第18話 痛みのない世界。

 ヒックは広場の中心地で、大の字で倒れていた。


 ぐぅー、とお腹が鳴る。

 食糧は、もう底をついていた。


 小さな揺れが起き、八本足のような通路の全てが新しくなってから、

 いったい、どれだけの時間が経ったのだろうか。

 同じことを繰り返しているので、意識がぼーっとしてくる。

 寒さによって、思考が凍りついてきていた。


 体の感覚は、ほぼないと言っていい。


「ヒック……」


 すると、チキの声。

 ひとりで通路の奥までいっていたのだろう。

 いつの間にいっていたのか。


 スタートしたことすら知らなかった。

 二人の中に、互いに声をかける発想がまだあっても、

 それをきちんと把握する思考は、残っていなかった。


 チキは声をかけた、と言うが、

 ヒックは声をかけられたことなど覚えていなかった。


「やっぱり食べもの、なかった」


 冷凍庫のようなこの空間に、自然に生まれた食材があるとは思えない。


 希望はそもそもで薄かったが……、やはりショックは大きい。


「そ、っか……」


 ヒックは体を起こす。起こすまで、かなりの時間を要した。


 目線を前へ。チキの姿がなかった。


 あれ? と探すと、目の前、チキがうつ伏せで倒れていた。


 着ている黒いコートはボロボロで、切り裂かれ、穴が開いている。

 何重にも服を着こんでいるのに、それを全て破り、肌が露出していた。


 子供らしい白い肌が、大きく切り裂かれ、赤い液体をだらりと流す。

 すぐに液体は凍り、色は薄く赤い。


 枝にでも引っかけたのだろうか。

 動物の爪で切り裂かれたわけではない規模だった。


 傷は小さいが、数が多すぎる。

 カマイタチの竜巻に巻き込まれたように、隙間なく切り刻まれていた。


「お腹空いたぞー、ヒック」

「いや、そんなこと言っている場合じゃないよ……」


 全身が切り刻まれているのだ。

 そんな、のんびりできるわけがないのだが。


「チキ、その傷、痛くないの?」

「……傷?」


 チキは体を半回転させ、仰向けになった。

 顔だけ動かし、自分の体を見る。

 そこで、いま気づいたかのようなリアクションをした。


「わっ、なんだこれ!?」

「知らなかったの……?」


 チキは傷を遠慮なく触り続ける。

 傷口に直接、指を入り込ませているのだが、痛みを訴えることはない。

 がまんしている様子はまったくなかった。


 寒さによって、痛みをまったく感じなくなっているのだ。


「チキ、それ以上その傷を触っちゃダメだ!」


 止めなければいつまでも触り続けていそうだったので、やめさせる。


 チキも、ヒックの制止を振り切ってまでやる理由はなかったのだろう、素直に頷いた。


「チキはここでゆっくり休んでて。動いちゃダメだよ。今度は僕がいってくるから」


「ダメ! ヒック、なにか見つけたら隠れて食べるつもりだもん!」


 それはどちらかと言えばチキに抱く不安なのだけど。


 そんなことしないよ、と言って手を振り、ヒックは残っている通路を進んでいく。


 食べたら許さない、というチキの視線が背中に突き刺さるが、気にしないことにした。

 見つけても、もちろん食べないし。まあ、食材なんてないと思うけど。



 痛みというのは、セーフティだ。

 痛みがあるからこそ、これ以上、突き進んではいけない、

 これ以上、無理をすれば、死んでしまう……死への基準が分かる。

 目には見えないが、死までの距離を測っているのだ。


 しかし、寒さによって痛みを感じない、いまはどうだろう。


 痛みがないのは、そのセーフティが機能していないことになる。


 進入禁止のテープが張られていない、禁止区域に繋がる道を、ひたすら突き進んでしまう。

 そして、この先になにがあるのか把握していないまま、途切れた道の先、崖から落ちて死ぬ。


 チキは痛みを訴えていなかったが、確実にダメージは体に蓄積されている。


 本当ならば激痛で体など動かせない。

 途切れた道がこの先にあるという看板と共に、侵入禁止のテープが張られているはずなのだ。

 だからこそ、チキは安静にし、治癒を待つのだ。待ち構える死を確実に回避する。


 だが、いまのチキには警告がない。


 あの傷でも大したことはないと動き、活動すれば、体は悲鳴を上げる。


 チキは体の状態がまずいという自覚なく、死へと自ら進んでしまう。


 痛みを感じないというのは一瞬、メリットにも見えるが、デメリットにしかならない。

 痛み止めなど、できれば使わない方がいいのだ。

 痛みで、体はもう無理だというメッセージを残しているのに、

 その意見を押し潰していいことなどひとつもない。


 他者のバックアップがあれば、

 体を限界まで酷使しても、助かる見込みはあるかもしれないが、

 いまの状況で体を限界まで使われては、どうしようもない。

 ヒックひとりでは、チキの怪我、全部をサポートなどできない。


 ヒック自身だって、限界なのだ。これでは共倒れになってしまう。


(痛みなんて、感じない方がいいと思っていたけど……)


 苦しい。つらい。

 そんなマイナスイメージしかなかった。


 しかし、ないならないで、自分は生と死の、どちら側に寄っているのか分からず、恐い。

 先を見通せない。予定が立たない。

 何気なく踏み出した一歩目が、もう既に崖かもしれないのだ。


 雪山とは恐ろしい。

 明確なビジュアルがなく分かりにくくとも、

 寒さという敵は、死に直結させる力を持っている。


「……行き止まりだ」


 予想通りだった。よろけて、どんっ、と壁に背中をついてしまう。

 壁を支えにして通路を引き返し、広場に戻ったヒックは、

 横になって安静にしているチキを発見する。


 じっとしているなんて、チキにしては珍しい。


 チキの頭を偉い偉い、と撫でようとしたら、チキの表情が一気に変わった。


「ヒック! なにしてんだッ!」


 驚きと怒りを混ぜた表情と、走って詰め寄ってくるその勢いで、ヒックは引いてしまう。

 なにがなんだか分からず、おろおろしていると、チキが言う。


「その肩に刺さってるツララ――痛くないのか!?」


 へっ? とまぬけな声を出しながら、ヒックは恐る恐る、自分の肩に手を伸ばす。


 こつん、となにかが当たった。

 冷たい、物体だ。

 それがヒックの肩に深々と刺さっていた。

 視線を向けてみると、チキが言った通りだった。


 弓矢くらいの長さで、少しだけ太いツララだった。

 いつ突き刺さったのか、まったく覚えていない。

 いや、刺さったことすら、知覚できていなかったのだ。


 痛みがないから。

 感覚がないから。


 刺さったことにさえ、気づかない。


 チキと協力して、ツララを引っこ抜く。

 痛みがあったらと思うと、とても抜けなかった。

 そこだけは痛みがなくて良かったと思う。


 幸いにも、寒さのおかげで噴き出る血はほとんど、一瞬で固まった。


 ヒックは肩を片手で押さえ、座り込む。


 肩を動かすのに、少し違和感がある。

 が、動かせないほどではなかった。


 しかし、もしも痛みがあれば、横になって痛みに悶えているはずである。


 それがないだけで、ダメージは体の芯にまで届いている。

 これを放って動くのは、危険すぎる。


 こうして、二人はまともに動けないほどの傷を負ってしまった。

 二人、向き合って座り込み、なにも言えない。


 無理をすれば死ぬ可能性が高まる。


 だが、動かなければ、ここからは出られない――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る