第秋章 風月⑧

あまり表情には出さないが、当時の花江は鳥羽に惚れていた。


ここは写真部の部室。

最初から美術部員として文化部に所属する花江には無関係の場所だった。

しかし、用もないのに彼の部室に入り浸るには訳があった。

彼の立ち振る舞い、並べられる会話、距離感…全てが居心地良くて、快適で、何より鳥羽は花江に特別を教えてくれた。


天性の人たらし。

今思えば、鳥羽は人をたらしこむのがうまい、と思う。

1年生で外を知らない花江にとって、鳥羽は王子様のような存在だった。

紳士的にエスコート、時には厳しく、また花江を「お気に入り」と呼んだ。

まあ所謂、特別感からくる好意だ。

何かあると都度、彼女のことを呼びつけ、何気ない会話を楽しむ。

彼から自分へと発せられる言葉一つ一つに惹かれていた。

この人たらしのせいで、花江はすっかり鳥羽に惚れ込み、いつか彼から告白の言葉が来るのではと淡い期待を抱いていた。


「何か手伝うことありますか?」


「積極的にどうもありがとう。お前に指示を出すくらいなら自分でやった方が早いから、心配しなくていい」


銀杏の葉が落ちる公園の隅で、機材をいじる鳥羽。

その隣で花江は手持ち無沙汰に落ちている銀杏の葉をくるくると回していた。


「後続が育ちませんよ?」


「お前は俺の跡なんて継ぐ気なんてないだろう」


「ないです。来年の一年生のことを思って言いました。私からの優しいアドバイスです」


「こんな偏屈が集まる部に興味を持つ新入生がいてくれるといいな」


「幽霊部員なら大量に生産されるのでご心配なく」


「………生徒会長の権限を行使するか」


「特権乱用ですか」


「与えられた権利だよ。期限は限られているんだ。使えるものは使うだけ、だ」


「先輩は社長に向いてそうですね」


「ありがとう」


「褒めてませんよ、サイコパス」


「早速、生徒会長としての権限が使えそうだよ」


「大変申し訳ありませんでした。深く反省しております」


鳥羽は変哲もない風景に向かって、カメラのシャッターを何度か押す。テスト撮影だ。


「さて、おしゃべりをするか。散歩をしながら」


「そうですね」


この時間が花江にとってかけがえのない時間だ。

唯一、鳥羽が自分にだけ興味を持ってくれる。

自分と鳥羽だけの世界。


「今日は何をした?」


「芸能人の浮気ニュースを見ました。朝から良い気分じゃなかったです」


「ゴシップ好きとは意外だな」


「そういう訳じゃなく…わたしは興味ないんです。ただコメンテーターの人に気分を害しました。彼らは言ったことを明日には忘れちゃうんでしょうけど、好き勝手言われた本人たち…と私たちの心の中にはずっと残りますよね。彼らは日々起きた事件についてやんややんやとコメントだけ残すだけで、スポットライトが浴びちゃった当人のことなんて何も知らないんだから…」


「浮気を擁護するのか?」


「擁護しません。客観的に見れば、悪いことは悪いですよ。けど、人それぞれのバックグラウンドはあるんじゃないかな、と思っただけです。外野が悪と断言するのは簡単なことです。一方で盲目な当人たちは正しい行いをしていると信じている…。状況に応じては善悪は逆かもしれませんね」


花江は小石を蹴り上げた。


「例えば、結婚相手から暴力を受けていた。逃げるために守ってくれる別の男に惚れ込んだ、なんてことが分かれば世間からは擁護されるわけです。浮気の裏側にもコメンテーターたちの知らないストーリーがあるかもしれない。見出しだけの状況把握では中身までは見えませんよ…きっと…」


「今は好き勝手言える世の中だから。匿名で指差される時代だ。一般的な回答としては、浮気は悪となる。そいつはこれからもバッシングを受けるんだろうな」


「放っておくのが一番ですよ」


「へえ?」


「良い作品を残す人は、底辺に落ちても自らの力で這い上がってきますよ………『あの』というふたつ名付きで」


ちょうど目の前にくるくると回転しながら落ちてくる銀杏の葉。

その瞬間、鳥羽はシャッターのボタンを数回押した。

良かった。顔を隠していて。


「話は変わるが…花江は気に入っているやつはいないのか?」


「っ…なぜ急にそんなことを?」


言葉を詰まらせながら、不審に思われない程度で返事する。


「いるんだな、なるほど…だからか」


ふぅん、と言いながら、鳥羽は先程の写真を見返す。


「さっきのお前に対しての質問の答えだが、カメラを向けた時のお前の視線が気になってね」


「視線…ですか。わたしは先輩に視線をあげているつもりはありませんが」


「表現としては『期待』されている気がする。この前の夏に撮ったひまわり畑の時は自然体だったんだがな、あの後から異様な『期待』の視線を感じる。俺の作品にそれは不要だ」


「言っている意味がよく分かりません」


「俺は風景に馴染むお前が撮りたいんだ。主役はもちろんお前でいい…が、その中に感情は不要だと言っているんだ。無に等しい存在が気に入っているんだ。伝わりにくいな…」


「無心で座禅を組めということですかね。雑念が入りすぎて、風景がブレる…訳ですか」


出していたつもりはない。しかし感じ取ってしまったのだろう。

花江の鳥羽に対する感情が。


「先輩は社長みたいに人を見抜く力なんてなかったですね」


そして、好意は拒絶されるものだという理解が花江の心の奥底に根付いた。


「…だって、わたしには好きな人なんていないんですから」


瞬間、花江は心を無にした。

ぷっつりと途切れた。

一瞬にして、刹那に

終わりを告げた。


「いいな」


満足げに笑う鳥羽は黄金に輝く銀杏の木の下で、自分に向けられた視線を送る花江をカメラに記憶させた。

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