第21話 なんか違う

「いただきます」


 しわくちゃの手を合わせて久江はそっと呟いた。


「……」


 ゆっくりとフォークに麺が絡む。

 グランドのナポリタンと同じように十分に寝かせて柔らかくしてある。

 何回か試食させてもらったのだがこれがまた美味い。

 たっぷりとソースが絡まった麺が久江の口の中に消えていく。

 その瞬間、ほうとした表情が久江の顔に浮かんだ。


(いけるんじゃないか……!)


 少し頬に赤みを増した顔で言葉も発さずに口の中に次々と麺が消えていく。

 それはさながら音楽に乗せられているようで俊介は手応えを感じていた。

 ふと蒼太の方に視線を向ければ満足そうな顔をして久江を見つめていた。


(やったな……)


 そんな気持ちを込めて親指を突き立てる。

 一瞬眉間にシワを寄せたが満更でもない。

 どうやら蒼太も俊介と同じ気持ちのようだった。


「美味しかったわ……」


 久江がそっとフォークを置いた。


「そうですか……!」

(いやあそうでしょう! だってあいつ頑張ったもの!)


 思わず自分まで得意げに自慢してしまいそうになる。

 そう思って久江の顔を見た途端、俊介は固まってしまった。


(え……)


 久江の表情は固く、口元に指先を添えて何か考え込んでいるように思えた。


(なんだ? 不味かったのか? いや、そんなことない。すごい嬉しそうに食べていたし、さっきだってうまかったって……)


 そのまま久江の顔を見つめているが、その顔は晴れない。


「何かありました?」


 すかさず蒼太がテーブルに近寄ってくる。 

 きっと俊介と同じように異変を感じ取ったのだろう。

 頬からは血の気が失せている。


「いえね。ちゃんと美味しいわ。美味しいのだけれど……」


 久江はモゴモゴと口元を尖らせていたが、気まずそうに口を開いた。


「何か足りないのよねぇ……」

「え……?」

「足りない、とは?」


 蒼太の口元が震えているのが分かる。

 そりゃあ無理もない。

 時間と労力をかけてこれだと言う一皿を作り上げたと言うのに違うと言われたらたまったもんじゃない。


「味がおかしいってことですか?」

「いいえ。それがねえ変なのよ。味は完璧。夫と食べたあの日の味そのものなのよ、それなのに……」


 ほとほと困ったような表情で久江はため息をついた。


「なんなのかしら。なんか違うのよねぇ。違和感が拭えなくて……。どうもぽっかり穴が空いたようなそんな感じなのよ。一体それがなんなのか私にもさっぱり分からないわ。でもあの日感じた一皿ではないってことは確かなのよね……」

「……っ」


 蒼太の顔がさっと真っ白になる。


「ひ、久江さん。さすがにそれはちょっと」


 言いすぎた。

なんでそんなに違うってはっきり言うんだ。

 なんて言うかもっとオブラートに包んで欲しい。

 それくらいの思いやりがあってもいいんじゃないか。

 咎める気はないけれど、さすがに蒼太が可哀想だった。


「ええ、もちろん分かってるわ。でもそれくらいに私はあの日のナポリタンが食べたかったのよ……。夫との思い出に浸りたかったの……」


 久江は重いため息をついた。

 しかし一番浮かばれたなかったのは蒼太だった。

 人の記憶という曖昧なものを再現しようとした彼の努力は報われるべきだと俊介は思った。


「身勝手だってのも承知してるわ。私のわがままに付き合わせてしまってごめんなさいね。二人とも。でもナポリタンはとてもとても美味しかったわ。それだけはちゃんとわかってね」


 久江は静かにお辞儀をするとトロイメライを出て行った。

 カランと音がして店内が音一つなく静かになる。

 暗くてしいんとした空間。

 その中に俊介と蒼太は二人きりになった。


 カランと音がして店内が音一つなく静かになる。

 暗くてしいんとした空間。

 その中に俊介と蒼太は二人きりになった。


「……」


 蒼太は呆然としていたがやがてテーブルの上の皿をとって厨房へと戻っていく。

 無言だった。

 素振りだけ見ればいつもの蒼太と変わりがなかったが落胆し傷ついているのは明確だった。


「あ……」

(こう言うときどんなふうに声を掛ければいいんだろう)


 期待が大きかっただけに、落胆も膨れ上がる。

 どんな顔をしていたのか俊介は見ることすら憚られた。

 味は完璧だったのに違うと言う。

 しかも一体何が悪かったのか本人すら分からない。

 観月はクレーマーだと言っていたが本当に心底同意せざるを得なかった。

 あまりにも身勝手すぎると俊介も思った。

 蒼太の努力が水の泡になってしまったのをどうやって慰めればいいのか分からない。


(いや……慰めるなんてこと自体がもう蒼太に対する侮辱なのかもしれない)


 自分が蒼太の立場だったら正直久江に食ってかかったと思う。

 思い出の一皿を再現するために費やした時間も労力もただじゃない。

 無駄になってしまった喪失感からきっと頭に血が上ってしまったに違いなかった。


(それなのにあいつはただぐっと我慢してる。戦ってる……)


 一番辛いのは蒼太だ。

 きっと胸の内に暴れまわる落胆した気持ちと闘っているはずだ。

 あいつのために一体今自分は何が出来るだろう。 

 俊介は頭を悩ませた。

 こんなふうに誰かのために何かしたいと思うことことこそが初めてだった。


「いや……多分だけど。自分から出来る事って何にもないのかもしれない」


 技量で勝負するのはピアノも同じだ。

 まだ弾けていた時、時折上手く指がついていかない事があった。

 そんな時励ましてくれる人もいたけれど父親は何にも言わなかった。

 それは技術がないから辛い思いをするのだというのが彼の主張だった。


『多分そんなことをしても慰めにはならない。どんな形であれ技量が足りないことには変わりない。プロであるならば自分がもう一度這い上がってこようとするものだ。そうでなければ技術で生きる人間ではない』


 俊介は店の奥を見つめた。


(それでも今、放っておくことはやっぱりできないな)


 励ますことができなければ、せめて寄り添いたいとは思う。


(もしあいつが何か言いそうになるのであれば聞こう。黙っているのならそれまでだ。言いたくないか、それとも言う価値がないくらい俺が信用されてないだけか……)


 厨房にゆっくりと近づき、そっと中を伺った。

 蒼太は流しで洗い物を片付けていた。

 いつもと同じ光景だ。

 ただ二人の間に流れる空気の重さが違う。


「あの……」

「何?」 


 蒼太はこちらの方を見ようともしない。ただ水の流れる音が響く。


(いやでも実際、なんて言って話しかければいいんだ?)


 こんな時どんな言葉が相手を傷つけずに勇気づけられるのだろうか。

 言葉足らずで返って怒らせてしまわないだろうか。

 むしろ何もそっとしておいたほうが蒼太のためになったりするのかもしれない。


(いや、やっぱり言わないとかそう言うの無理だ! 何を日和ってるんだよ俺。こういう時に何も言えないなんてらしくない!)


 蒼太は声色から落胆して弱気になっているのが分かる。

 無言で助けを呼んでいるように思えた。

 あの強気な蒼太が今、俊介にだけ弱い姿を見せている。

 それは少なからずとも俊介を信用しているからではないのだろうか。

 俊介はたまらずに口を開いた。


「俺は! お前の料理が最高だと思う! すごい頑張ってたし、絶対に美味かった。久江さんはきっと歳取りすぎて忘れてるだけだ! だから……」

「だから元気出せって?」

「ぐ……」

「いいよ。そう言うの」

「いやだ。まるでお前が今までのことなしにしようとしてるみたいでほっとけない」

「何それ……」


 蒼太が鼻で笑った。


「あれだけ偉そうにしておきながら再現できなかっただから仕方ないでしょ」

「しかし普通に考えて人の思い出の味なんて再現できるわけが……」

「できる」


 はっとして顔を上げると、蒼太が真っ直ぐな瞳で俊介を見つめていた。


「あいつならできる」

「あいつ?」 

(蒼太の父親のことか?)


 俊介は待った。

 きっと蒼太が何か他にも言うはずだと思っていたから。

 現に蒼太は口を開いては閉じてを繰り返していたが、次第に諦めたかのようにそっと瞳を伏せた。


「お疲れ。もう帰っていいから」

「蒼太……」


 俊介の言葉に返事をすることなく、背を向けて厨房の掃除に取りかかった。

 俊介はぐっと握り拳を作って、口を開いた。


「見ればいいじゃないか」

「は?」

「その……残されたレシピってやつ」

「……」


 蒼太が絶句したような視線を寄越す。


「何……言ってるの?」

「きっと書いてあるんだろう? 久江さん夫妻が来た時のことだ。だったら久江さんが忘れているあのナポリタンに書いてある足りないものっていうのも記されていると思う」

「だからって……」

「それなら丸く収まるだろ。お前は久江さんの思い出の一皿を完全に再現できる。もう違うとかそんなこと絶対に言わせない。その方が絶対にいい」

「……いやだ」

「なんでだよ? ちょっと見るだけだろ? それにこの店に置いてあるような口ぶりだったじゃないか。目的が目的なんだから勝手に見てもきっと許してくれるはず……」

「そういう問題じゃない!」 


 ピシャリと蒼太の声が厨房に響いた。


「僕は……あいつの手だけは借りたくない」

「蒼太?」

「第一さっきからなんなんだよ! 気遣ったと思えばレシピ見ろとか言っていちいち僕に指図しないでくれる? 鬱陶しいよ!」

「しょうがないだろ! お前のことほっとけないんだから」

「頼んでない!」

「だったらそんな顔するなよ! こっちまで不安になるだろ!」

「捨ておけばいいだろ? 第一これは最初から僕の問題でお前が入る余地なんてちっともなかったんだ。それをずかずかと土足で入るような真似して。ほんっと迷惑!」

「だったら相談しろよ!」

「だからそれが面倒って言ってるの! なんで構うんだよ! 善人のつもりなの?」

「違う! このままだったらお前が料理やめそうな気がしたんだよ!」

「別に僕がやめたっていいでしょ!」

「良くない! 言ったろ。俺と同じようにやりたくても出来なくなることだってあるんだ。そうなって欲しくない」

「なんでそこまでするんだよ」

「お前の料理がめちゃくちゃうまくて、食うと幸せになるからだよ!」

「……」


 蒼太が急に黙り込む。


「俺は人前でピアノが弾けなくなった。どう頑張っても克服できなくて。ごまかしてるけど正直苦しい。今まで当たり前だったことがある日突然ダメになることだってある」


 俊介は無意識に手を開いたり握ったりした。


「お前は才能があるよ。だからこんなことで躓いて欲しくない。そのためだったら別に俺がちょっとくらい嫌味言われたって構わない。俺はお前の才能を諦めきれない」

「なんだよ……何も知らないくせに」

「知らないさ。でもさ、だったら言えばいいだろ? 言わなきゃ分からないだろ? 何がそんな顔をお前にさせるんだ。そんな辛くなる理由がそのレシピにあるのかよ?」

「関係ないでしょ! っていうか、僕のためっていうけど結局自分のためじゃないか」

「は……?」


 俊介は思わず怯んだ。

 自分のため? 

 一体何を言っているんだ?

 俺はお前のためを思って言っているのに。

 言葉をなくした俊介に蒼太が鋭い言葉で追い立てる。


「気付いてないの? 君は結局さ。僕に自分ができなかったことを委ねてるだけじゃないか。自分が躓いて動けないからって。でもさ、僕に偉そうなこというんだったら君こそ乗り越えなくっちゃいけないことがあるでしょ? 」

「乗り越えるって……」

「自分こそ見直しなよ! 未練たらたらじゃないか。それなのにちっとも克服しようとしない。積み上げようとしない」

「……そんなこと」

「あるでしょ? 自分こそちゃんと向き合いなよ。でなければフェアじゃない。僕に話す前に自分のことちゃんと振り返ったら?」

「……」


 頭をガツンと殴られたような衝撃に俊介はただ突っ立ったままでいるしかなかった。

 二人の間に静寂が流れる。

 どれくらい時間が経ったろう。

 無言で蒼太が厨房を出て行ってからも草太はその場に立ち尽くすしかできなかった。

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