第16話 絶対あいつには負けない

「その人と話してみたら何か分かるかも? お手数ですけど呼んでくださらないかしら。勝手で失礼だって分かってるけど。どうしてもあの日のナポリタンを食べたくて……」

「その人はもう、ここにはいません」


 凪いだ海のような声だった。

 店内が一瞬静寂に包まれて皆が蒼太の顔を見た。 

 無表情だった。

 しかし俊介は一瞬だけ蒼太の口元に悲しみと怒りが滲んでいるように思えた。


(蒼太……?)


 どうしてそんな痛みを抱えたような顔をするのだろう。

 蒼太の言う『その人』とはいったい誰なのだろうか。

 こんなに悲痛な表情をさせるなんて以前、何があったのだろう。


「そうよねぇ。もう十年前だもの……。やめられても仕方ないわよねぇ」


 久江のため息で俊介ははっと我に帰った。

 瞬きをしてもう一度蒼太を見ると、いつもの無表情に戻っていた。


(俺の見間違い……か? いや、でも確かに悲しげな表情をしていたように見えたけど……)


 しかし何度見ても蒼太の表情は変わらなかった。

 久江は目当ての人物がいないと分かると、そっとフォークを置いた。


「はあ残念ね。もう一度と思ったのだけれど……」


 食べ終わり口元をそっとナプキンで拭う。


「すみません。ちょっといいですか?」


 蒼太が静かに口を開く。


「久江さんはしばらくこちらにいらっしゃるんですよね?」

「ええ、そうよ。娘の家に少しずつ荷物を預けるためにね。行き来しなくっちゃいけなくて。それがどうかしたのかしら?」


 蒼太が一歩久江に近づく。

 その顔は強固な決心で引き絞ったような表情をしていた。


「もう一度僕の料理を食べていただきたいんです。無理は承知なのですが、きっと思い出のナポリタンの味を再現して見せますから」

「え……、ちょっと蒼太君?」


 観月が嗜めるように声をかけるも蒼太はお構いなしといった様子だ。


「そうねぇ。ちょうど石川町だし、私も散歩がてらこの辺りは来たいと思ってるけど……」

「もちろん僕のわがままに付き合っていただくわけですからお代はいただきませんよ。その代わりちゃんと思い出の味になっているかどうかだけ教えていただければと思います」


 蒼太は真剣な表情で久江にそう話しかけた。

 久江はしばし困惑した表情を浮かべていたが最後には笑顔で返していた。


「あら。そう? だったらぜひお願いしようかしら」 


 久江がそう答えると柱時計が古びた鐘の音を立てた。


「もうこんな時間なのね。そろそろお暇するわ。それじゃあまた。楽しみにしているわね」


 カランと音がして久江がトロイメライを出るのを見送ると、蒼太は俊介に話しかけた。


「それ、片付けておいてね。洗い物も一応仕事だから。僕は昼休憩行ってくる」

「あ……ああ」


 唐突さについていけないまま、俊介は蒼太の顔を見つめるしかできなかった。

 しかしすれ違い様ぽつりと呟いた言葉は俊介の耳にはっきりと残った。


「絶対に……あいつには負けない」

「え……?」


 絞り出すような声だった。

 その理由が分からなくて思わず俊介はその場で固まってしまう。

 そのまま店の奥に消えていく蒼太の背中を見ながら俊介は呆然としていた。


(あいつって誰だ?)


 蒼太の険しい表情。

 あんな風に感情を剥き出しにするのはなんだか今までに見た蒼太らしくなくて心がざわついてしまう。

 そのまま蒼太の消えた先を見つめていると、観月にぽんと肩を叩かれる。


「俺たちも休憩しよっか? 多分、ディナータイムが始まるまでお客さんも来ないと思うし」

「あ……はい」


 再び厨房を見る。

 しかしその奥からは音一つしなかった。


まかないは予想通りナポリタンだった。 

 久江の分のついでに一緒に作ってくれていたらしい。

 誰もいなくなった厨房を覗き込むと二人分の皿が並んでいた。

 観月が手慣れた手つきで珈琲を淹れてくれて窓際のテーブル席に並べる。


「いただきます……!」


 くるりとフォークで麺を絡めて口に運ぶ。

 うん、やはり十分に美味い。


(最高だな……、あいつの料理)


 一度食べたら忘れられないくらいに。

 相性は最悪だと思うけど、料理の腕前は認めざるを得ない。


(でも思い出の味じゃないって……、どう言うことなんだろうなあ)


 俊介の頭の中には引き絞った顔をした蒼太の顔が浮かんでいる。


(せっかく作ったのにお前じゃないみたいに言われたら誰だって傷つくよな……。大丈夫かな、あいつ)


 咀嚼しながらも蒼太のことばかり気になる。

 正直蒼太の冷たい物言いに少しばかり苛ついていたのも事実だがあんな顔を見せられてしまってはもう怒る気にはなれなかった。


「俊介君?」

「あ、すいません。何か言いました?」

「ううん、なんでもないよ。黙ってるからどうしたのかなって思って」


 観月がくすりと笑いながら長い黒髪を耳にかけた。

 たったそれだけなのに妙に色っぽい。

 きっと観月のさりげない仕草だけで女の子はときめくのだろうと俊介は思った。


「いえ、せっかく作ったのに……。十年前の料理人と比べられるなんてしんどいなって思って」

「ああ、そのことか。で、蒼太君が落ち込んでるって?」

「違うんですか?」


 観月はそっとフォークを置くと、長い指を手前で緩やかに組んだ。


「ねえ、俊介君はさ。許せない人っている?」

「は?」

「自分の人生の中でどうしても忘れられない。でも許せない、そんな人」

「いきなり抽象的ですね……」

「いない? ピアノやってるんでしょ? やばい先生とかいなかった?」


 俊介はそっと顎に手を当てた。

 頭に浮かんだのは厳格な顔つきだった。

 自分にレッスンをつけてくれた人。

 そして同時に自分を見限った顔が浮かぶ。

 しかし厳しさはあれど許せない人ではなかった。

 むしろその期待に自分が応えられないことに申し訳なさすら感じているくらいだ。


「いや、いませんね」

「そうか……。よくあるスパルタ講師とかいると思ったんだけどなあ」


 観月は仕方なさそうに肩を竦めた。


「蒼太君にはいるんだよ。その許せない相手がさ」

「十年前の料理人って人がそうなんです?」

「そう。他人だったらまだしもそれが自分の実の父親だからたちが悪い」

「父親……」


 俊介の胸にちりちりと焼け焦げるような痛みが走る。


「そう言えば俊介君のお父さんは有名なピアニストなんだよね」

「ええ、矢地尾雅樹っていいます」

「そうそう。俺はピアノはあんまり詳しくないけどさ。オーナーがすごいはしゃいでたよ。日本を代表するピアニストの一人なんだよね……確か」

「ええ。まあ……」


 その言葉を口にするたびに俊介の心は締め付けられるように痛む。

 かつて自分にピアノを教えた師でもある父親は自分がピアノが弾けなくなってから興味をなくしたように関わりを絶ってしまった。

 正直これ以上父親のことを聞かれたくなかった。

 さりげなく話題を他に変えようとした。


「観月さん家の父さんはどんな方なんです?」

「残念。うちは母子家庭だからさ。俺の小さい頃に離婚してからそれっきり。まあ俺はほぼ記憶がないからいいよ。思い出すこともないからさ。でも蒼太君の場合はちょっとかわいそう。音沙汰もなく帰っても来ないんだってさ」

「失踪ってことですか?」


 身を乗り出すと観月はお手上げといった表情で肩を竦めた。


「流石にプライベートすぎて詳しくは知らないよ。その失踪に蒼太君は深く関わってるって話だけど……。これ以上は聞けないしね。まあでも確執はあると思うよ。だからこそ蒼太君はもう一度作らせてくれって言ってるんだろうし」

「え……?」


 俊介が顔を上げると、観月はその形のいい瞳をそっと伏せた。


「だって考えてごらんよ。確かに残念ではあるけど長年続いている飲食店で味が少し変わるのはよくあることだと思うよ。年が経つに連れて人間の嗜好っていうのは変化するし、料理人としてはそれに合わせて調整していくのはごく当たり前のことだと思う」

「確かに……」

「だとすれば昔の味が良かった、昔の料理人を出せなんて言うの普通に考えれば軽くクレームだよね。久江さんには悪いけどちょっとイラッと来ちゃった」

「そんなふうには全然見えませんでした」


 観月は苦笑しながら髪をかき上げた。


「まあ、接客業が長いと腹の中でどんなに怒っていても笑顔を貼り付けるのが上手くなるから。元から俺はそのあたり得意だしね。しかしまあそういうわけで本来蒼太君が久江さんのためにもう一度ナポリタンを作る必要なんてないわけ」

「俺は久江さんのために頑張ろうって思ってたんだと……」

「もちろんそれもあるよ。……というよりも蒼太君は自分ではそう思って頑張ろうとしてるのかも。本来の自分の気持ちを隠してまでね」

「自分の気持ち?」

「負けたくないでしょ? 自分の父親の味にはさ。だから落ち込んでるんじゃなくってむしろ奮起してるんじゃないかって俺は思うな。まあでもしかし、困ったもんだよね。失踪した父親の味を再現だなんてさ」


 あーあとため息をつきながら観月は小さく伸びをした。


「再現だなんて大袈裟な……。家族なんだし、料理人なら家にレシピくらい残ってるんじゃないですかね?」

「うーん、どうなんだろうね。残ってたとしてもそれが使えるかどうかはまた別問題だと思うよ」

「別問題?」


 意図が分からなくて首を傾げてみるも観月はただにこやかに笑うだけだった。


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