第2話 どうして空から?
落下する場所は少しばかり上の段だから一段抜かしで駆け上がる。
あと少し!
渾身の力でコンクリートを蹴上げった。
(やった……)
すんでのところでがっしりと捕まえられた。
どうやら無事のようでふうっと息が漏れる。
玉ねぎに、楽譜に、美人か……。
一気に空から舞ってきた。
もう他に何が落ちてきたって絶対に驚いたりしないと断言できる。
一瞬そんな馬鹿げたことを考えるくらいには俊介は混乱していた。
だからこそ、一瞬の気持ちの緩みが油断を生んでしまったんだと思う。
必死で踏ん張って受け止めようとした瞬間、履いていたスニーカーがすっぽり脱げた。
「は……っ」
(あ……、これは死んだわ)
後ろは硬いコンクリート。そして数百連(つら)なる階段の坂が伸びている。
このまま受けてとめて頭でも打ってしまったらそのままお陀仏だ。
空中に投げ出されそうになる感覚に思わず背中がざわりと波立つ。
ふっと視線を感じると美人が澄んだ瞳で真っ直ぐ自分の顔を見ていた。
その瞬間、抜けてしまっていた気持ちがぐっと腹に戻ってくる。
(いや! だめだ! 俺ばかりならともかく、この子に怪我させるわけにはいかない! ふんばれ! 俺!)
「ぐぉお……!」
抱えて後ろにのけぞりながらぐっと堪える。足の腱がつりそうになるのが分かる。
普段使わない筋肉を急に奮い立たせたせいでどこかの筋がぴきっと音を立てたような気がしたが、今は見て見ぬふりをするしかない。
「……っと!」
上半身の踏ん張りで持ち直したものの耐えきれずに尻餅をついて倒れ込む。しかし不幸中の幸いで倒れた場所が良かったようだ。怪我を覚悟していたが背負っていたリュックのおかげで幾分か衝撃が安らいだらしい。痛みはあるものの体はほぼ無事だった。
「あ……、あぶねぇ。ってか君大丈夫? 平気? どっか痛くない?」
俊介の胸に収まる形で倒れ込んだ美人を揺さぶった。
「え……、ああ。うん」
のそりと起き上がったその子はやはり目を引くくらい顔がよかった。
肌は透き通るように白いし、肩まで伸びる髪は灰がかった銀髪。細身の白いタートルネックにチノパンを合わせてすらりと伸びた手足がより強調されているように見えた。さながらその姿は山手に良く撮影に来る雑誌モデルのようだ。
そう、声を聞かなければそのまま女の子だと思っていたくらいに美しかった。
(っていうか男かよ)
一種のがっかり感を感じながらも俊介は立ち上がって手を伸ばした。
「大丈夫? 俺の手につかまって……。って、あの……」
伸ばした手はそのまま空を切っていた。
と言うのも美人は俊介など見向きもしないでそのあたりに散らばる玉ねぎを一心に拾っていたからだった。
「え、あの。ちょっと……」
俊介の声など聞こえてないかのように、相変わらず視線は散らばる玉ねぎ一個一個に注がれている。
(玉ねぎはこの子の持ち物みたいだな……)
どうして空から一緒に降ってきたのは分からないけれど。
「あ……。俺も手伝うよ」
見事に階段のあちこちにばらけてしまったようで全部一人で拾うには骨が折れそうだ。
だいぶ下に転がってしまっているものもあるようで二十段下にも複数落ちているのが見えた。俊介は慌てて階段を駆け下りた。
(しかし、一体誰なんだろう。あの子)
ふと階段の上を見上げてみる。
相変わらず玉ねぎを拾っているようで階段の踊り場で蹲っているらしい。
見たことのない容姿だけれどこの近くに来ているということは同じ山手音大の学生なのだろうか?
(ピアノ科にはあんな美人いなかったし、作曲科か? いや、あれだけ見目がよかったら声楽科かもしれないな……)
ふとコンクールで見るめかし込んだ声楽科の学生を想像してみた。
きっと似合う。と言うよりも何を着ても似合いそうだ。今の服装だってシンプルな装いだからこそ持ち前の美しさが引き立っているように思える。ジャージにスニーカー、黒髪つり目の自分よりもよっぽど音大生らしいと思えた。
(しかしなんだって玉ねぎなんて集めているんだ?)
音楽とどう考えても繋がりがあるとは思えない。
訝しげに思いながら俊介も玉ねぎを一個一個集める。まとまった数を集めるとジャージの裾を風呂敷みたいに抱えるようにして踊り場へと戻ってくる。
「これで全部みたいだけど……」
声をかけるが返事はない。
どうやら何かを熱心に見ているようだ。
「あの……」
そっと覗き込むと何やら手に持っている。
よくよく見ればそれは先ほど俊介がばらまいた楽譜だった。
「ああ、ごめん。それ俺のなんだ。君を受け止めるためにぶん投げちまって……」
「トロイメライ……」
そっと口にした言葉。
それは楽譜に記された夢を意味する楽曲の名前だった。
興味があるならやはり音楽学部の学生なのだと思って俊介の顔がぱあっと明るくなる。
「え、ああ。そうだよ。君、やっぱり音楽詳しいの? すぐ分かるなんてピアノやってたとか? それともやっぱり山大生?」
嬉しさに矢継ぎ早に言葉を重ねると急にじろりと睨みつけられた。
(え……? 何? 俺なんか変なこと言った?)
憎悪にも似た鋭い視線を投げられて思わず怯んでしまう。
自分に何か落ち度があったとは思えない。そもそも先ほど出会ったばかりだし、交わした会話も怒るような内容ではなかったと思う。
「別に……」
困惑を顔に浮かべて見つめ返すだけしかできないでいると何故か不機嫌そうな顔になった。
「え……、あ。あの……」
戸惑う俊介をよそに美人は階段を上っていく。
「あ……っ、ちょっと待ってくれよ」
慌てて後を追いかけて階段を上り切る。
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