番外編:通り雨
第14話 上空に注意。
【冬国へ訪れる以前の、とある日のことだった――】
パンがひとつしかなかった。
なので、ひとつを半分で割って、二つにした。
旅人の少年――ヒックは、相棒である少女、チキにパンの半分を渡す。
もう半分は自分で食べた。
大きさは半分になってしまったけれど、なにも食べないでいるよりはマシである。
胃に詰め込み、空腹をしのぐ。
いまの段階では空腹をしのぐことはできている、けど。
それも、長くは続かないだろう。
あと数分したら、空腹は限界を迎えそうだった。
「大丈夫か? チキ」
ヒックがぼそぼそと、そう聞いた。
「うーん……お腹、空いた」
チキは、こくりこくりと、眠い感情を抑えながら、そう答える。
「僕も空いた……。次の街まであと半日もあれば着くとは思うけど……、
目的地に着く前に僕たちが倒れちゃうかもしれないね」
「大丈夫……いざという時は自分の体を食べるから」
「恐いことを言わないでくれるかな。
でも、それくらいのことをしないと生死に関わるよね」
ヒックは、わりと本気で、そう思う。
早く着けば大助かりだが。
しかし街に向かう速度を決めているのは、自分たちではない。
いまは街から街へと物資を運ぶ車の荷台に、ひっそりと隠れている状態である。
つまりは無銭乗車だった。
なので、運転手に速度を上げてください、なんて言えないのである。
ゆったりと進む車に苛立ちを覚えながら、
荷台から見える景色をじっと見つめる二人。
さっきから森ばかり。
緑で埋め尽くされていて、目が、緑に染まっているような気分だった。
そろそろ違う色がきてほしいものである。
それは、街に近づいている証明になるのだから。
だがずっと、ずっと、緑ばかりだった。
その事実は、街まではまだまだ、という事実を、ヒックに叩きつけている。
同じく、チキにものしかかる。
時間が経てば経つほど、腹に溜まっているものは消化されていく。
そして、芋づる式に、空腹が顔を出してくる。
あ、そんなことを考えていたら芋が食べたくなってきた。
ここは森なので、探せばあるかもしれない。
でも、見つけるまでの労力を持たせるための力がない。
なら、力をつければいい。となると、腹を満たすしかなく、
結局、最初に戻ってくるのだった。
空腹を解決させるためには空腹を解決させるしかない。
はじめと終わりが一緒で、ぐるぐると、サイクルしているような感じだった。
竜巻みたいに、ぐるぐるーっと。ヒックの思考も、ぐるぐるーっと、回る。
しかし思考は途中で止まった。
車になにか問題が起きたわけではなかった。
ただの――ヒックの弱点が、顔を出しただけであった。
「う、……チキ、気持ち、悪い……」
「車酔い?」
「うん……気持ち悪い……どうしよ、どうしよ……」
「……降りる?」
「それはダメ」
ヒックは、チキの親切心に釘を刺す。
ぱぁん、と。風船を割るようにして破裂させた。
「どうして?」
「いまここで降りたら、次に乗れる車がくるのは、いつになるのか分からない。
だったらここでこの車を残すのは得策じゃないよ」
「でも、ヒック、しんどそう」
「大丈夫大丈夫。少し寝れば気分もすかっとなるよ」
「ヒックが言うなら……。膝枕、してあげようか?」
「チキみたいな幼児体型じゃきついっ――いたた、分かった、ごめんごめん」
チキが肘でヒックの横腹をつついた。
ヒックは自分の失言を認めて、謝る。
チキが怒った時のことを知っているヒックは、
すぐにチキの怒りを鎮めることに全力を尽くす。
つまりは、膝枕を受け入れたということだ。
できるだけ、チキの言う通りにしておいた方がいいのだ。
「じゃあ、お邪魔します」
「どーぞ、どーぞ。散らかっているけど、どーぞ」
「まとまっているきれいな太ももだけど」
「……あんまりじろじろと見ないで。ヒックも男でしょ、一応」
「一応じゃなくて、ちゃんとした男なんだけど。……あ、結構これ、楽かも」
ヒックはチキの膝に頭を乗せて、真上を見上げる。
空は青かった。太陽の光が若干、眩しい。
だがそれも一瞬のことで、すぐにチキの顔が影になって、光を遮断する。
それにしても、こうして真下からチキのことを見上げることがないので、
ヒックは少し恥ずかしかった。
隣にいて当たり前の少女を、違うアングルで見てみると、
いつもとは違う魅力がちらちらと見える。
肌を極力、表に出さないようにしているチキは、顔だけは肌を晒している。
なので、顔の肌が、すぐ近くに見えるのだ。
近くて、鮮明に見えるから、意外にきれいなんだなー、ってことが分かった。
「なに?」
チキが言う。
「い、や、なんでも、ないかな……」
ヒックは、チキから視線をはずす。
逸らしてしまったのはまずかったのかな、と思ったけど、
チキは「?」と首を傾げるだけだったので、大丈夫だった。
チキを見て照れてしまった、なんてことがチキにばれれば、
これから先の旅に問題が出てしまう。主に、自分の居心地が悪いだけなのだが。
二人旅なのだ。できればあまり、問題は抱えたくない。
チキが鈍感でよかった。
まあまだ幼いから、そんなことに考えがいかないのかもしれない。
そう思っているヒックは、実はチキと歳がひとつしか違わないのだが。
互いの素性をあまり話すことがない二人は、
互いのことを詳しく知っているわけではない。
知っているのは名前――、くらいなものである。
そんなものなのか、と。
あらためて考えてみて、その事実に驚いた。
自分はチキのことをなにも知らない。
聞いてみる、か? 聞いてもいいことなのか?
いままで聞いていなかったということは、聞いてはダメだったからなのではないか。
それなのにいま、急に聞いてもいいのだろうか。
「ヒック、頭、動かしすぎ。少し、くすぐったい」
「あ、ごめん」
チキに言われて、ヒックが頭をぴたりと止める。
そこで、聞くのはやめておこうと思った。
いつか話してくれるだろう。そう思って。
ヒックも、自分のことを、話したい時になれば話すだろう。
だから、チキが話してくれるのを待っていようと思った。
そしてヒックは、目を瞑る。
眠るわけではなかったのだが、いつの間にか、意識が落ちていた。
暗い部屋の中にいる気分。でも、枕は柔らかくて、気持ちよかった。
はっ、として、ヒックが起き上がる。
なぜ、いきなり目が覚めたのか。それは、天候が怪しくなったからだった。
「どしたの、ヒック」
「空」
ヒックにつられて、チキが真上を見た。
空は、黒い雲に覆われていた。
「雨?」
「雨だけど、雨じゃない。チキ、マント持ってる?」
「う、うん。持ってるよ。さっき暑くて脱いじゃったやつ」
「それを二人で被ろう。それで防げるはずだから」
「雨を、防ぐの? でも、雨くらい濡れたって」
「いいから。できれば視界も隠した方がいい」
ヒックはそう言って、マントで全てを覆う。
まるで、世界から隔絶されたような気分だった。
周りは茶色いマントの内側の景色しか見せない。埋め尽くされていた。
いまになっても、なにも分からないチキ。
隣いるヒックに聞いてみようとしたら、
ヒックは、チキを抱きしめた。
「――! ――!?」
顔を真っ赤にしたチキは、なにがどうなっているのか、状況が掴めない。
ただ分かるのは、自分の頬が紅潮していて、
全身が熱くなっているということだけだった。
そんな状態で、ヒックに視界と聴覚を奪われたら、さらに訳が分からなくなる。
説明くらいはしてほしかった。
してくれたら、こんなに戸惑うことはなかったのに。
焦りに焦ってしまったチキは、ヒックの抱擁を無理やりに振りほどいてしまった。
ヒックは、チキを守るために行動していたというのに。
チキは、全てを台無しにするように、
壊してしまった。
破壊してしまった。
そして、マントが取られて、視界が晴れてくる。
世界と混合していく感覚。
溶け合っていく。
ばさりと飛び立つマントを見送る過程で見えた景色に、チキは、ぞっとした。
腕だった。
足もあった。
頭にこつんと当たったなにかは、たぶん、耳だったと思う。
人間のパーツが空から降ってきていた。
血だらけで、真っ赤な状態で。
「なに、これ……」
「通り雨」
ヒックが言う。
「人食い雲っていうのがいるんだよ。
どこにいるかは、僕も分かってないけど。
名前の通りに、人を喰らう雲。
そして、その雲は定期的に、食べたものを吐き出すんだ」
「それが、これ……」
「うん。通り雨。通り雨は、雨だけど、血の雨だったということ」
ヒックは、本当はチキに見せたくなかったのだろう。
それもそうだ。女の子には厳しい光景である。
足元に落ちている足、手、耳、鼻――その他。
見ているだけで、気分が悪くなる。
「ごめん、チキ。僕がもっと、きちんと説明していれば、恐がらせることもなかったのに」
「……大丈夫、だよ」
チキは、落ち込むヒックに向かってそう言った。
血の雨が降っていようが、なんだろうが、関係なく。
真っ直ぐにヒックを見つめた。
「これくらいのことで戸惑っていたら、この先、やっていけないよ。
ヒックだって、恐いでしょ、この雨」
「……っ」
ヒックは、震える拳を抑えようとして、失敗していた。
チキにはすごく、よく分かる。
「無理させちゃってたみたい。ごめんね」
「違うよ、チキ、僕は」
とんっ、と。
チキがヒックに向かって飛んだ。
抱き着いた。背中に回した手に、力を入れる。
ぎゅーっと。
ぎゅぎゅーっと。
これ以上ないってくらいに、力を入れた。
もう放さないとでも言いたそうに。
「もう放さない」
実際に言った。
ヒックも、チキの抱擁を受け入れて、力を入れた。
そうしていると、いつの間にか、雨は止んでいた。
血だらけだった。
二人は、血だらけだった。
「すっごい格好」
「うん」
「お腹すいた」
「そうだねー」
「この腕とか足とか、食べれるのかな?」
「それはやめておきなさい」
こういう時だけ、敬語になる。
慣れない言葉遣いをするヒックをおかしく思ったのか、
チキは笑った。
ヒックも笑った。
悲惨な光景の中心地点にいる二人は、
楽しそうに、笑い合っていた。
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