第春章 花鳥①

花鳥

花は根に鳥は故巣に

咲いた花はその木の根もとに散ってこやしとなり,空飛ぶ鳥は巣に帰る。物事はすべてそのもとに帰るという意。


卒業式も間近になってきたこの時期。

桜の花の満開予報情報を待つのにちょうどいい季節。

少しだけ肌寒いが冬用のストーブをつけるほどでもない。

が、花江は本の活字に向けて「はぁ…」と息を吹き込んだ。


「悩み事か?」


どこからともなくやってきた鳥羽に花江は「先輩に対してのため息です」と苦言を呈した。


「ここ2年の教室なんですが」


「美術部に姿が見えなかったから、ここじゃないかと思って」


「わたしに何か用事ですか?」


「もう部活の時間だろう。日直でもないのに何をしているんだ?」


「いえ…別に…」


「じゃあやはり悩み事だろう?」


当たり前のように花江の座席の前に座る。

この光景にも慣れたものだ。

花江は静かに読みかけていた本を閉じた。


「いえ…………別に悩み事とは無縁に生きてきた人間なので、特にはないんです。先輩は良いんですか?こんなところで余裕な笑みを浮かべていて。大学の結果発表、卒業式の代表のスピーチ…考えることは山のようにありますよね」


「朝飯前だ」


「余裕のよっちゃんですか、羨ましいですね。はぁー…」


気付かぬ間にもう一個ため息が増えてしまう。


「そのため息の原因、風間、か?」


「え…な、なな、なんで、風間くんですか?彼は関係ないですよね。何かフラグがありましたか?」


「滅多に動かない表情筋が仕事をし始めたということは、図星か。誰かのことでお前が悩むなんて珍しいな。うっとおしい犬に飽きたか?」


「……飽きては…いません…むしろ、その…存在が日に日に大きくなっていく一方で…それが困っているんです…。誰かに言います?」


明らかな態度だったらしい。

花江は観念してぽつりと文句を言った。


「別に誰にも言わないよ。言うほどの友達もいない。談笑をするほど仲が良いのはお前くらいだ」


「他言無用だから安心しろ、とでも言いたいのでしょうけれど…その話だけ聞くと、友達のいない可哀想な人間にしか聞こえません。一応、生徒会長だったんですから、生徒からも友人からも羨望の目で見られるでしょうに…なんでこう…」


「虚しくはないぞ。むしろ堂々と言えている自分を誇らしく思う」


「すごいですね。その自信をもらいたいくらいです」


風間は頭脳明晰で教師からも一目置かれる存在。

彼の周りには友人がわんさか…と言うわけでもなく、仲良くするにはもう一歩だけ踏み込まないといけない。

そのボーダーラインを理解するのが非常に困難で、間違って別のラインを踏み込んでしまえば、彼との距離はより一層遠くなる。

これが彼の距離感。

以前、花よりも団子よりも、それを楽しむ人間を見ている自分が好きだと言う…珍回答をした彼だ。


「自信をもらう必要があるということか…風間関連で」


「勝手に妄想を広げないでください」


「もっと必死になって否定しろ。そんな柔な否定の仕方では、俺の妄想は止まらん。むしろ、どんどん広がっていく」


「あーもー…否定は…しません」


「おや、素直じゃないか。本当に悩んでいる、といったところか」


「はい………」


このような色恋話を好きだった相手に話すのはおかしいかもしれない。

しかし、過去のことは過去。

花江の中では既に決着がついている。

にやにやと笑いながら頬杖をつく鳥羽が憎たらしいが、花江は恥ずかしそうに少しずつ自分のことを語り始めた。


「恋とか愛だとか、鳥羽先輩にとってはバカらしいと思うかもしれませんが…」


「お前は俺をなんだと思っているんだ。つい先日、恐ろしいほどの求愛されたばかりの恋の伊達者だ。大船に乗った気になって話してみろ」


「泥船じゃなければいいのですが…」


「豪華客船だよ。ラウンジもバーもプールもついている」


「随分と楽しそうな場所ですね」


安心しろと手を広げる鳥羽は、詐欺師のような貫禄だった。

悔しいことに実際は頼りになる男で、花江はそんな彼に昔々に恋慕を抱いたのだ。


「先日…なんだか真面目そうな顔をした風間くんにこの美術室で会ったんですよ」


「へえ。セクハラ並みの求愛行動は治まったか?」


「彼、イケメンじゃなかったら犯罪者ですよ」


「じゃあ、俺も…」


「警察呼びます」


「なんだ、俺はイケメンじゃないって言うのか。失礼なやつだな」


花江は「冗談ですよ」と何度も口にする。


「そうなんです。冗談。冗談なんです。彼の行動全てが冗談で、彼のああした態度には困っています」


「ああした、とは?」


「…おかしいと思いませんか?」


「なにが?」


「わたし以外は誰も使わない美術室だというのに、最近…女子生徒の皆様が扉の前でうろうろと…入るわけでもなく、ひたすら遠くから風間くんを見ているのです。彼の取り巻きっていうのでしょうか…ファンクラブというものができていることも宵に聞きました。そう、そのファンクラブの皆様が彼の一つ一つの何気ない動作に『きゃー!』って悲鳴が上がるんです」


「なるほど。静かな美術室がうるさくて気が散るということか。今度、見かけたら注意しておくよ。元・生徒会長として」


「それは正しい判断です。ありがとうございます…って、それだけではないんですが…」


「は?」


花江の長ったらしい前説にも飽き始め、机の上の落書きを指でなぞっていた鳥羽だったが、次ぎに綴られる彼女の話になくなりかけていた興味が再起される。


「その…風間くんって、宵曰く、昔からモテていたそうで…結構な数の告白を受けているそうなんです。本人は否定していますが、あのモテ度を見て確実にカノジョの1人や2人軽くいるはずなんです。だって、いつも女性に囲まれていますから…」


「『いつも』…ねぇ?」


「あれ?そんなこと言いました?わたしいつも風間くんのことなんて、見てませんよ。断固として見ていないです。反対します。目の中に映り込んでしまったものはしょうがないですけど、わたしが意図的に彼を見るなんてことは断じてありません」


「分かった。分かった。そんなに強く否定しなくても、分かったから」


花江をからかいながら話を続ける。

彼女を手のひらで転がすことが、楽しくってしょうがないのだろう。鳥羽は笑いをこらえながら、花江に真剣に向き合っているフリを通す。


「彼…は、とても人懐っこしい、誰からも好かれるのは当たり前かもしれません」


「だろうね。教師たちからの支持も中々。懐に入り込む術を知っているんだろう。近いうちにあいつが生徒会長なんてありえる未来かもな」


「そんな未来ありえませんよ。おつむがついていけてないです」


「周りが勝手にサポートをしてくれるだろう。名前だけの生徒会長…お飾り…響きは最悪だ。しかし、周りはあれをサポートすることに幸福を覚えるんだ。不思議だな」


「………なのに………」


「なるほど。どうして、人気者の風間がこんなにも深く関わってこようとするのが、不思議でならないってことか?」


花江の一歩先の言葉を汲み取り、鳥羽は的確に彼女の思考を告げる。花江は聡い鳥羽の反応に一瞬驚いたが、こくんと首を縦に振った。


「そうです。準備や片付けをわたしの方から始めて、帰り道もほぼ毎日一緒に帰りますし…。それに、休日は行動がほぼ重なって、結局一緒に遊んだり、絵を描いたり…カノジョさんがいるっていうのに、わたしばかりに目を向けている気がします」


「本人は否定しているがな」


「こんなわたしではなく…ちゃんと自分のカノジョさんを大切にするべきだと思うんです…正直、わたしの存在は迷惑なのでは…」


「何度もいうが、本人は否定しているがな」


「し、しかもですよ…。あんなに簡単にわたしに対して『好き』『付き合って』などという言葉を投げかけてきます。あれは一体どういう意図があるのか、さっぱり見当がつきません」


話し始めたら気がすむまで話すのが花江だ。例え、相手が否定をいれても、自分の考えを押し通す。花江は鳥羽が何度も『風間のカノジョいる説』を否定しても、彼の言葉に覆いかぶさりながらも話し続ける。

花江の話にうんざりしたのか、鳥羽は大きなため息をつく。彼のため息を聞いた花江は、出かけていた言葉を飲み込み、ぎゅっと口を紡いだ。


「まったく…お前というやつはとことん鈍いな。アドバイスをしてやる俺の気持ちにもなってみろ。至極残酷だ」


「え?」


「いや、こちらの話だ」


頬杖をしながら鳥羽はにっこりと笑い、花江と同じ目線で冷静を促す。

一陣の風が舞い込む。まだ完全に開いていない桜の花が吹き飛んでしまいそうなくらい強い風だった。鳥羽はその風を背中で受け、花江は顔面で風を受けた。あまりに強い風に、花江は目を瞑る。


「花江は…贅沢者だよ」


「え?」


「贅沢だ。こんなにも鈍感だとは思わなかった」


いつもより声のトーンを一つ下げて話す鳥羽の口元は笑っていなかった。


「その会話、以前もしましたっけ?」


「ああ。お前は花と団子のどちらも楽しみたいと言ったね」


「そして、先輩はそれを見ている人になりたいと言いましたね」


「お前は…そんな器用なことはできないよ。花も団子も、贅沢に楽しむことは…お前にはできない」


「なぜ言い切れるんですか?」


「二頭追う者一頭も得ず、だ」


「説得力がありますね」


「その説得力を今から実証させてみよう」


鳥羽はすっくと立ち上がり、今までのらりくらりとした態度を一変させる。

それは唐突で、とても穏やかだった。

優しい眼差しはそのままだが、瞳の奥は一つの覚悟を決めたように揺ぎなかった。


「そろそろ旅立つ時だ。お前も、俺も」


その言葉は、二人の今までの距離感を崩すのに最適だった。これ以上足を踏み込んだら、決して後戻りはできない。しかし、先輩として花江に出来る最後の指導をするために必要なことだった。


『あなたが一人の人間だということを気づかせてあげるわ。あなたを渦中に引きずり込んで、私と同等の高さで話しましょう。絶対に高みの見物はさせないわ。私が…そうさせるから』


以前、お見合いの時に月島に言われた言葉を思い出す。自尊心との戦いだったが、花江の前ではその感情が無意味であることを感じた。むしろ、『引きずり込まれてやるよ』と言った清々しい顔で花江の前に立っていた。


「花江、俺はお前のことを気に入っていたよ」

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