第19話 元祖ナポリタン

 久しぶりの晴れ間とあって、その日の山下公園はカップルや家族連れで賑わっていた。

 もうすぐ夏が近い。

 吹き抜けてくる海風に熱気が混ざり合っているのが分かる。

 もちろん蒸し暑いのは天気だけではない。

 日曜ともなればこのあたり一帯は地元民だけでなく観光客でごった返す。今日とて実に山手らしい賑わいを見せていた。


 しかしそんな中でも蒼太の容姿は一際目立って見えた。

 いつもと同じジャージ姿の俊介に対して、蒼太はブルーのリネンシャツに黒のスキニーパンツを合わせている。シンプルだからこそ顔面の綺麗さが目立つ。

 本当に容姿端麗とはこいつのことだと思う。 

 たぶん俊介が同じファッションをしてもただの平凡な大学生にしか見えない。

 本来ならこんなイケメンは女の子がほっとかないんだろうなと思う。

とりあえず遠巻きの女子大生らしいグループが蒼太を見て黄色い声をあげたのを俊介は無視した。


「時間通りだな」

「そっちこそ。っていうかさ、なんなの。ついてこなくていいって言ったじゃない」

「言ったろ? もう俺も当事者なの。ほっとけないの。それにお前の言ってた原点ってのが知りたいしな。でもまあ、ちゃんと迎えに来てくれるなんて律儀じゃないか」

「はあ? 後で文句言われるのも嫌だし。言っとくけど割り勘だからね。ちゃんと自分の分は払ってよね」

「はいはい」


 蒼太の少し後ろをつくようにして歩き出す。


「しかしナポリタン発祥の店だなんて案外近くにあるもんだなあ」

「山手と言ったら洋食だからね。と言っても僕も食べるのは始めてだよ」

「このあたりにずっと住んでるのに?」

「東京都民があんまり東京タワーに登らないのと一緒だよ。近くにあるとありがたみを忘れちゃうんだ」


 蒼太の視線が道路を挟んだ向かい側に注がれる。


 ホテルニューグランド。

 石造りのどこか異国情緒を携えたそのホテルがナポリタンの発祥の地らしい。 

 中に入り、ナポリタンがあるというカフェに足を踏み入れる。

 白い壁にシックな照明や皮張りのソファ。

 上品さはあるものの、どことなくありふれた印象は拭えない。


「いいんだよ。肝心なのは味なんだからさ」


 二人で同じものを頼んで待つ。

 客は自分たちの他にはスーツ姿の男性や、御婦人のグループなどが楽しそうに談笑していた。


「しかし、食べただけで分かるのか?」

「分かるよ、これでも一応料理人だし」

「でもすごいな。俺と同い年なのにもうプロだなんて」

「すごくないよ。それで言ったら君の方こそどうなのさ」

「どうって……」

「知ってるよ。おじいちゃんに聞いた。矢地尾雅樹の息子なんだって君」

「ああ……そうだよ」


 返事をするも俊介の口ぶりは重い。それに気づかないでか蒼太は矢継ぎ早に言葉を重ねていく。


「自分の息子に多大な英才教育を施したんだってね。そしてその後親の期待に見事応えてプロデビュー。神童って言われていたんでしょ? どんなに難解な曲でも弾きこなすって。でも、あるコンサートを終えたあたりでそれ以後の話はさっぱり。どうしてなの?」

「どうでもいいだろ? 昔の話だよ」


 気まずさに俊介は視線を逸らした。

 十四郎が自分の名前に気付いていたからいつかは投げられる疑問だと思っていた。

 しかしまさか蒼太からくるとは思ってなかったが。

 二人の間に沈黙が降り、どちらともなく口を開くのか探っていたところで二人分のナポリタンが運ばれてきた。


「食べようぜ」

「うん」


 蒼太は納得はしていなかったようだがこれ以上話しても無駄だと悟っただろう。

 大人しくフォークを手にとった。


「こりゃいいや……」


 白い湯気がじんわりと昇っていくのが分かる。

 白い皿の中央に積み上げられたナポリタンは腹ぺこの俊介を煽るのに十分だった。

 トマトの香りが食欲をそそって思わず腹が鳴りそうになるのを腹筋をぐっと引き締めて堪えた。


「いただきます」


 蒼太がそっと手を合わせるのに俊介も習う。

 はふはふとしながら口にそっと頬張った。


「ん! んま!」


 思わず声が溢れた。

 蒼太のナポリタンも好きだがこっちも捨てがたい。

 もっちりとした麺にとろりとしたソースが絡んでたまらない。

 具はシンプルに玉ねぎ、ピーマン、ハムという定番だ。

 あえていうのであれば麺の太さが少しだけ蒼太のものよりももっちりしている気がする。

 蒼太も同じことを思っているのか麺ばかりをよく噛みしめながら食べているように思えた。


「なんか分かった?」

「まあね。そもそも僕は麺の固さを確認しにきただけだし」

「固さ?」

「そう。ナポリタンはね。麺を茹でてから寝かせるんだよ」

「ねかせ……」


 一瞬俊介の頭の中には布団をかぶったナポリタンの絵がふわっと浮かんだ。


「そのままの意味じゃないよ。しばらく置いておくってこと」

「わ、分かってるよそんなこと。当たり前だろう?」


 蒼太の目がうっすらと細められる。


「何だよ! 疑うのか?」

「ふん、まあいいよ。ここのニューグランドが発祥の地と言われるのは初めて麺を寝かせて柔らかくする調理法を編み出したこと」

「アルデンテじゃダメなのか?」

「へえ? 素人でもそれくらいは知ってるんだね」


 くすりと笑われて俊介はむっとした顔になる。


「馬鹿にするなって……」

「確かに今の日本人にはアルデンテは馴染み深いものであるけど、当時はそうでもなかったんだ。少しだけ芯を残した硬さでは食べづらい。だから寝かせて柔らかくすることで現在のナポリタンの原型が出来上がったんだ」

「でもお前の作ったナポリタンもそうなんだろう?」

「ううん。逆にうちはお客さんに合わせてアルデンテに寄せていったんだ。山手や横浜にはイタリアンレストランが多いからね。柔らかさよりもおしゃれなパスタのナポリタンを目指したんだと思う」

「なるほどな……、じゃあ。柔らかくすればオッケーってことか」

「簡単に言うよね。料理はバランスなんだよ。麺を柔らかくしたら、はいオッケーってわけないでしょ。すんなりできたら苦労はしないよ」

「って言ってもな……」


 しかし、俊介が出来ることと言えば正直蒼太を応援することくらいしかない。

 これで久江が納得するナポリタンに仕上がればいいと心から願う。

 そんなふうに思っていると蒼太が俊介を見つめているのに急に気がついて思わずむせそうになった。


「っ!」

「え、大丈夫? 水飲みなよ」

「あ……、ごめん」


 慌ててコップの水を飲み干すも、結局それだけでは収まらず、結局追加でピッチャーをお願いする羽目になってしまった。


「ちょっとは落ち着いた?」

「いや本当、すみませんでした……」


 少しだけ咳き込んでようやく落ち着いた息が吐けた。


「なんで急に驚いてたの?」

「俺の顔見てるからなんかあったのかと思ってさ」

「ああ……それは。君って不思議だなって思って」

「不思議?」


 蒼太は人差し指をそっとこめかみに当てながら呟いた。


「君はなんでもすごい美味しそうに食べるから」

「そうか……? 普通だろ、そんなの」

「いいや。そんなふうに一口一口噛みしめて食べないよ。なんか……、新鮮に感じる」

「まあ食べることが好きだからだと思う……、それと」

「それと?」

「思い出すんだよなあ。美味しいものを食べてると。昔の、小さい頃の思い出がさ」


 俊介はことりとフォークをそっと置いた。


「お前の言ってる通り小さい頃からレッスンばっかりだったよ。まあ苦じゃなかったな。ピアノは面白くってのめり込んだ。おもちゃに近かったかな。練習すればするだけ上手くなるし自分の指先だけで世界が広がっていく。楽しくてたまらない。それにプロのピアニストである父さんが教えてくれるから余計にな。ただ楽しみはもう一つあってそれがそれがレッスン後のご褒美だった」

「ご褒美……」


 俊介が静かに頷き返す。


「大人心になんかやらないとまずいとでも思ったんだろうよ。上手く弾けた後には必ず外食に連れてってくれた。まあかわいもんだよ。お子様ランチとかパフェとかさ。でも子供からすれば心はときめく」

「……」

「お腹いっぱい食べるのはいい。あの頃を思い出すから。何だか昔のピアノを取り戻せたような気がして幸せな気持ちになるんだ」


 視線をそっと落として俊介は目の前で小さく指を組んだ。


「ねえ……何で……」

「ん?」


 俊介が顔を上げると蒼太は決まりが悪いような顔をした。


「ううん、なんでもない。食べようよ」

「だな……」


 蒼太が何を言いかけたのか気になったがおそらく問いかけても教えてくれなさそうだった。


 改めてナポリタンの麺を口に運ぶ。


(美味いなあ……)


 ただそれだけで幸せが胸に滲むのが切ない。

 世の中にはこんなに美味しいものがたくさんあって、食べるたびにあの頃の気持ちに慣れるのにどうして昔のようにピアノが弾けないのだろう。


 何が足りない?

 どうすればいい?


 幾たびも自分の心の中の問いかけを繰り返す。

 しかし何度重ねたところではっきりとした答えは出てこないのだ。

 自分では奮闘しているつもりなのに今ひとつ成果が出せない。

 結局のところあの日失った音楽はそのままなのだ。

 しかし、こうして気持ちが蘇ることができるのならば自分の心の中の灯火はまだ消えてないのだと思う。

 あと少し、もう少し。

 きっと何か足りないんだ……、何かが。


「それにしても、このナポリタンも美味いわ」

「……」

「何だよ。本音を呟いただけだろうが」

「君ってさ。本当誰が作っても簡単に美味しいって言っちゃうんだね」

「は……? なんだそれ?」

「別に」


 蒼太がぶっきらぼうに答える。


(変なやつ……)


 俊介は首を傾げる。


「それでヒントは掴めたんだろ?」

「まあね。単純に柔らかくするんじゃなくてちゃんとソースもそれに合うように調整しなきゃだけど」


 どこか晴れた顔をした蒼太に俊介はそっと胸を撫で下ろす。

 やっぱりこいつには泣き顔よりも太々しい表情の方が似合う。


「何……?」

「いや、いい顔になってきたなって思って」

「何それ。と言うより人のことじろじろ見ないでよ。君って本当とことん失礼だよね」

「誤解だって。一瞬いい顔をしたからそれを褒めただけだろ?」

「本当? 君が言ってることは信用できないなあ」

「はあ? じゃあどうすりしゃ信じてくれるんだよ」


 蒼太は一瞬俊介の顔を見上げるとそっとナポリタンに視線を落とした。


「付き合ってよ」

「はい?」

「練習に。僕だって何度もナポリタン食べるのはきつい。でも君はさ、あんまり味のこだわりなさそうだから」

「ちょっと待てよ。一応俺だって味の良し悪しくらいは分かるからな」

「安心してよ、僕の料理は基本何でも美味しいから。でも簡単に完成形には至らないでしょ。毎回作るたびに廃棄するのは気が引けるんだよ。そういう観点から見れば君ってとっても丁度いいよね」

「はあ、まあいいさ。それくらいならいくらでも食べてやるよ」

「当たり前だよ。まあしばらくのご飯代は浮くからそのあたりは安心していいよ」


 蒼太が笑う。

 その笑顔に俊介はどこか安心した。


(やっぱりこいつにはこう言う笑顔がいいわ)


 その自信のある表情に俊介は成功を確信したのだった。

 しかし、蒼太の言う通りすんなりできたら苦労はしない。

 それに二人はすぐに直面することとなる。

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