第9話 ファンタスティコ
険しい表情をした蒼太と気の抜けた顔をした俊介の顔を見比べて十四郎はぽつりと呟いた。
「まあ食べようか。冷めちゃうしね」
「あ……! いや、すいません! 俺……」
はっとして俊介が顔を上げる。
「いいって、そもそも突然お願いした僕も悪いしね。こっちにおいでよ。お腹すいたでしょう? 蒼ちゃんのナポリタンは美味しいから期待してていいよ」
「いや、本当。何ていうか……。期待させておいてすみませんでした!」
頭を下げると十四郎が慌てて手を振る。
「いやいや。こちらこそ。突然お願いされたらそりゃあ調子狂うでしょう。ごめんね、突然」
「……」
俊介の顔が歪む。
古傷を抉られたかのような鋭い痛みが胸の中に燻る。
(突然だから弾けないわけじゃない。昔はいつだって満点の演奏が出来たんだ……。それなのに、今は……)
「俊介君?」
黙ったままの俊介に十四郎が不審がる眼差しを向ける。
痛みに胸が押し潰されそうで顔が歪む。
「違うんです。十四郎さんのせいじゃなくって。俺は……、人前でピアノが弾けないんです」
「……」
背けられていたはずの蒼太の視線が一瞬だけ俊介に注がれた。
「弾けないって……。そりゃあどう言うことだい。だって君はピアニストを目指してるんだろう? 音大にいるんだから」
言葉にされるたびに胸に火傷をしたような焦がれた思いが広がる。
そうだ。
弾けないと言っておきながら自分は音大に通い、まだ夢を追いかけている。
昔の輝かしい栄光にすがってもう一度同じ景色を見たいと思って足掻いている。
何度挑戦してもまだ克服できない。
小さい頃にはたやすく出来ていたことなのに、今は暗闇で針に糸を通すくらい難易度が高いものだ。悔しさに唇をきゅっと噛み締める。
「ある時から極度に緊張しちゃうようになって……。一時は全く弾けませんでしたからこれでもだいぶ克服した方なんですけど。でも今でも誰かの視線があるとどうしても固くなっちゃうんです。一応形は曲を弾いてるようには見えるけど、聴けるような物じゃなくって……。はは……、情けない」
乾いた笑いを浮かべるも十四郎はどこか気遣うような視線で俊介を見た。
「俊介君……」
「すいません。なんだか重い空気にさせちゃって。すみません。ほら、俺のことはいいから食べましょ。うまそうだ……」
重たい空気を振り切るかのように俊介はわざと明るく振る舞った。
十四郎は何かを言いたそうだったが、俊介も心情を慮ったのだろう。
先ほどの空気を振り切るかのような笑顔でフォークを手にとった。
白い湯気の立つナポリタンはケチャップの甘くて香ばしい香りが食欲をそそる。
「いただきます……!」
目の前で手のひらを合わせる。
フォークをくるくると回して一口分を絡みとるとそのままぱくりと口に入れた。
「む……!」
頬張った途端に口の中に広がる旨味に思わず目を見開いた。
(め……めちゃくちゃ美味い!)
朝からほとんど食べてない空腹であったにしろその旨さは格別だった。
ふわりとした柔らかい麺に濃厚なケチャップが絡み合い、それに粗挽き胡椒がいいアクセントを加えていて実に奥深い味わいになっている。
噛むたびにじんわりと甘みが広がっていくのでついいつまでも噛んでいたくなってしまうほどだ。
もちろんナポリタンが嫌いな人なんてそうそういないとは思うけど、この一皿は口に含むたびに胸の奥底から喜びが湧き立つようなそんな錯覚へと落としてくれる。
ゆっくりと味わうように咀嚼して静かに目を閉じた。
雨に降られて体が冷えているはずなのに。さっきまでピアノがうまく弾けなくて指先がかじかんだようだったのに。血がゆっくりと体を廻りだし顔に赤みが増してくる。
(まるでいい音楽を聴いているみたいだ……。美しい旋律を弾いているのにも似てる……心が洗われる……)
うっとりとした表情を浮かべながら俊介は思わず呟いた。
「ファンタスティコ……」
「は?」
蒼太の怪訝な声に俊介は急に現実に引き戻された。
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