第17話 涙
夜営業も賑わってなんとか初日を終えた頃、俊介はくたくたになってどかりと椅子に座りこんだ。
「つ……、疲れた」
立ち仕事はきついと話には聞いていたが一日中立ちっぱなしはさすがに堪える。
観月は慣れだと言っていたけれど、注文を取ってサーブして、周りに気を配ってとずっと気は張り詰めっぱなしだった。軽く膝が笑ってるのが分かる。
(これが自然にできてる観月さん半端ないわ……)
そう思いながら顔を上げて観月を見てみると全く堪えていないらしく、にこやかに笑いながら手慣れた手つきで紅茶を差し出した。
「お疲れ様。初日にしては上出来だと思うよ」
「そうでしょうか……?」
「もちろん! 最後の団体さんも上手く捌けてたし、正直日中だったら一人でも回せちゃうんじゃないかなあ」
「ええっ! さすがにそれはまだ勘弁してくださいよ……」
慌てた顔をすれば観月はにこやかに笑い返す。
焦る俊介がさらに言葉を重ねようとすると柱時計の音がした。
見上げると十一時を告げていた。
「観月さん、もういいよ。終電あるでしょ? あとは僕がやっておくから」
奥から蒼太の声が聞こえてくる。厨房の掃除をしているのだろう。
結局閉店ギリギリまで蒼太も働きっぱなしだった。
「ああこんな時間か。毎回ごめんね。じゃあ俊介君もあとはよろしくね」
「あ、はい! お疲れ様でした!」
観月は着替えると足早にトロイメライを立ち去った。
しんとした空気が店内に落ちる。
もうこの店には俊介と蒼太の二人しかいない。
俊介に任せられた残りの仕事はモップがけと明日の洗濯物を取りまとめだ。
「……」
ふと顔を上げると廊下の奥に蒼太の影が揺れる。
確か厨房の掃除をしていたはずだ。もう終わっててもおかしくはない。
明日の仕込みは午前中にするはずなのできっと他の作業をしてるのだろうか。
それにしては時間がかかりすぎる。ひょっとしたら落ち込んでるのかもしれない。
(やっぱり例のナポリタンだよなあ)
料理人の気持ちは完全には分からないとは言え、あんな風に言われたら正直自信をなくす。
(あいつの料理、めちゃくちゃ美味かったのに。他の人の方が美味いだなんて面と言われたら正直へこむもんな)
ひょっとしたら泣いてるのかもしれない。
普段強気な人間ほど打たれ弱いと聞いたことがある。
案外、つんけんしている蒼太も人の視線がないところではダメージを受けているかもしれない。
だって今の自分を否定されたようなもんじゃないか。
折れそうになったとしてもなんら不思議じゃあない。
そう思ったらなんだかこっちまで胸が痛くなって来た。
「よし……!」
やっぱりこういう時、元気付けるべきだろう。
いくら邪険に扱われていたと言っても同じ職場で働く者同士、仲がいいに越したことはない。
疲れ切った体に鞭を打ってそっと立ち上がる。
奥の厨房に近づくにつれて、包丁を叩く音が聞こえてくる。
少しだけ香ばしいケチャップの匂いも漂ってくる。
きっと例のナポリタンを作っているに違いない。
(よし……、ここはガツンと勇気づけてやろう……)
そっと厨房に顔を出すと、手に包丁を持った蒼太の背中が視界に入った。
「な、なあ……」
「え?」
蒼太が振り返った瞬間、俊介は固まってしまった。
(泣いてる……?)
蒼太の大きな瞳から綺麗な滴が一つ、ゆっくりと落ちていく。
その瞬間、俊介の頭が真っ白になった。
(泣いてる……?)
蒼太の大きな瞳から綺麗な滴が一つ、ゆっくりと落ちていく。
その瞬間、俊介の頭が真っ白になった。
「大丈夫だ!」
「……は?」
呆気に取られる蒼太の肩を俊介ががっと掴む。
「久江さんはああも言っていたけど、正直俺はお前のナポリタンの方が絶対にうまいと思う!」
「と、突然何?」
「なんて言うか、お前の料理は音楽に似てる。俺は元から食べることが好きだけど。お前の料理は特別だ。だから絶対その……、十年前の料理人よりも遥かにいい料理が作れると俺は思う!」
「はあ……? 突然一体何言ってるの?」
蒼太の頬が赤くなっているのもお構いなしに俊介は矢継ぎ早に言葉を重ねる。
「だから……落ち込むなんてらしくないぞ! もう一回言うけどお前は絶対にいい料理が作れるし!」
「あったり前でしょそんなの!」
蒼太がたまらない様子で言い返した。
「一体なんなのさ? いきなり厨房に現れたと思ったら血相変えて肩掴んでくるし……。僕まだ包丁持ってるんだけど危ないでしょ! 馬鹿なの? 本当どういうつもり? びっくりするでしょうが!」
「驚いたのはこっちの方だ。お前がいきなり泣いてるから……」
「は?」
「だってお前、その顔……」
蒼太がむっとした表情で視線を逸らした。
「別に泣いてなんかない……」
「だったら」
「玉ねぎ切ってた手でうっかり目を擦っちゃっただけだよ。第一なにさ、仮に僕が泣いてたって君に関係ないでしょ」
「いや、あるだろ普通に。気になるし、力になりたいって思うだろう?」
「は……? なんでそんなふうにさらっと言えるのさ。僕に協力したからって君になんの得があるの?」
「そりゃあ……」
俊介はそこではたと考えを巡らせた。
確かにここまで蒼太の個人的なことに首を突っ込むのはいかがなものなのだろう。
(言われてみれば俺はどうしてここまで突き動かされるんだろう……?)
顎に手を当てて考えてみる。
そもそも料理は技術的なものだ。だから俊介がいくら頑張ったところで作るのは蒼太なのだから躍起になっても正直意味がない。
(でもどうしてもほっとけない。なんだか俺も何かしたいって思うんだよな。こんな気持ちになるは久しぶりだ……)
俊介は考えを巡らせる。
ここまで引き寄せられる理由はなんなのか。
その時ふと蒼太が腕を振るう姿が頭に浮かんだ。
そうだ。こうして蒼太の手から生まれてくる料理はどれも格別に違いない。
ふっとナポリタンの香りが思い出される。
一口食べただけで胸の中がいっぱいになるようなそんな幸せの味だった。
「ファンタスティコ……」
「え、何?」
怪訝な顔をする蒼太をよそに、俊介はナポリタンを食べた時の自分の感情を思い出していた。
そうだ。幸せな気持ちというのが、あの日胸に浮かんだ率直なものだった。
そして口にした途端まるで懐かしさを呼び起こされたように思えた。
例えるならそれは幼い頃にピアノを弾いていた時によく感じていたものと同じだった。
一口食べるたびに頭の中に旋律が通り過ぎていく。
自分はもう人前では再現できない、久しぶりの感覚に心が震えたのだった。
(そうか……、だから俺はこんなに必死だったんだな)
相変わらず眉を潜めながら見つめてくる蒼太の顔をじっと見つめ返す。
「お前の料理はすごいと思う。一口食べるだけで俺は昔の幸せだった気持ちを思い出すことができたんだから」
「思い出す?」
「なんだろう。胸がギュッと締め付けられるみたいな……。素直にすごいよ。なんでだろうな。正直俺もこんな感覚になるのは初めてで。すごい技術だよ。だからこそ、俺は心配なんだ」
俊介は蒼太を真っ直ぐに見た。
「多分、俺と同じようになるのが怖いんだと思う……」
「同じってなんだよ」
「昔好きだったものでもちょっとしたきっかけで嫌いになったり疎遠になったりするんだよ。あと急にうまくいかなくなったりとか。もちろんお前は技術もあるし、気持ちの切り替えもうまそうだからそんなに簡単に折れたりはしないんだろうけど。でも溜めるやつほどぷっつんと切れた時にやばいって言うしさ。まあ周りくどい言い方したけど、単純に心配なんだよ」
「……」
蒼太が黙って俊介の顔を見つめる。
(あ……、これもまたお節介とか言われてしまうんだろうか)
どんなふうに弁解したらいいのかと頭を悩ませる。
しかしいい言葉が全然見当たらなくて視線を彷徨わせる。
蒼太は俊介の顔をじっと見ていた。
冷たいと感じていた瞳がその時少しだけ揺らいだような気がした。
21、原点
蒼太は俊介の顔をじっと見ていた。
冷たいと感じていた瞳がその時少しだけ揺らいだような気がした。
「君もそうなの?」
「え?」
「音楽のことさ。嫌いになったの?」
「なんで?」
「だってさ、人前で弾けなくなるもんじゃないでしょ普通。何かあったって思うのが普通じゃない?」
俊介はそっと目を伏せる。
確かにあった。
今でも時折夢に見て、そしてずっと俊介を苦しめ続けている。
なんとか逃れたいのにいい方法が見つからなくてのたうち回っているのだ。
「いや……、違うな。俺が嫌いとかそう言うんじゃない。向こうから離れて行ったんだ」
「向こうから? 音楽がってこと?」
蒼太のまつげがそっと揺れる。
抽象的な物言いになってしまったからかその意味を咀嚼しようとしてくれているのだろう。人差し指をそっと顎に当てて考える素振りを見せた。
「そう……、まあでも。俺の才能なんて大したことなかったかもしれないしな。今は気にしてない。でもだからこそ、ここで躓いて欲しくないなって思う」
蒼太はしばらく黙った後、ぽつりと呟いた。
「そんなこと言わないでよ」
「何?」
「自分の才能のこと、自分で大したことないなんてさ……。口にするもんじゃないと思う……」
「え……」
攻撃的な物言いばかりの蒼太が気遣うような言葉を口にしたことが意外だった。
しばらく蒼太の顔を黙って見つめた後、思い出したようにはっとした。
「え……あ、そうだな。確かに。自分で弱気になってちゃあいけないよな」
俊介は頬をぽりぽりとかいた。
急に蒼太の優しさに触れたような気がしてちょっとこそばゆい。
「なんか意外だな……」
「何が?」
「いや、お前だったらすごい厳しめのこと言いそうだなって思ったから」
「別に……。君が僕のことどう思ってるか知らないけど……。頑張ろうとしてる姿勢は馬鹿にしたりはしないつもりだよ」
そっと蒼太の顔を見ると至極無表情だった。
しかし今までの冷たいような雰囲気はなくて俊介は胸を撫で下ろした。
「ところで一体何やってたんだ?」
「とりあえずもう一度振り返ってみようと思って……」
「振り返る……?」
蒼太の視線の先、厨房のテーブルの上には出来立てのナポリタンの皿が載っていた。
湯気がたっていて今にもお腹が鳴りそうなくらいに食欲をそそる匂いがする。
「久江さんの思い出の味を再現するために何が欠けてあるのか考えたくてさ。基本的なレシピはおじいちゃんから引き継いでいるから問題ないと思う。可能性としてはひょっとしたら何かアレンジが加えてあったのかもしれないってこと……」
(例の十年前の料理人ってやつか)
未だ詳細は分からないが蒼太の顔を見る限りすごい料理人であることは分かる。
しかし振り返るような必要があるんだろうか。
観月との会話でも思ったが昔働いていたのであればその記録が残っているんじゃないだろうか。
わざわざ労力をかけずともそっちの方が確実で楽であるように思えた。
「なあ、前に働いてたならレシピとかメモとか残ってるんじゃないか?」
「……」
「もちろん全く同じ味っていうのは難しいかもしれないけどさ。隠し味とかそう言うの料理ではよくあるんだろ?」
「ある。確かにあいつのメモや日記を見ればそのあたりは簡単に分かるだろうね「
「だったら……」
「でも、ダメだよ」
蒼太の顔は険しい。
単純な嫌悪の感情ではない。
好きとか嫌いとかそういうはっきりとした気持ちじゃなくて、怒りや悲しみが混ぜこぜになったような感情のように見えた。
そうでなければ一瞬見えた泣きそうな笑顔の理由が説明できそうになかった。
「僕はあいつには頼らない。自分の力だけで久江さんの思い出のナポリタンを再現して見せる」
「え……、いや普通に考えて無理だろ? 片意地張らずに……」
「張ってなんかないよ。それに君には関係ないでしょ?」
「あるさ。もう乗り掛かった船だよ。っていうかどうするんだよ? 一筋縄じゃあ行かないだろう?」
「まずは原点を探ればいいのさ。あいつだったらそうする。幸運なことにここは山手だからね」
「原点?」
一体何のことだろう。
頭を悩ませるも言葉の意味が分からない。
思わず聞き返す俊介に蒼太は不敵な笑みを溢すのだった。
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