第9話 ヒックの一年。

 それは、足や腕の機能が奪われるよりも、つらいものかもしれない。


 平衡感覚が無くなれば、まともに歩くことができない。

 見える世界が、ぐにゃりと歪む。

 人に頼らなければ生きていくことがままならない。


 たったひとつの欠落が、全ての行動に支障をきたす。

 やがてそれは精神にまで及ぶ。

 ストレスや嫌悪感が人格を破壊する。今までのチキが、狂い、壊れていく。


 今ではああやって雪の上を転がり、楽しんでいるが。

 いくら無邪気なチキでも、ずっとあのテンションを維持することなんてできない。


「ヒックのせいだ」


 それを言われたら。

 怖い。


 でも、いっそ言って、責めてくれ、とも思う。

 なんてわがままなんだ。結局、自分が楽になりたいだけなんじゃないか。


 どれだけ人助けをしようとも、本質を言えば、自分だって悪人だ。


 外側ではない。内側がその人の善悪を決める。


 外面だけが良くても、感じる気持ち悪さは、内面の悪性を感じ取ったからだ。


 これはチキからの二次災害によってヒックに与えられた罰なのではないかもしれない。

 逆だ。ヒックからの二次災害によって、チキが餌食になったのかもしれない。


 チキは悪くない。

 悪いのは、僕なんだ。


 ぎりり、と歯を食いしばり、ヒックは雪を殴りつける。


 何度も。

 何度も何度も。


 雪を抉り、地面が見えてもまだ。


 殴り続ける。拳が、血だらけになるまで。


 振り上げた拳が、そこで止まった。

 チキが、その両手で包み込んでいた。


 ……温かい。

 チキも相当、冷たいはずなのに。温かく感じるほど、自分の手が冷たいのか。


「チキ……」


 どうやってここまで……、と感じた疑問はすぐに解消された。

 チキは平衡感覚がないまま、力づくでヒックの元まで歩いてきたのだ。

 ここまで、ところどころの雪が凹んでいる。

 何度、倒れても、その度に立ち上がり、ヒックの元を目指して。


「ヒックは悪くないぞ! 誰のせいでもない!」


 チキは叱るようにそう言った。


 さり気なく自分のせいというのも排除している辺り、

 自分のわがままも少しは入っているのかもしれない。

 この機を逃さず利用しているところを見ると、なるほど、強かだ。

 平衡感覚を失くしたことなど、気にしていないように。


「失くなったものは仕方ない。がんばれば克服できる!」


 今もたくさん転んだけど、ここまでこれたし! と、チキは満面の笑みだった。

 ……チキの笑顔に助けられるのは、これで何度目だろう?


 本当に、まったく。

 ヒックは、俯きながら、小さく、静かに笑った。


 奪われたからもうダメなんだと勝手に思い込んで、諦めていた。

 また勘違いをするところだった。

 これ以上はどうしようもない……、だから終わり、なんかじゃない。


 その先は必ずある。

 壁があるだけで、それを乗り越えたり、砕いたりすれば、道は見えてくる。


 チキは、ヒックの元にくるまでに、ひとつの壁を乗り越えた。

 だからと言って終わりではない。またひとつ、またひとつと壁は存在している。


 だが、終わりのない壁などありはしない。

 乗り越えて、砕いていれば、いずれ壁は消える。


 そこには道しか存在しなくなる。


 奪われた事実を帳消しにするほどの、克服が待っている。


 ああ、なんだ。希望は、まだまだあるじゃないか。


「チキ、部屋に戻ってて。……僕は、追いかけてくる」


 ゆっくりと立ち上がったヒックは、そう言い残して走り出した。

 足の裏の痛みなんて感じない。進め進めと、足が勝手に動く。

 できるわけがない、という弱い自分の言葉は、もう聞こえない。


 黒いサンタクロース。しばらく走っていると、その姿を捉えた。


 ヒックは手を伸ばす。その手は黒いサンタクロースの背中を触れ……、る前に。


 黒いサンタクロースの姿が、弾けるように霧散した。


「あ……」


 散り散りになる黒い小さな粒子の渦の中を、ヒックが通り抜ける。

 黒いサンタクロースだったものは天へ昇る龍のような細い形となり、

 星空の下を漂いながら移動していく。


 自然に任せているわけではない。

 この一年の評価で悪人だと決められた者の元へと、向かっているのだろう。

 チキと同じように、その者からなにかを奪うために。


 去った黒いサンタクロースを見つめるヒック。

 ぎゅっと、拳が握られた。


 奪われたものを、取り返せなかった。

 ヒックは拳を握っているが、掴めたものは何ひとつない。

 取りこぼしたものが、大きすぎる。


 まだ、諦めない。


 ヒックは追うために足を踏み出したが、冷え切った足は脳からの指示を拒絶した。

 膝が地面につく。その時に気づいた。全身が震えている。

 寒さからくる、痛みを通り越していた。なんだか、痒いくらいだった。


「あれ……? 体が、重い……」


 頭ががんがんする。

 目の前がぼやけて見えてきた。水滴が、まぶたから滴っているような。


 頬が冷たい。冷たいけど、なんだか寝心地がいい。


 そこまで分かってから、自分が横に倒れていることに気づいた。


 ヒックが自覚している以上に、彼の体は寒さによって蝕まれていた。


「……追わなきゃ」


 病的に、そう繰り返す。横になりながら、腕をかく。

 水中と違って、まったく進んでいない。

 腕をかいて集まった雪が、どんどん溜まっていくだけだった。


 意思とは無関係に積み上げられたバリケードが、視界を覆う。

 風を防いではくれるが、単純な冷たさは、壁の内側にいるヒックの体温を、

 じわじわと奪っていく。


 かいていた腕は勢いの失くし、やがて止まる。

 ヒックの体は、ぴくりとも動かなくなった。

 意識ある限り、死ぬことはないだろうが、それも時間の問題である。


 幻想が見えた。

 死の間際だからだろうか。


 ヒックの肩を、とんとんっ、と優しく叩く者がいた。

 チキでなければ誰だろう? 

 静かな街の中。誰もが眠っているこの時間帯に、出歩いている者などいるのだろうか。

 黒いサンタクロースを追ったヒックくらいなものだろう。


「メリークリスマス」


 鼓膜を通さず、直接、頭の中に流れ込んできたような感覚。

 薄っすらとした意識の中でも、声は鮮明に聞こえた。


「君の一年は、誰がなんと言おうと、褒められるべきものだよ。

 つらかったことがあったろう、悲しかったこともあったろう。

 同じように、楽しかったことや嬉しかったこともあったろう。

 君が積み重ねてきたこれまでの選択が、色々な人を救ってきた。

 君は道を踏み外さなかった。君は、ずっと正しくあったんだ。

 それを君自身が否定して、どうするんだい?」


 君は間違ってなんかいなかった。

 君のせいじゃない。


 だから、がんばったご褒美である今日を、そんな顔をして迎えないでくれ。


 言われた言葉に、救われた。

 でも、やっぱり。

 笑顔で今日を迎えることなんて、できなかった。


「よくがんばった」


 大きくて温かい手が、ヒックの頭の上に、ぽんっと、乗っかった。

 優しく、撫でられた。それが心地よくて。不安が全て、消え去った。


 そして、心の中でセーブしていた感情も、残さず、全て出てくる。


 この一年間をどれだけがんばっていたとしても。

 いま、この時、チキを救えなかったら意味がない。

 奪われたチキの平衡感覚を棚上げにして、

 笑顔で楽しく今日を迎えることなんてできなかった。


 許せない。

 チキを忘れてのうのうと幸せを感じる自分なんて、絶対に許せない。


 それを聞いて、は、にこりと笑った。


「一年間をがんばった君に、たったひとつ、ご褒美をあげよう。

 なんでも君の望みを叶えてあげよう。それがサンタさんからの、プレゼントだよ」


 プレゼントなんて、こんな状態でもらえるわけ……、

 ヒックは目を見開き、ばっと顔を上げた。赤いサンタクロースと目が合った。


 サンタクロースが言わんとしていることを、ヒックは感じ取った。

 なんでも。

 そのなんでもが、本当に【なんでも】なのだとしたら。


「サンタさん……サンタさんに、できないことは?」


「なにもないさ。私は、君たちが生まれる前から当然のように存在していたのだよ。

 どうして生まれたのかは分からないけど、

 クリスマスのイベントに必ず出てくる赤いおじさん。そういう認識さ。

 知っているけど詳しくは知らないその曖昧さは、

 言い換えてしまえば、なんでもありな存在なのだよ」


 君たち子供は、そう解釈するだろう?

 言われてヒックは、確かに、と頷いた。


 いまの説明だって、いいように丸めこまれている気もするが。

 なんでもありなら、ヒックにとって困ることはない。


 本人から言質を取れたのだ。

 今更、できませんでした、じゃあ、サンタの名が廃る。


「サンタさん、僕には、欲しいものがあります」


 なにかね? と赤いサンタクロースが耳を傾けてくる。


 ヒックの願いを聞き、サンタさんは。

 頷きと共に、あのフレーズを繰り返す。


「ヒック君、メリークリスマス!」

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