第15話 困ったお客様
優雅な身なりの御婦人、それがその人の第一印象だった。
「あら、本当に変わってないのねぇ。あの頃のままだわ」
「もちろんですよ。オーナーの希望で内装にはほとんど手を入れてませんから」
観月が見事な営業スマイルを浮かべながらアンティークのカップに紅茶を注ぐ。
流石にあそこまでの身のこなしは自分には無理そうだなと俊介は思った。
「老人ホームに入る前に来ようと思ってたのよ。夫との思い出の味をもう一度楽しみたくてね」
眦にしわを寄せながら微笑んだ。その目はどこか遠く、思い出の中の風景を見つめているように見えた。
「昔は石川町に住んでいてねぇ。ここにもよく来たものだけれど。引っ越してからはさっぱり。いつかまた来たいなあって思ってたらこんなおばあちゃんになっちゃってたわ」
「また来てくださって嬉しいですよ」
「ふふ。本当はもっと足を運ぶ予定だったんだけど。認知症が進んでしまってね。一度入院したら今度こそ来るのが難しくなっちゃうから最後にね」
藤枝久江と名乗ったその御婦人は十年ぶりにトロイメライに来たとのことだった。
綺麗にパーマが施された白髪につるんとした上品な素材でできた薄紫のワンピース。くすくすと笑う唇に添えらえれた指には大きなエメラルドの指輪が光っている。
「亡くなった夫がここが好きでね。今でこそ一財産こさえたけど、当時はお金がなくてね。ここの料理はご馳走だったのよ。十年前に久しぶりに来たときはまだ存命だったから夫も懐かしそうに食べてたんだけどねぇ」
上品なネイルが施された指先がそっとスマホの画面を撫でる。
同じように白髪でしわくちゃの男性が久江の体を抱き寄せながら笑っていた。
「へえ、それが旦那さんなんですか。男前ですね」
「そうでしょう? あんまりにも色男だったもんで最初に口説かれた時に遊びだと思ってつっぱねちゃったのよ」
笑いながらもその瞳はどこか寂しい。
「久方ぶりにいらっしゃって本当に嬉しいですよ」
「あら、そう言ってくれるなんて主人が聞いたら喜ぶでしょうに。私みたいなおばあちゃんの世間話よりもきっと身になる話をしてくれたと思うわ」
「いえ、お客様の話は何を聞いても勉強になりますし僕自身も楽しみにしているんですよ」
ちょうど客の混み具合も落ち着き、久江だけになっていたとは言え初対面の相手からあれやこれやと情報を引き出している観月に俊介は舌を巻いた。
(この店の常連がずっと変わらずに来ているのはきっと観月さんがちゃんともてなしてくれるからなんだろうな)
遠巻きに納得しながら二人を見つめていると話題はいつの間にかこの店に来た理由につて話していた。
「ナポリタンですよね? その思い出の味って」
「そうなのよ。ここのはケチャップ多めで夫が好きでねぇ。毎回食べに来ると楽しくって上機嫌で帰ってたわ」
にこやかに笑う久江のために厨房の向こうでは蒼太が腕を振るっている。
思い出の味のナポリタンを今かと待っている久江は少女のようだった。
どんなに歳をとったとしても青春を過ごした場所に戻ると人は若い時を思い出すのかもしれない。
(今からあんな調子じゃあ、きっと食べたら飛び上がるんじゃないだろうか)
思わず俊介の口元に笑みが浮かぶ。
(おっと……、気を抜けない)
きゅっと腹に力を入れる。
実はさっきから厨房からいい匂いが漂ってお腹が鳴らないようにするのに必死なのだ。
この分ならきっとまかないもナポリタンだろう。
今からものすごく楽しみだ。
「出来たよ、運んで」
「お、おう」
ふいに声をかけられて我にかえった。
少し上擦った声で返事するも蒼太は俊介の方をちらりとも見ない。
今日はずっとこんな調子だ。
俊介は蒼太と仲良くなろうとするも蒼太は逆に避けようと振る舞っているように見える。
バイトを続けるにしてもこれじゃあやりづらくて仕方ない。せめてもっと普通に接してくれるだけでも違うのだろうか。
(やっぱり昨日怒らせたのが不味かったのかな)
しかしどうやって穴埋めをすればいいのか見当もつかない。何かきっかけがあれば仲良くなるタイミングを作れるのだろうけど。
大学でもあまり友達が多い方ではないからこういう時にどう振る舞うのが正解かがわからないでいた。
(いかんいかん。今は仕事だ)
早く久江に思い出の味を楽しんでもらわなくては。
そっと邪念を振り払うと白い皿に丁寧に盛られたナポリタンを運ぶ。
ふわりと湯気が美味しい香りとともに立ち上がる。
「お待たせしました」
「まあ、ありがとう。そうよ! これよこれ! とっても美味しそうね!」
久江は手を合わせて感激の声をあげてフォークを手に取る。
そしてそのまま絡めて口にそっと運んだ。
(ああ、いいなあ。俺も食べたけどめちゃくちゃ美味いもの。あいつの料理。ああ、ヤバイ。やっぱりお腹鳴りそう……)
滲む生唾を飲み込みながら久江の顔を見た。
(あれ……?)
手放しで喜ぶかと思ったその顔はどこか曇っているようだ。
味が濃かったとか?
いや違う。あれは絶妙な味加減だ。
第一蒼太が作ったのだからまずいわけがない。
しかし思い出の味を楽しみにした割にはその顔は晴れない。
「あの……、いかがしましたか?」
俊介の言葉に久江ははっとした。
「いえ、ちゃんと美味しいわ。美味しいのだけれど……」
言いづらそうに久江はもごもごと口を窄めていた。
(だけれど……ってどう言うことだ?)
言っていることが分からず、思わずその顔を見つめてしまう。
しばらく黙っていた久江は意を決したようにぽつりと呟いた。
「何か違うのよねぇ……」
「違う?」
隣から蒼太が怪訝そうな声をあげた。
「……っ!」
(いるならいるって言ってくれよ!)
いつの間にか隣に来ていて俊介は思わず声をあげそうになった。
全く気配がなく、さながら猫のようだと俊介は思った。
「ちゃんと美味しいし、ああ懐かしいなあって思うのよ。でも何かしら。何かが物足りないって言うか……。夫と食べたあの日のナポリタンと違うのよねぇ」
「……」
横目で盗み見てみると蒼太が険しい表情をしているのが分かる。
無理もない。
いきなり違うとか言われたら誰だって混乱する。
しかしそんな蒼太たちの困惑などお構いなしに呟いた。
「でも十年前だからもう忘れちゃってるのかしら。あ、そうだわ」
「?」
ぱちんと両の手を合わせると、久江は満面の笑みを浮かべた。
「その時のコックさんはいらっしゃらないの?」
「……」
蒼太の眉間がぴくりと動いた。
(ん……? なんだ?)
一瞬蒼太の顔が固く強張ったように見えた。
完璧主義で感情を表に出さないように見えたのに、まるで傷ついたような顔だった。
(いや、確かに自分の味を否定されてるわけだから頭に来て当然なんだけど……)
それにしては複雑な感情を抱いているような、一瞬だけしか見えなかったけれどそのような印象を受けた。
「夫が聞いたのよ、美味しさの秘密をね。あんまりにもおいしくって楽しくって、どうしてこんなことが出来るのかしらって。そしたら教えてくれたのよねぇ」
「へえ、どう言った内容だったんです?」
観月が尋ねる。
「ごめんなさいね。それがねぇ、もう歳のせいかしら。私、忘れちゃったのよ。でも優しく教えてくれたのよ。あの、黒い髭が見事なコックさんがね」
「……」
(やっぱり変だな……?)
さっきから妙に静かなのが気になる。
明らかに蒼太が戸惑っているように思える。
どこからかと言えば、久江が十年前のことを喋り始めたあたりからだった。
確かに自分が作った料理が昔のと違うなんて言われたら困惑すると思う。
しかし単純な戸惑いというよりはもっと何か深く蒼太の心の中をえぐられているのではないかと思うくらいにはその困惑は明白だった。
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