんだった。
「何で玉ねぎがって思ったんだよな……」
あれからそんなに経ってないのに随分と昔のように感じる。
感傷に浸る方ではないが今日はそんな思いを馳せるくらいに時間を持て余していた。
山手の坂の上にある山手音大の校舎の中で雨宿りをしているのだが、さっきから随分と待っているのに一向に晴れる気配がない。
こんな時に限って傘持ってきていないなんてついてない。
「あれ? 矢地尾君。帰らないのかい?」
後ろから声をかけられて振り返る。
「教授じゃないですか。どうしたんです? まだレッスンでしょ?」
中肉中背のまるっとした体で丸みを帯びたお腹を揺らしながら男が歩いてくる。
知らない人が見れば冴えないサラリーマンにしか見えない。
歴史のある山手音大の中でも若くして教授のポジションにつくだけあって優秀さはお墨付きである。そろそろ中年に差し掛かろうとしているが本人はアンチエイチングに勤しんでいるというのが彼の趣味だった。
「それが電車が雨で遅延だってさ。しょうがないから珈琲でもと思ってね」
右手に握られた空き缶を見て俊介は納得した。
「矢地尾君はどうしたんだい?」
「いやあ、俺。こんな日に限って手ぶらで……」
「ああ、じゃあ僕のを貸して上げるよ。次のレッスンの時に返してくれればいいからさ」
教授がヨタヨタと歩き、校舎の入り口脇からモスグリーンの傘を手渡してくれた。
「ありがとうございます」
「うん。ところで矢地尾君。さっき言ったとこと悪く思わないでね」
「もちろんですよ。俺のことを考えてくれたって思ってますから。それにここまで諦めないでくれたの。俺、嬉しかったですし」
教授のボサボサの眉が八の字になるのに苦笑した。
「じゃあお言葉に甘えてこれ借りていきますね。それじゃあ教授。また次のレッスンで」
傘を開き雨の中へと足を踏み入れる。
木々が生茂るキャンパスだから昼間なのに当たりはだいぶ暗い。
雨が落ちる音がまるでマリンバのようだと思った。
ピアノでも雨の楽曲は多い。
昔、課題曲の中でも良く弾いたものだ。
「雨……か」
最初にトロイメライに行った時も雨が降っていた。
入るなり視線がスタンウェイに引き寄せられた。
あのアンティークのピアノは見事だった。ちょっと音を出すだけで本当に心が躍るように指が動いた。
(ここ最近では一番昔に近かったかもしれないな)
ピアノの良し悪しは俊介の演奏にあまり関係はないと思っていた。
だがあの年代もののピアノはどこか俊介の肩の力を抜かせ、本来の力を引き出してくれるようだった。
いや……違う。
「めちゃくちゃ頑張ってるやつがいる店だから。知らない間に感化されてたのかもな」
ぽつりと呟いた。
あれから店にバイトには言っている。しかし蒼太には会ってない。
今は及川が厨房に立つことが多いらしく休みがちなのだと観月から聞いた。
「俺のせいなのかな……やっぱり」
人の領域に土足で踏み入るようなことをしてしまったのだと帰って頭を冷やした。
謝るべきだと思った。
でもその時にはすでに後の祭りで、わざと会わないようにしているのかシフトが全然かぶらない。
こんな時にどういう風に振る舞えばいいのだろう。
俊介は明確な答えを持ち合わせていなかった。
直に会って謝るべきだという考えとお節介だと言われたじゃないかこういうときはそっとしておくべきだという声が自分の中で鬩ぎ合っている。
「そもそも会ってくれるかも確かじゃないしな……」
俊介がぽつりと呟いた。
雨は未だ空から土砂降りのように降り注いでいる。
予報ではさらに激しいものになるらしい。
まだ雨脚が弱いうちに早く家に帰ったほうがよさそうだ。
そうこう考えているうちに校舎を出て車道に突き当たった。
右に行って坂を降りれば家だし、左に突っ切っていけばトロイメライだ。
「……」
今更蒼太に何が言えるのかなんて分からない。
人の家庭のことだ。
ずかずか入っていっていいわけがない。
(でも……)
まだまぶたの裏には蒼太の悲痛な表情がまだ張り付いている。
あの後、半ば放心して逃げるように立ち去ってしまったけど蒼太はどうしたのだろう。
「いや、きっと怒って、俺のことなんてもう二度と見たくないって思ってるに違いないさ」
考えれば最初からあまりいい印象を持たれていなかったようにも思える。
だとすればあれだけ怒り心頭だったのもうなずける話だった。
「帰ろうかな……」
雨音が強くなる。
空気がしんみりとしてまだ濡れてないのに体まで重くなってしまいそうになる。
遠くピアノの音がする。
きっと生徒の誰かが弾いてるのだろう。
綺麗な曲だ。
自分と違って滑らかで心がほぐれていくようなそんな音だ。
『あるでしょ? 自分こそちゃんと向き合いなよ。でなければフェアじゃない。僕に話す前に自分のことちゃんと振り返ったら?』
そう突きつけられた時、何も言えなかった。
本当に心からそうだと思うのと同時に、蒼太に大してなんて失礼だったのだと自分をはじた。
俊介は手を握ったり開いたりした。
雨の音が次第に強く、重く聞こえる。
ずっしりと俊介の足にまとわりついてくるような感覚に胸焼けしそうな気持ちになる。
ピアノの音はもう雨音にかき消されてしまって聞こえない。
まるで音楽の世界からくっきりと区切ってしまったかのようで胸がつまる。
自分の指先から今まで積み上げてきたものが零れ落ちて帰ってこないのかもしれないと俊介はぞわりとした寒気がした。
ああ、こんな時はあったかくなりたい。おいしいものが食べたい。
そう、湯気が立って食べると幸せになれるような味……。
俊介はそっと目を閉じた。
雨は未だ止む気配はない。
嫌われてもいい。
でももし料理をやめてしまったら自分は後悔することになる。
静かに坂に背を向けて左に向かって歩き出した。
雨足はどんどん強くなる。
このままだと土砂降りだ。
体が濡れる。
傘なんてもうあってもなくても同じだった。
靴が染みてくるのなんてお構いなしに歩き続ける。
俊介の横をカップルが手で雨を避けながら走り抜けていく。
元町公園のそばを抜けると、青い屋根が見えてきた。
中は暗くてよく見えない。
その時になって俊介は今日が定休日であることを思い出した。
おそらく裏手の母屋の方には蒼太はいるのかもしれない。
ここまで来てふと俊介は立ち止まった。
このまま会いに来たと言ってベルを鳴らせばいいのだろうか。
「無理だろ」
まかり通るわけがない。
つい足を運んでしまったがこれからどうすればいいのかなんて明白だった。
あれだけ怒らせておいてぬけぬけと会いにきただなんて一体どの口が言えるのだろう。
こういう時に言葉を使わないと気持ちが伝わらないだなんて不自由だ。
先ほどまでに高ぶっていた気持ちが萎んでいくのが分かる。
やはり挫折した自分に蒼太の気持ちに寄り添うなんて無理だ。
諦めたかのようにまぶたをそっと伏せた時だった。
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