第夏秋章 月花④
いつものように花江は月島の部活が終わるのを玄関先で待つ。
昼の暖かさが残る生暖かい風を受けながら、花江はふぅっと声を漏らす。
空を見上げると群青色が広がりるが、西の方はまだ白味がかかっていた。
昼間はあんなに晴れていたのにも関わらず、夜に近づくにつれ雲が多くなっていた。
「待った?」
電気がパチパチと瞬きすると、背後から月島の声が聞こえて来る。
「いつもと同じ時刻です」
月島は急いで上履きを脱ぎ、外履きを地面に置く。
開ききった表門からはびゅっと素早い風が吹き、温度の低さを感じられた。
夏の夜とは違い、上着を着ていても汗が滴り落ちないだろう。
月島の準備ができたところで、二人は隣同士で歩き始める。
太陽が沈み始めるこの時間はちょうど夕飯時で、家々から様々な献立の匂いがしてくる。
魚の匂い、揚げ物の匂い、ソースの匂い…それらは全て花江の胃を刺激した。
ぐぅっと微かになったお腹を気にしながら、花江は月島に話し始める。
「彼…風間くんという存在は、とてもモテるでしょう?」
ようやく彼女の気持ちが晴れたらしい。
花江の口から『風間』の名前が出てくるということは、自分の心の中である程度の整理ができたということだ。
「あら。気にしていないって言っていたのに…やっぱり気になるのね。未来ちゃんの口から、彼の話題が出てくるとは思ってもいなかったわ」
「い、いえ…そ、そういうわけでは…その…宵は…風間くんと仲が良いではないですか」
「ええ。幼馴染で隣同士ですもの。それは仲が良いとは思うわ」
「ですよね。サッカーの応援にまで行く仲ですものね」
月島の横を歩く花江の肩が、若干下がった気がした。
小さなため息も聞こえてくる。
「しかも、宵は風間くんのお付き合いしている女性にそっくりです」
「お付き合いしている女性?」
「おしとやかな方だと聞きました」
誰から、とは追求せずに月島は、やんわりと否定する。
「残念ながら、秀ちゃんは私の家と釣り合わないわ」
「でも、モテモテなんじゃ…」
「あの子は誰とも付き合ったことはないわよ。ああ見えて、誠実な子なの。未来ちゃんにオススメしたいくらいだわ」
「オススメ…い、いえ…そんな…結構ですから。ちょっと気にしただけです。彼が今、どうしているのかな…と。最近、顔も見ていないので」
「随分と寂しそうな顔をするのね。珍しいは未来ちゃん…そんなに恋しいなら、なんで彼を写真部へ送ったの?」
月島はゆっくりと彼女の悩みを聞き出そうとする。
「まだ成長途中だと思ったけれど…案外早かったなぁ、と思っていたのよ」
「そんなことありません。彼の絵はとても上達しました。水彩画だけで言えばわたしよりうまいと思います。それに、彼の絵にはセンスもあります。何一つ文句の付け所がないくらい成長しました」
「秀ちゃんは写真部に入ることを希望していたわね」
「だから、認めたんですよ。彼の希望が通って、わたしは嬉しいです」
「言動が一致していないわ。未来ちゃんの顔、全然嬉しそうじゃない…なぜかしら?」
「顔に出てます?」
「うっすらと」
「そうでしたか…」
昼間と同様に耳をじんじんじんと蝉の音が荒らす。
しかし同時に、りりりりりと秋の虫の音が心を落ち着かせてくれた。
次第に蝉の音はゆっくりとペースを落としていき、最後には秋の虫の音しか残らなくなった。
夏の終わりを感じさせる数秒間。
「恋、かしらね?」
月島はポツリと呟いた。
「え…?」
「聞こえなかったかしら?恋、よ。恋。魚の鯉ではなく、人が人を好きになる行為よ」
月島の言葉を聞いた花江は、ありえないと首を横に振るう。
「知ってます。知ってます…が、こ、い…恋ですか?ありえないです。あんな右も左も女子とつるんでいる男のことを、好きになったりしません。チャラすぎて、引くくらい。天地がひっくり返ってもないかと思います」
「ふふ…動揺しているのね。未来ちゃん、可愛らしいわ。私も恋をしたことがあるから分かるわ。右往左往しちゃうのよね」
「宵も…?す、すいません。『も』ではありませんね。宵みたいなお嬢様でも恋をするのだなぁって不思議に感じただけです」
「気にしないで」
夏服と秋服が混じる夜。
足早に帰宅する長袖のYシャツを着る会社員の男性が、二人の横を通り過ぎる。
と思うと、車道を挟んだ向かいの通りには、秋の定番トレンドである赤を取り入れたファッションの女性もいる。
通り過ぎていく人々は各々の格好をして、今の季節に混乱しているように感じられた。
ただサンダルの数は減ったな、と花江は思う。
足元ばかりを気にしているわけではないが、ペディキュアの色も楽しめなくなってきた。
「私の場合は叶わない恋なのよ」
その横で月島は己の恋愛について語る。花江も月島の恋愛には興味があるようで、耳と体を彼女に沿わせた。
「なぜですか?」
「相手の方はとても聡明な方で、とても由緒ある血筋なの。私のようなお堅い人間では釣り合わないわ。もっと柔軟で、言葉遊びの長けている方ではなくては似合わない…」
「そんなことありません。宵を選ばない殿方など捨てておいていいんですよ。男なんて山のようにいますし、宵だってそれが最後の恋愛ではないのですから」
「それは…理解しているつもりだけれど…。あのね…恋愛をすると、女の子はその人の特別にどうしたってなりたいの。頭ではそうなれないって理解できないって分かっていても、そうなりたいものなのよ」
頑固な花江の心をゆっくりとマッサージさせながら、彼女の『恋』に対する警戒心を取り除いていく。
「未来ちゃんもいつか理解できると思うわ。誰かの特別になりたいって気持ち。その人じゃないといけないって思う気持ち」
「宵は強情ですね。わたしがいくら言っても揺るがない意思を持っています。静かな情熱を秘めています」
「それぐらいが、女の子らしいと思うわよ」
横風が月島の頬を触り、彼女の長い黒髪は風に舞う。
彼女は髪を指ですくい上げ、耳の後ろに引っ掛けた。
「だから、未来ちゃんも素直になった方がいいわ」
「素直…ですか。わたしなりに素直に生きていたと思うのですが」
「素直じゃないわよ。寂しそうな顔をするくらいだったら、言えば良かったのよ。『もっと美術部にいてください!』って」
「なんの得があって…」
「損得の問題じゃないわ。未来ちゃんの気持ちの問題よ」
「気持ち…」
花江は真剣に風間のことを考え始める。
彼と出会ってから、彼と話すことを楽しみの一つとなってきている。
しかし、鳥羽のことを思うと、彼を構っていては自分のためにも…彼のためにもよくない。
「自分にわがままになってもいいと思うわ。未来ちゃんはなんだか…自分の感情を表に出さでしょ?だから、少しだけ自分の気持ちに正直になっていいと思うわ」
「自分の気持ちに正直に…わがままに…」
花江は風間の満面の笑みを思い出す。
もう美術部員ではないのに、なぜか優しい彼。
出会ってまだ間もないが、風間と時間を共にすることが楽しいと感じ始めていた。
鬱陶しいし、生意気な後輩だが、隣にいないと寂しく感じる。
花江は次第に彼を受け入れていたのだ。
「宵。相談に乗ってくれて、ありがとうございます。なんだか吹っ切れた気がします」
「私はなにもしていないわ。でも、未来ちゃんの気持ちが晴れたのなら、気分がとても良いわ」
「わたし…風間くんと一緒に絵を描きたいです」
花江の中の何かがずれていることに、月島は気づく。
月島が気づかせたかったのは、花江の風間に対しての気持ちだった。
しかし、当の本人はと言うと
「風間くんと絵を描くのがとても楽しかったです。やはり、一人で絵を描くのはむなしいですし、寂しいことでした。彼の明るさや気さくさをわたしは気に入っています。彼には是非、美術部に残って欲しいです」
「待って。未来ちゃん」
「どうしました?」
「私が言いたかったのは…」
と、月島が何か言いかけたその時、背後から知っている声が聞こえてくる。
二人が振り返るとそこには、駆け足で手を振る風間の姿があった。
「あ、姉ちゃん!…と、未来先輩、久しぶりです!」
「この男は、本当にタイミングが悪いわね」
「ん?なんか言った?」
「いいえ、こっちの話よ。気にしないで」
月島は始終笑顔を貫いた。
彼女は世界がひっくり返らない限り、動揺もしないのだろう。
彼女のハートの大きさは計り知れない。
「ふーん…。そんなことより、先輩!最近、会えなくて寂しいです。家が近いなら、一緒に帰りましょ!」
「お久しぶりです、風間くん。きみがいなくなって、あんなに煩かった美術室が静かすぎて、違和感しかありません…あ、あと、すいません。宵と帰ることが毎日の約束なので、きみという存在が入るスペースはありません」
「がーん。俺ってその程度の存在なの?」
「後輩なので、それぐらいの距離が丁度いいと思います。それにしても…少し見なかっただけで、きみがとても懐かしい」
花江は懐かしみの笑みを浮かべる。彼の存在は花江にとって、癒しなのだろう。
「鳥羽先輩は最近どうですか?」
「えー…鳥羽先輩ー…元気だと思いますよ。俺もビシビシ鍛えられてますし」
「それは良かったです。早く鳥羽先輩に追いついてくださいね。彼…厳しいでしょう?」
「鳥羽先輩は…そうですね…厳しいですけど…でも、夢のためになら、全然痛くもかゆくもないです」
「あら…秀ちゃん。鳥羽先輩の下で学ぶことが夢じゃなかったの?」
「うん。そうなんだけれど、そうじゃないんだ。俺にとっての原点が分かったから、俺はそれに向かって頑張っているんだ」
よく分からないことを口にされたが、花江は気にすることなく話を進める。
「それは良かったです。わたしもようやく目標というのが見えてきました」
「え、なになに?」
「待って…それは…」
花江が自分の目標を風間に伝えることは、残酷な行為であることを月島は知っている。
それを止めようとするが、花江は一度話し始めると止まらない癖があり、結局、彼女の言葉を遮ることはできなかった。
「風間くんを美術部に連れ戻します」
「あ…」
言ってしまったのならば、しょうがない。
いきいきと自分の目標について語った後の花江は、鼻をふんすとさせてやりきった表情だった。
一方の風間は、自分の気持ちが伝わったのかと、嬉しそうに顔がぱあっと輝き始める。
「風間くんが鳥羽先輩の下でカメラをいじるのが楽しいのは、わかります…でも、わたし…一人でいることの寂しさに気づいたんです」
「先輩…」
「きみなしでは…いられません」
「先輩!それって…」
側から聞けば告白だ。
ならば、と風間は自分も同じ気持ちであることを伝えようと、口を大きく横に開こうとする。
しかし、当の本人に恋愛感情があるわけではない。
伝えたいことを伝えると、花江は満足した顔で体を180度回転させて、月島と風間の反対方向を歩き始める。
「あ、もうこんな時間ですね。じゃあ、また明日!」
「え?!ちょっと待ってよ。保留?放置?」
「秀ちゃん…あのね…」
不憫な話だが、現実であることに変わりない。
月島は背の高い風間の肩にぽんっと手を置き、一部始終を話し始めるのだった。
その後、近隣に絶叫の声が流れるのは、聞かなかったことにして欲しい。
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