第7話 矢地尾雅樹というピアニスト

 このトロイメライと言う洋食レストランは明治初期に建てられたという話だった。


「僕のおじいさんが外国人技師相手に商売しようと思ったらしくてね。この土地を借りてやってたらしい。僕も後を引き継いだけどもう老いには勝てなくてねえ……」


 そう言いながら手の甲を見せる十四郎の目は遠い昔に思いを馳せているようだった。


「指の関節が曲がらなくなる病気でね。まあそれでフライパンを持つのも億劫になっちゃって。でも僕の息子とね、それに孫の……。ああ、僕は蒼ちゃんって呼んでるんだけど。藤野蒼太って名前でね。それにお弟子さんがもう一人手伝ってくれるから僕は安心して引退出来てるってわけ。と言っても、こうしてコーヒーを淹れることくらいはまだ現役さ」


 アンティークのカップを傾けながら十四郎はそう言った。

 ふんわりと珈琲の香ばしい香りが鼻をくすぐる。カップに口をつけると苦味とともに体がじんわりと温かくなったような気がした。

体は予想以上に冷えていたようだ。心をほぐれていくのが分かり、心地よさに落ち着く。


(トロイメライか……)


 珈琲を飲みながらその名前の由来に思いを馳せていた。

 夢という名前の、ピアノ曲を代表する楽曲の一つだ。

 作曲者はシューマン。

 テレビなどで知名度がある曲だから誰もが一回は聞いたことがあるのではないだろうか。

 その名のように漂うような拍節が特徴でゆったりとした曲調に思わず夢見心地になってしまいそうになる曲だ。

 だがもちろんただゆっくり弾けばいいというわけではない。

 曲の解釈をどう噛み砕き、指先に載せるのかは演奏者の腕の見せ所である。


(どうやらこの店ではピアノは手放しでは歓迎されないらしいけど……)


視線を向けると奥では蒼ちゃんもとい、藤野蒼太が何やら腕を奮ってくれているようだ。

 薄らと漂う食欲のそそる香りに俊介はそういえば昼飯をまだ食べていないことを思い出した。これはいけない。気を抜くとまた腹の音が鳴ってしまいそうになるのを必死に腹筋で押さえつけた。


「それで君のことは……、なんて呼べばいいのかな?」

「あ、俺は。いや、僕は矢地尾俊介っていいます。そこの山手音大のピアノ科に通っていて……」


 十四郎の白いひげがぴくりと動いた。


「矢地尾? ひょっとして君のお父さんは有名ピアニストの矢地尾雅樹じゃないのかい?」

「え……、まあ」


 俊介の胸が苦く疼く。あまりその名前は聞きたくなかった。


「そりゃあそうだよね。さっきのピアノは見事だったものね。いやいや、日本を代表するピアノ奏者の息子だと言ったら上手いと言うのも失礼だよねえ。そうだ! もう一回弾いてみてくれない?」

「え……」


 さっと俊介の背中に冷たいものが走る。


「いやあさっきのトロイメライは素晴らしかったよ。このお店の名前にもなってるでしょう? 僕はこの曲が昔から好きでねえ。途中からしか聞けなかったからもう一度ね。ね、お願い!」

「……いや、でも……」

「まあまあ、そう謙遜せずにさ!」


 煮え切らない答えを零す俊介などお構いなしに十四郎は俊介をスタンウェイの前に引っ張ってきた。


「あ……」


 とすんと否応がなしに椅子に座らせられる。

 ここまで強引にされたら弾かない選択肢はなさそうだ。

 首筋にじんわりと汗が滲む。


(断るか。……いや大丈夫。さっきはうまく弾けたじゃないか……)


 掌をにぎにぎしながら先ほどの感覚を思い出す。

 期待と少しの不安がせめぎ合う。

 しかし今の俊介には完璧に弾ききりたいと言う気持ちの方が優った。

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