第12話 俊介の記憶

 スポットライトがステージを照らす。

 その姿を舞台袖で見るのが好きだった。

 これから自分があの席に座る。

 自分が奏でる曲の世界を人々に知らしめるために。


 手には楽譜。ラフマニノフの協奏曲だ。

 この日のためだけに精一杯練習を積み上げてきた。

 難解な曲を弾きこなすためには時間も労力も必要だった。

 父親の期待は両肩にのしかかっていたがそれも今日報われるという自信があった。


 自分はきっと成功する。

 このコンクールがその門出になる。

 ステージに出れば破れんばかりの拍手が自分を出迎えてくれた。


 指をそっと鍵盤に置く。

 弾き始める直前のこの世界の静かさが好きだ。

 そうだ、そのまま指先に力を入れればいつものように曲の世界が始まる。

 楽しくて輝かしくて、心が湧き立つような世界に。

 そうすればきっと父の言っていた完璧な演奏もできるはず……。 


 そう思った瞬間、指先が凍りついたように動かなくなった。

 一瞬何が起きたのか自分でもわからなかった。

 ただ今まで感じていた温かな気持ちはなりを潜めてしまい、凍えそうなくらいに体が冷たい。

 視線の先にはラフマニノフの楽譜。

 しかしまるで暗号文のように何が書いてあるのかが読めない、わからない。


 指先が冷たい。

 今まで紡いでいた音楽が両の手からこぼれ落ちていくのがわかる。

 それを必死になって堰き止めたいのに、小さい手でどうしたらいいのか見当もつかない。

 泣きそうになるが、ステージでは涙は見せてはいけない。

 そう父親に厳しくしつけられていた。だから、泣けない。


 こんな時にどうすればいいのだろう。 

 必死になって鍵盤を追いかける。

 それでも指先から紡がれるのは音楽ではなく音の羅列だった。


 ああ、お願いです神様。

 僕に音楽を紡がせてください。


『ヘタクソ』


 はっとして目が覚めた。

 ああ、またあの夢かと俊介は頭をかいた。

 特に演奏が失敗した日には決まって見てしまう。

 スマホを見ると、まだ深夜三時を過ぎたあたりだった。

 心臓が破裂しそうなくらいに鼓動しているのが分かる。

 ただ今自分がいる場所がコンクール会場じゃなくて狭いアパートの一室であることが俊介を幾ばくか安心させた。

 大きく呼吸する。

 耳に蒼太の声がじっとりと残っている。

 そうだ俺は下手くそだ。

 神童と歌われていたのは過去のことだった。

 あの日、自分の音楽を見失ってから未だ落ちこぼれから脱していない。


「……」


 ふと蒼太のことを思い出した。

 実力があってそれを素直に表に出せるのは羨ましいと感じた。

 でも強気な蒼太の瞳が一瞬陰ったような気がした。

 そしてその静かな輝きに自分と同じ燻りを見出してしまったのは自分の勘違いとは到底思えなかった。


「藤野蒼太……」


 ぽつりと呟いた。

 自分の心の中にかつての温かな灯火が生まれたような気がした。

 緩い温度に身を任せていると次第に眠気が生まれてくる。

 明日こそピアノをうまく弾けたらいいのに……。

 そう思ううちに俊介の意識は深く落ちていった。

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