第5話 スタンウェイ

思わずあたりを見渡して今この空間に自分しかいないことを確かめる。


(ちょっとだけ……、ちょっとだけだから……)


 胸に生まれた好奇心に俊介は抗えそうもなかった。

 そっとピアノの前に置かれた椅子に座る。

 高さもちょうどいい。

 まるで俊介に演奏されるのを待っていたかのようだった。

「よし……、これならきっと大丈夫」

 掌をタオルで拭い、グーとパーを繰り返して冷えた指先に血を巡らせて温めた。

 ぞくぞくと背中から期待が駆け上がる。

 一体このピアノは自分の手によってどんな音色を奏でるのだろう。

 早る心を抑えながら椅子に静かに座った。


「……」


 すっと両の手を鍵盤へ。

 ゆっくりと息を吸う。

 目を静かに伏せて耳をすませる。

 この弾き始める一瞬が好きだ。

 指先を沈ませれば流れるように音符が踊る。

 ピアノを弾いている時の自分の体がだんだん自分じゃなくなってくる感覚が心地いい。

 頭の中に曲の風景が広がっていく。

 どんな人がいて、どんな生き方をしているのか。

 曲は必ず終わりがあるけれどその中にぎゅっと世界が詰め込まれている気がする。


 それを表現するのがピアニストの仕事だと思う。


 同じ曲なのに違う人が演奏すればまったく異なる表情を見せるのが面白くて心が沸き立つ。 

 子供の頃からずっとこの居心地の良さがたまらなくて、同級生が夢中になるおもちゃなどそっちのけでこの繊細で大胆な楽器に夢中になった。

指先から広がる音が人の心を打つようなそんな曲を生み出すのが面白かった。

 弾けばそれだけ周りの人も喜んでくれた。

 俺の両親もそうだった。特に父親は手放しで褒めてくれてその後多大な期待をかけてくれて、そしてそれから俺の技術はうなぎ上りだった。

 父親の教えのおかげで随分と色んな賞ももらった。


 輝かしい過去だったと思う。

 ピアノを弾いていればその間はずっと幸せなのだと。

 未来永劫ずっと続いていく、疑う余地などないとあの時は思っていたのだ。


「ふ……」


 弾き終わって静かに鍵盤に目を落とす。

 綺麗に弾けたと思う。

 曲の世界も解釈も自分なりにベストだったと思う。

 今弾いたのは練習曲の中の一つだ。

 この完成度なら教授も納得してくれるだろうし、これならコンクールに出しても問題がないとも言ってくれると思う。


 そう……、きっと大丈夫。

 『アレ』さえ起きなければ。


 ぐっと唇を噛む。胸の中が黒いもやに覆われたように陰っていくのが分かる。

 何事もなければどんなにいいだろう。

 そうすれば俺はこのままステージで幸福のままピアノを弾き続けられていられるのに。

 まるで怯えるかのようにピアノと付き合わなくちゃならないなんて……。

 そう一人心地ていると急に拍手の音が響いてはっと我に帰った。


「いやはや素晴らしい! お若いのにトロイメライの細やかな解釈が見事だったよ。君はプロなの? いやいや、言わなくても分かるよ。ちょっとそこらの素人じゃあああもならないさ」

「あ……えっと」


 店の奥から顔を出したのは顔を白いひげで覆った老人だった。

 黒縁のメガネ、手には木で出来た年代物のパイプ。若草色のニットベスト。少しお腹がでっぷりとしていて身長は俊介より低いけれどどこか上品な雰囲気を感じた。さらに言えばヒゲのせいで昔絵本で見たサンタクロースのようだなと俊介は思った。


「すみません、勝手に……」

「いやいや。さしづめにわか雨に降られたんだろう? 困ったときはお互い様だよ。これを着るといいさ。しばらく使ってはなかったがちゃんと洗濯してあるから安心して」


 老人から手渡されたのはバスタオル、それに男性用のシャツとデニムだった。サイズもちょうど自分のサイズぴったりのようで驚いた。


「ありがたくお借りします……。えっと」

「私は藤野十四郎って言ってね。このレストラン、トロイメライのオーナーさ。驚いたよ。うちはもう誰も弾ける人間がいないのにいきなりピアノが聞こえてくるもんだから」


「あー、えっと。それはですね、玉ねぎが……」

「玉ねぎ?」


 十四郎が目を見開いたところでカタリと音がした。


「あ……」


 音のした方に顔を向けると蒼太がこっちを鬼のような形相で見つめていた。

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