名前はアヌビス


「え! 犬じゃん、」


 野良犬とは思えない濡れたカラスのような艶のある美しい漆黒の毛並み。シトリンを嵌め込んだのかと見紛うぐらいイエローに輝く瞳。スマートな体型と形の良い長いマズルに、鋭く長い耳。

 まるでエジプト神のアヌビス。


 どう見ても体格は大型犬の成犬のようだが、顔に幼さが残る。身体に対し手足が大きいところを見ると、まだまだ成長しそうだ。ゴンも拾った時とは想像もつかないぐらい、どんどん大きくなっていったが、この子の成長した姿も楽しみだ。

 しかしどうしたというのか。

 前脚を怪我しているのかびっこを引いているではないか。相当痛いのだろう。地面になるべくつかないように歩いている。


「怪我をしているようですね……」


 その姿にホッと一安心するミハエル。

 いや、まて。

 この光景に安心する要素などひとつも無い。あんな可愛い子が怪我をしているというのに、一体何が安心出来るのだ?

 ふざけるなと思いながら、私はゆっくりとしゃがんだ。


「どうしたの? おいで? 見せてごらん?」


 警戒されないように、出来るだけ優しい口調で、ゆっくり、目線を同じにして、それより下に、手を出した。


「な、何やってるんですか……!! 魔物ですよ……!! 危険です……!!」

「ちょっと! うるさいよっ……!」

「ち、千聖さん……!?」


 ──グルルル、


 ほら見たことか。ミハエルが急に大声を出すから警戒されてしまったではないか。「黙ってて……!」と静かに一喝して、また〈アヌビス〉に目線を戻す。「千聖さんやばいですって……!」と後ろで何か言っているがもう無視しよう。というか私は目の前のいっぬに夢中だ。


「ごめんね、急に大きい声出して。ね、何もしないから、少し見せてごらんよ」


 グルルと警戒しながらもおずおずと近寄り、指先の匂いを嗅ぐ〈アヌビス〉

 そのまま、動かないで、手を出したまま匂いを嗅がせて、警戒が解けるまで、ゆっくり、時間を掛けて。

 それから、そっと、顎下を撫でる。まだ少し疑っているようだが、〈アヌビス〉は何となく安全だと分かってくれたらしい。


「ま、マジですか千聖さん……あり得ないですよ……魔物を撫でるなんて……」

「うん、大丈夫でしょう? さぁ、お手手見せてね」

「聞いていない……」


 そしてまた、ゆっくり、優しく、時間を掛けながら、怪我をした前脚へと、撫でながら自身の手を移動する。


「痛そうだねぇ……、辛いでしょう?」


 血は止まっている様だが汁が出ている。放っておけば化膿するだろう。それこそ脚を切断しなければならないなんて事になったら可哀想だ。

(包帯か何かがあれば良いのだけど……、何か、使えるもの……)


「あ、そうだ。ミハエルさん背中のリボン取ってください」

「はい? 背中のリボン??」


 ドレスの編み上げに使われている幅の広いコットンレース。きっと高いのだろうが、そんな事は関係ない。目の前の可愛い子の為に申し訳ないが遠慮なく使わせてもらう。


「へ!? あ、その、編み上げのリボンですか……!?」

「そうですよ。あとミハエルさん、薬草すり潰したやつ持ってましたよね。貸してください」

「えぇ……!? っや、薬草は全然構わないのですがっ……、その、私に、ぬ、脱がせと仰るのですか……!?? 団長の婚約者様を……!??」


 何をそれ程までに焦っているのか。

 ミハエルは顔を真っ赤にして、つい声を大きくするから、また〈アヌビス〉が警戒し始めている。それに脱がせなんてひとことも言っていない。


「いえミハエルさん。脱がすんじゃなくてリボンを取って欲しいだけです」

「もうそれほぼ脱がすのと一緒ですから……!」

「いや脱がないでしょう? 裸になるわけじゃないんだから。つべこべ言わず早く取って下さい」

「えぇええ〜〜……!! ハードル高いなぁ〜……!」


 誰の真似をしているのか、ミハエルはゆっくり、ゆっくりと、リボンを解いていく。

(いや私、獣じゃないんで早くして下さいよ……)


 ミハエルがリボンを解いている間、〈アヌビス〉と少しだけ打ち解けて、それから傷が綺麗に治れば良いなと思いを込めて慎重に薬草を塗り、丁寧にレースを巻いた。〈アヌビス〉は、森の奥へと消えた。

 また、会えるだろうか。


 結局殺すのにそんな事をして意味はあるのですかと、ミハエルは自分のジャケットを着せた私に問うた。

 『結局殺すのに?』

 そんな事、私は知らない。


「何故、殺すの?」

「そりゃあ……、魔物だからですよ」


 ミハエルノウマに二人で揺られ、城へと向かう。

 蹄鉄の音が小鳥の囀りと相まって心地良いサウンドを奏でる。


「魔物だから? 魔物は、悪い存在なの?」

「はい。作物は荒らすし近年ではよく人も襲います。毎日何処かで魔物は人を襲い、ここ最近は死人も多いですね。人の味を覚えた魔物はずっと人を襲い続けます」

「作物を荒らして、人を襲うから、……殺すの?」

「ええ、まぁ……魔物は物凄い大きさですし、普通の村人じゃ駆除出来ませんから……、私達騎士団が居るのです」

「共存は出来ないんですか?」

「共存!? 考えたことも無いですね。それに、無理でしょう。魔物達は喰うことにしか興味が無いですから。そんな事をするぐらいなら殺したほうが早いですよ」

「………そう、」


 このまま淑女で居れば、〈アヌビス〉はいつか殺されるだろう。しかし、私にはそれを阻止する知識がまだ無いのだ。

 まず私がやることは、陛下に会って騎士をひとり付けてもらうこと。でなければ自由に城にも行けない。


 焦らずに、着実に。

 ひとつひとつ解決しなければ。

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