第20話 リベンジ

 その日は全く客の入りがなかった。

 きっとその理由は天気のせいだろう。

相変わらずの雨模様で空を見上げながら俊介はため息をついた。


「やまないっすね……」

「本当だね。晴れの日が続いたから今日はテラス席を出そうかなって思ってたけど……」


 観月が肩を竦めて視線を移した。

 窓の向こうには薔薇の植え込みが滴に濡れている。


「気持ちいいんだよ。この辺りは緑が多いから。木陰の中を風がすーって通り抜けるんだ。午後の時間に合わせてくるお客さんもいらっしゃるくらいだし」


 クロスをかけ直しながら俊介は想像した。

 涼しい風を感じながら食べる蒼太の料理は格別だろう。

 きっと一口食べるたびにファンタスティコと言ってしまうくらいに美味いに違いない。

 想像しただけで生唾が滲んでくる。

 早く晴れになればいいのにと俊介は願う。

 予報じゃあ少し長雨になるらしいが止まない雨はない。

 きっと近いうちに楽しめる日が来るに違いない。


「そう言えば俊介君ピアノ弾かなくていいの?」

「え?」

「あ、いや。ここのバイト条件の中にピアノを自由に弾いていいってオーナーから聞いてたからさ」

「あ……、いやちゃんと弾いてますよ。こっそり……」


 はぐらかすかのように笑うと観月は言葉の通りに信じてくれたらしい。


「ふふ。なるほど。単に俺が気づかなかっただけか」

「と言うよりは俺、人前で弾くのがちょっと苦手で……。慣れるようにリハビリ中っていうか……」

「そうなの? まあもし人前で弾く練習がしたいなら言ってね。それに俺も俊介君のピアノは正直気になるから」

「はは……。まあそのうちにでも。しかし少なくとも今日は無理でしょうね……」


 ふと視線を厨房に向けると、蒼太がフライパンを奮っている音がする。

 今日という日のためにしっかりと研究を重ねてきたはずだ。 

 店に来た時から気合の入れ方が違う。

 それも今日迎えるお客様のためだ。


「もうすぐですよね?」

「そうだね、久江さん。通院の時間があるからきっかり三時に来るって言ってたし」


 二人が視線を上げると柱時計が丁度三時を告げた。

 扉が軋んだ音を立ててベルがカランと鳴った。


「どうも、御免くださいませね」

「いらっしゃいませ。お待ちしておりましたよ」


 久江を観月に任せて俊介は厨房に急いで駆け寄った。


「おい! 久江さん、来たぞ!」

「知ってるよ。聞こえたから。いちいち言わなくってもいいよ」


 無愛想に答える蒼太に俊介はもう怒ったりしない。

 そのクールな表情の裏に本心が見え隠れしているのが分かるからだ。


(やっぱり緊張しているよなあ……)


 ちょっとした表情の変化に蒼太の気持ちが分かる。

 最近一緒にいる時間が増えたからか、少しだけ感情の機敏さが分かるようになったと思う。


(最初こそ無愛想で嫌なやつだとは思ったけど単純に真面目でちょっと言葉がシンプルなだけだし……)


そう分かってからは格段に意思の疎通が分かりやすくなったように思えた。

たまに冷たい言葉を吐かれることもある。

 ただそれは集中するために他のことに意識をそがれたくないためだったのだと今なら分かる。

 一緒の時間を過ごすようになって一つずつ、蒼太のことが分かっていく。


 茹でた麺がフライパンに踊る。

 蒼太の顔つきがぐっと締まる。

 最初こそ女の子のようだと思ったけど、料理になると途端凛々しい表情になるのだと知った。

 それはまるで厨房を舞台に奮闘するアスリートのようだと思う。

 練習に付き合うたびに本当にどのタイミングで具材を入れるのか、分量は、麺の茹で時間は。その細部に至るまで細かく計算し、練習し、口に入れたときの食感も考慮していた。

全ては最高のナポリタンにするために心血注いで作りあげていた。


(すごいよな……)


 蒼太の情熱に触れて少しだけ体が震える。

 それだけ蒼太にとって料理が自分の魂をかけるものなのだと分かって尊いものであると感じるくらいに。


(でもどうしてここまで蒼太は駆り立てられるんだろ)


 正直はっきりとは分からない。

 観月の話では父親が関係していると言ってはいた。

 確かに父親を超えたいと言うのは技術を商売にするものとしてはありふれた願望であると思う。

 しかし、時折蒼太が見せる瞳の陰りが俊介の心に引っ掛かりを生んでいた。

 なんだろう。単純な技量のことだけではない。

 もっと深刻な理由が蒼太にはあるのではないか。

 そう思わせるくらいの真剣さが蒼太にはあった。


(いや……だとして俺が首を突っ込んでいいわけないよな。また怒られちまうし……)


 もし万が一彼が立ち止まるようなときがあれば先日のように励ませばいい。

 それが自分にできる最良の行動だと思うから。


「うん……、そうしよう」

「何のこと?」

 はっとして我に返ると怪訝な顔つきの蒼太が呆れた様子で俊介を見ていた。

「何……? またトリップしたの?」

「トリップ?」

「そう。君お得意の妄想の世界に」

「な……っ」


 頬にさっと朱が走る。

 まさに今、蒼太が言った通り自分の思考の中にどっぷり浸かっていたからだ。


「図星?」

「なわけない」

「まあいいよ。それより仕事して。できたからさ」


 蒼太が皿を突き出す。

 食欲のそそられる匂いと湯気がふわりと立ち上がっている。

 思わず腹が鳴りそうになるのを腹筋でぐっと抑えて俊介はその一皿を受け取った。


「大丈夫だ。絶対にうまいって言うって!」

「……そう言う気遣いは余計だよ」 


 相変わらず蒼太の表情は険しい。

 久江がどう出てくるのか分からないからだと思う。


(でも元祖ナポリタンの分析だって完璧だったし、それを応用するのだってこなしたのに今更何かが足りないわけがないよな)


 すでに勝ち誇ったような顔をしていると観月が厨房へとやってくる。


「あーあ、せっかくいいところなのに野暮用だなんてね。ついてない。まあ後で結果を教えてよ。労いの準備して待ってるから」


 手をひらひらとさせる観月にサムズアップで笑い返す。


「任せてくださいよ! 絶対にぎゃふんと言わせてやりますから!」

「なんで君が偉そうなの? ふざけてないでさっさと運んでよ」


 皿を受け取る。

上にはお腹が今にも鳴りそうなほど美味しそうなナポリタン。

 どこから見ても完璧だ。


(ファンタスティコ……! これなら絶対に久江さんも泣いて喜ぶはず!)


 意気揚々として俊介が久江のテーブルにナポリタンを運ぶ。


「まあ、美味しそうねえ!」

「いやあ美味しいですよ。なんて言ったって思い出のナポリタンなんですから」

「……」


 じろり。

 厨房の影で蒼太が睨んだのが分かった。

 余計なことを言うんじゃない。

 そう目が語っているのが分かる。

 でもこれぐらい言ってもバチは当たらないはずだ。それぐらいに蒼太は心血を注いでいたのだから。


「いただきます」


 しわくちゃの手を合わせて久江はそっと呟いた。

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