第8話 トラウマ
しかし今の俊介には完璧に弾ききりたいと言う気持ちの方が優った。
「……」
ふうっと息を吐いて指先を鍵盤に置いた。
大丈夫と胸の内で気持ちを落ち着かせるように繰り返す。
入りが一番緊張するのだ。
曲の世界観が指先からピアノにうまく伝わるか、一瞬で決まってしまうから。
気持ちを作る。そして息を整える。
すっと吸い込むように指先が沈む。
悪くない。
そのままそっと、曲の情景を思い浮かべながらゆっくりと力を入れる。
心と指先が一つになって音の束が次第に広がっていく。
音符の一つ一つが光って自分を導いてくれるような感覚が生まれる。
そうだ、これがピアノを弾くってことだ。
いける、いける。
これなら、きっと最後まで弾ける。
後はこの流れに身を任せるだけだ。
その時、ふっと、人の吐息を感じた。
きっと十四郎だろう。
まるで蝋燭の火を吹き消すかのようにその瞬間に思い描いていた曲の世界がすっと消えていった。
頭の中を影が過ぎる。
(あ……)
まぶたの裏にはトロイメライの店内ではなく、スポットライトの当たるグランドピアノが映る。
耳の中にカデンツァが響く。
重たくてそれでいて厳格な音だ。
(ラフマニノフ……)
今自分が弾いている曲ではない、ずっと俊介の心を縛っている楽曲だ。
必死にトロイメライの曲を思い出そうとする。
曲の世界を取り戻そうと必死になる。
額に脂汗が滲む。
震えるような感覚が指先から這ってくる。
耳の裏に父親の厳しい声が響く。
あの突き刺すような眼差しが俊介に向けられたような気がした。
「あ……」
その瞬間に俊介の体温が急降下した。
指先が冷たい。
頭の中に描いていた情景が遠のいていくのが分かる。
(ダメだ……! 戻ってくれ)
そう懇願するのに崩れていく楽曲を留めることができない。
音符がばらけていくのが分かる。
さっきまでは確かに曲の形を成していたのに、今はつぎはぎの音符を無理やり合わせて音の羅列を作っているに過ぎない。
やっとのぎこちなさでようやく繋いでいた。
曲としては破綻していた。それがわからない俊介ではなかった。
でももう一度頑張れば、ここから巻き返せるんじゃないか。
そう思いたい一心で指先を動かしていた。
「ヘタクソ」
ピタリと手が止まった。
顔から血の気が失せた。
はっとして声のした方に視線を向けると、湯気の立っている皿を持った蒼太がこちらを睨みつけながらテーブル脇に立っていた。
「ほら、出来たよ。これで借りはチャラでしょ? 早く食べて帰ってくれない。これから営業しなきゃだから」
三人分のナポリタンがテーブルの上に並ぶ。
しかし、俊介は額の汗が流れるのもそのままに、その皿を見ながら茫然としていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます