第夏章 風鳥②

『好きなことろ』の言葉で真っ先に思い浮かんだ。

あそこしかない。

迷惑がられるかもしれないが、風間にとって一番居心地が良く、一番好きな場所は、あそこしかなかった。

意気揚々と風間は鳥羽の後ろでスキップしながら向かう。

階段を上り、1年の教室を通り過ぎる。

3階はやはり熱がこもる。窓を全開に風通しを良くしているが、ムワッとする夏の暑さに気を取られそうになる。

教室からは「1、2、3」と声と共にクラリネットの音が鳴った。

弱小だがコンクールに向けて、練習に励む吹奏楽部たちの姿があった。

どうやら夏休み中は好きな教室で、パートごとで練習しているようだ。

一つの教室を通り過ぎれば、また別の楽器隊が見えた。

そんな彼らを横目に、風間たちは歩けばキュッと音が鳴る白い廊下を突き進み、一番初めの角を曲がる。

すると、どうだ。

古い油絵具の独特な臭いが鼻につく。


「一緒じゃないか」


「一緒ですね」


いつ別の角を曲がるのか、と思っていたが、最初から最後まで行動を共にすることとなった。


「失礼するよ」


「失礼します」


花江のいる場所は分かっている。

鳥羽の命令に素直に従っているのならば、夏まつりの絵を完成させようと、彼女の秘密基地にいるに違いない。

鳥羽の後ろについていくと、彼は躊躇することなく彼女の秘密基地にズカズカと入っていった。


「どなたかと思えば、きみたちですか」


「なんだ、その顔は…ひどいな」


普段の姿勢から取れて見れないが、花江は意外と綺麗好きだ。

そんな花江は柄にもなく、顔の至る所に絵具がつけていた。

青、黄色、白。

鼻先、頬、腕。

白い肌によく映える。

まるで自分自身が作品だと主張しているようだった。


「触らないでください」


「気になるんで、とりあえず拭かせてもらっていいっすか?」


風間はポケットに入れてあったハンカチを取り出す。

真っ白で、汚れひとつない、新品のハンカチだ。


「やめてください。あと少しで完成なので、このままで大丈夫です」


さすがの花江でも、風間のハンカチが新品であることに気づいたようだ。

だが、躊躇なく差し出してくるもんだから、花江は頑なに押し返した。


「先輩、つめたーい!」


「冷たくなりますよ。わたしはもうきみの先輩じゃないんですから。ザ・赤の他人です」


このやり取りに、風間は少しほっとしていた。

あの日、大いに首を横に振られてからというもの、自分は花江に拒絶されているのではないかと心を悩ませていた。

だが、蓋を開ければそんなことはなかった。

普段のやりとりができる。拒絶されてはいない。

それだけで嬉しかった。


「俺の先輩ですよ。学年は一個上なので!」


「そういう意味じゃないんですけれど…とにかく、無闇やたらに近づかないでください」


いやもいやも好きのうち。

風間の中に、ポジティブな感情が芽生えてきた。


「先輩、そんなこと言わずに…久しぶりの俺を堪能してくださいよ!」


「久しぶりって…1ヶ月程度ですよ?」


「俺にとっては長すぎました。先輩もそろそろ寂しくなってた頃でしょ?」


「いえ、わたしは通常運転でした。というか、きみがいなくなってサクサク進みます。おかげで体重も増えました」


「それ関係ある?」


「ぱんだ」


「?」


二人のやり取りをよそに、鳥羽は先ほどまで花江が集中して描いていた夏まつりに飾られる予定の大きなキャンバスを見つめる。


「間に合いそうか?」


風間がいなくなった後、ちょくちょく土日に手伝ってあげた作品だが、あの時よりだいぶ仕上がっている。


「ええ。今日中に仕上げますから、業者さんの手配をお願いしますね」


「もちろんだ。明後日には来てもらうように、顧問に言っておくよ」


「ありがとうございます」


花江は筆をくるりと回す。

そして、筆の先で二人を一人ずつ指していく。


「で、きみたちはなぜここに?」


「写真部として、お邪魔しているよ。今日は気分転換に課外活動をしてみようと思ってね」


「好きなところを撮るのが目的です!」


「それで…ここですか?地味な趣味ですね」


「勝手に撮っているから、邪魔しないよ」


「分かりました」


邪魔をしないならいいだろう、と花江は快く許可を出す。

風間は心の中で小さなガッツポーズをしながら、カメラの電源をいれる。

デジカメは安っぽい起動音と共に、レンズが前後に動いた。


「さて、地主のオーケーも出たところで、お前は何を撮るつもりなんだ?」


一方、鳥羽の高そうなデジタル一眼レフは、シンプルにピッと音が鳴り、カメラの後ろに小さな画面がパッと起動する。


「決めてはいないです。自分の思う『いいな』と思う場所を撮っていきたいです」


「なるほど。じゃあ、同じものを撮って勝負をしようじゃないか。その方が面白そうだ」


「いいですよ!」


「…どうせ撮る対象は一緒なんだから」


鳥羽はニヤリと笑う。


「………勝手に撮っていいって言いましたけれど…」


ピピ、ピピピっとピントを合わせる音が、花江の周りで虫のようにぶんぶんと飛ぶ。


「気が散ります!」


花江は立ち上がって、鳥羽と風間を睨みつける。


「お前はこの程度で集中力が途切れるのか。先が思いやられるな」


「集中したい時に、ハエが飛び回っていたらどう思います?」


「お前は俺たちのことを虫に例えたいのか?」


「正直に言います。そうです。そして、もう一度言います。そうです…」


「辛辣っ!」


「わたしのことを想うなら、速攻やめてください。今日中に仕上がる絵も、仕上がらないです。大幅なロスです。きみたちがいなければ、すでに仕上がってましたし」


「オーケー。分かった。落ち着こう」


どうどうと怒りを爆発させる花江を抑える鳥羽。大人しく席に座らせようと、風間も彼女の肩に手を置き、下に向かって力を込める。


「じゃあ、しばらく外に出ているよ」


「完成した頃に伺います!」


「…助かります」


花江は筆をくるりと回し、またキャンバスに向かって、色を塗り始める。

風間と鳥羽は目を合わせて、片方の口角を少しだけあげた。

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