第14話 初出勤
呆気にとられながら及川の背中を見送ると観月が口を開いた。
「さてと。今日は簡単に説明をしたらそのままフロアに出てもらうね」
「え、いきなりですか?」
「はは。そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。確かに昼間は混むけど基本常連さんが多いし、みんな優しいからさ」
「は……はあ」
「じゃあ、まずはこっちが従業員用のロッカーね。君のは一番奥。そしてこれが鍵。かけたら無くさないように自分で管理してね」
観月から簡単な説明を受け終わると、包みを一つ手渡された。
「これは……」
中を開いて見ると黒のカマーベストとエプロン。そして白シャツが入っていた。
「ああ、制服ね。一応小さい店ではあるけど身なりはちゃんとするのがオーナーのこだわりだから。営業が終わったら洗濯籠に入れてくれれば良いけど……。あ、でもこれは俊介君の仕事になるのかな?」
「なんです?」
「うん。汚れ物はね。新人が片付けるって決まってて。今までは蒼太君がやっててくれたけど。今度は君の仕事かな。細かいことはさすがに俺は忘れちゃったから後で聞いてみてね」
「あ……、はい」
(蒼太か……)
返事はしてみたものの気は重い。
先日の去り際に蒼太から言われた言葉がまだ頭の中に残っている。
『ヘタクソ』
(ああも、面と向かって嫌いと言われちゃったからな……)
思い出せばゴミを見るような目つきだった気がする。
確かに勝手に人の家の値打ちのあるピアノを触ってその後言いたい放題言って退けたのであれば当然と言えば当然だった。
(俺がもっと上手い具合に話せたらよかったんだろうけどなあ……)
「はあ……」
「俊介君?」
怪訝そうな観月の言葉にはっとして我に帰った。
「あ、すみません。ぼうっとしてました」
「ふふ。じゃあそれに着替えて。次はフロアを説明するからさ」
観月に手渡された制服に着替えるとなんだかそれっぽく見えるように感じた。
「ああ。サイズもぴったりだね。ええっと、まずは注文の取り方なんだけど……」
観月の説明は細かいけれど分かりやすかった。
レクチャーを一通り受けるとちょうど柱時計が十一時を告げる音を立てた。
「開店時間だねえ。今日はさ。俺も入るから安心して」
「あ……、はい!」
思わず力のこもった返事をすると、観月が肩を揺らして微笑む。
「あはは。大丈夫、大丈夫。そんなに固くならなくってもさ。ここに来るお客さんはほとんどが常連なんだ。それか昔通ってたけど今は疎遠になって、久しぶりに来た人とか。長年山手に構えてるだけあってお客さんも年季の入った人が多いよ。皆優しい。だから安心して」
「は、はあ……」
とはいえ新しいことをするのはいつだって緊張する。
俊介は自分を落ち着かせるように手をにぎにぎと動かした。
なんだか演奏直前の気持ちに似ているなと思っていると背後から鋭い声がかけられた。
「そんなんで大丈夫なの? 無理そうだったらやめたら?」
「!」
振り返ると目を細めた蒼太が腕組みをして立っていた。
「あれ? 蒼太君、仕込みは?」
「終わったに決まってるでしょ。もう開店なんだし」
蒼太は乾いた言葉でそう答えると俊介に向き直った。
「言っとくけど、緊張するとかそういう理由で失敗されるのなしだから。僕の足引っ張るくらいだったら今すぐやめて欲しいんだけど」
「な……。まだ何も始まってないだろ?」
「不安になる理由くらい分かるでしょ? 僕も集中したいし、観月さんだっていつもいないわけだからあたふたされるの迷惑だから」
「そこまで言うことかよ……。確かに俺のピアノはお粗末だったかもしれないが、それとこれとは別だろ?」
「本番に弱いってことでしょ? それなら不安になるのも仕方ないって思わない?」
蒼太の言葉が容赦無く俊介の心の柔いところに突き刺さる。
「ぐ……、でもなあ」
(普通、ここまで言うことかよ……!)
「ぷ……くくく」
笑い声に顔を向けると二人が言い争ってる様子を観月は声を殺して笑って見ていた。
「ちょ、ちょっと観月さん。笑ってないであいつを止めてくださいよ」
「いやあ、ごめんごめん。蒼太君に仲がいい友達がいるなんて正直半信半疑だったんだけど本当だったんだね。オーナーに謝らなくちゃ。疑ってごめんって」
「別に友達じゃないし!」
「俺は違います!」
二人の声が重なるのにさらに観月は吹き出した。
「ちょっと僕に被せないでくれる?」
「お前こそ、ちょっとは黙ったらどうなんだ?」
「はいはい。君たちが仲がいいのは十分に分かったから。そろそろお客さんが来るから」
観月がそう話すと、ドアがゆっくりと開く。カランとベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
手慣れた様子で観月がそう言いながらお客様を案内する。
予め聞いていた通り、基本は近所に住む御婦人が中心だった。
「あら? 新人さんなの。ずいぶんとお若いのねえ」
「ええ、しかもなんでもピアノがめちゃくちゃ上手いらしいですよ。山手音大の学生さんなんだって」
「え、ちょっと観月さん!」
「まあそうなの? だったらぜひ何か弾いて頂戴な」
「あ……えっと」
「はは。今日は初日だからお手柔らかにね。また今度リクエストしてくださいな」
「あらそうなの残念。でも観月ちゃんがそう言うのなら仕方ないわねえ」
くすくすと笑いながらランチを楽しむ御婦人方の多いこと多いこと。
どうやらこの店は観月のファンが多いらしい。
あ、いや訂正しよう。
この店は観月のファンも多いらしい、が正しい。
「お待たせ。これ向こうのテーブルに持っていって」
「お……おう」
一瞬だけ蒼太の顔がフロアに出ただけで一部のテーブルが湧き立つ。
(なるほど……、蒼太目当ての客もいるってことだな……)
確かに顔だけは本当に綺麗だ。
有名インスタグラマー顔負けの容姿を誇っていると思う。
身長は比較的小柄だけどそれがきっと女性の母性をくすぐるのかもしれない。
「ねえ、貴方。ちょっとよろしいかしら?」
「え……? はい、なんでしょうか」
注文のメモをさっと取り出すが用件は全く違っていた。
「今日は及川さんはいらっしゃらないの?」
「あ、先ほどまでいらっしゃったんですけどお休みらしくてもう帰られましたよ」
そう伝えると御婦人は明らかに落胆したような声をあげた。
「まあそうなの? せっかく彼に会いに来たっていうのに……。でもしょうがないわね。お休みじゃあ。だったら彼のシフトを教えてくださらない?」
「え……えっと」
言い淀むと後ろから観月が助け舟を出してくれる。
「残念だけど出勤は秘密なんですよ。でも基本はいるはずなので。ぜひ通って及川さんに会いに来てくださいね」
そう甘い顔で伝えると御婦人ははしゃいだように笑った。
(ああ凄い……。なんていうか皆イケメンだもんな。俺大丈夫かな。こんな平凡な顔で……)
ぺたぺたと顔を触りながらため息をついた。
しかし流石というべきかさりげない観月のフォローのおかげで常連さんにもなじむことが出来た。
最初こそ緊張したもののなんとかこなすことが出来そうでほっと胸を撫で下ろした。
(なんだ、簡単じゃないか。これなら穏やかにバイトも終われそうだな)
そう一息ついたが、平穏は長続きはしない。
楽観は時に毒となる。
その訳ありのお客様がいらっしゃったのはランチタイムが終わった三時ごろのことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます