第春章 花風⑦
今年の梅雨はひどいものだった。
毎日が雨の連続で、10日間太陽を見ない日が続いた。
洗濯物を外に干せないせいか、制服の生乾きの匂いが気になった。母親のちょっとお高い香水にも手を出そうとしたが、匂いはすぐにバレる。
しょうがないと、玄関に常設してある消臭スプレーを何度もかけた。
これで少しはマシになっただろうか。
大事な話をするのだから、最低限のマナーをつけて、今日も美術室へ向かう。
「風間くん、話があります」
「なんですか?」
最近の風間は花江の一言に一喜一憂するようになった。
表情がコロコロと変わり、見ていて飽きない。
だから、今日もこんな風に花江が話しかけるだけで、嬉しそうに尻尾を振る犬のように目をキラキラとさせていた。
「きみの絵…最近、すごく調子がよくて、とても生き生きとしていて、見ていて楽しい作品になっていくのを日に日に感じます」
「本当ですか?これも全て先輩のおかげですね!」
「わたしもうかうかしていられませんね。正直、焦っています」
「え〜、そんなことないっすよ〜。なんて言いながらも俺、先輩に褒められるの好きです。光栄です。嬉しいです。もっと素直に褒めてもいいんですからね!…って待ってください…ってことはー…先輩に認められる日も近いってことですかね」
一を言ったら十の言葉が返ってくる。
花江の一言に対しての見返りが大きすぎて、勘定が間に合わない。
「で、でも、俺…最近思うんですけど、実は〜」
と続けようとする風間のよく動く口を止めようと、花江はピシャリと言い放つ。
「なので、わたしはきみの才能を認めることにしました」
これは鳥羽からの忠告。
子を大事に思うなら、旅をさせよ、とのお達しだ。
風間の元々の願望のために、次のステップに上がるために、必要な旅なのだ。
そして、鳥羽からのきつい言葉は、自分自身のためでもある。
事実、後輩の風間のことが可愛すぎて、彼に時間を割きすぎた。
夏まつりに提出する作品が、未だに完成していない。
鳥羽のため、風間のため、そして、自分のためでもある。
「え?」
驚いた表情を見せる風間。
喜ぶかと思っていたが、意外な返しに花江は少し驚きの色を見せる。
「先輩!ちょっと待ってください。もうちょっと深く考えて。だって、まだ一学期も終わってないんですよ?そんな早く成長が早いわけない。元・運動部の俺が美術の才能もあったなんて笑える話なわけ。飛び級にも程があります。そ、それに!他の部員にだって、なんて思われるか…」
「きみが他の部員のことを気にするタイプだと思いませんでした。そして、ご心配なさらずとも大丈夫です。今年のちゃんと在籍している部員はきみ一人なので。ガヤにがやがや言われることはないですよ。自信を持って飛び級してください」
「お、俺、美術の成績、めっちゃくちゃ低いんですよ?知ってます?」
飛んでどこかに行ってしまうくらいはしゃぐと思っていた。
自信がないのだろうか。
「きみの才能があることは、事実です。文武両道でよろしいかと思いますよ。美術も運動もできる。5年いるかいないかの、逸材の存在ですよ。誇りに思ってくれて大丈夫です」
「スパン短くね?」
花江はコホンと小さな咳をする。
ちゃんと風間に自信をつけさせ、鳥羽の元へ飛びだってもらおうと、エールを送ろうとする。
「きみは何日も真剣に取り組んできました。最初のうちはふざけているのかと思いましたが、ある日を境にきみの成長は著しく飛躍し、わたしはかなり驚いています」
「いつですか?ある日って」
「そこ気にしますか?…えっと、そうですね、あの日です」
「わからないっす」
「実際問題、成長なんて日々しているので、わたしもよく分かりません」
「あ、投げましたね?」
「けど、上手くなったのは事実です」
「さっきから、めちゃくちゃ褒めてきますね。先輩が優しいなんて…怖いっす」
「日本の春は穏やかで晴天が続き、小春日和なんて言葉がありますね」
もう桜の花びらは散った。
春を語るなんておこがましい。
「そうですね…ぽかぽかしてのどかで…春うららってやつですね」
「欧米の春へのイメージは雨だそうです。ヴィヴァルディの『春』なんて、最初はおおらかな春を歌いますけど、途中から一気に雨模様に変わりますよね。だから、海の向こうの人たちは、嵐がきて、風雨が止まず…そんな日が続くと春だ、なんて口にするそうです。春に対して陽気なイメージを持つ日本とは大違いですね…」
夏に入る一歩手前。
しとしとと降る雨は、日本人が持つ春のイメージと程遠いか。
いや、これも春としよう。
きっと春だ。
「先輩はさっきから、なにを言いたいんですか?」
「おや、わかりませんか?」
花江は横に流れた髪をすくって耳にかける。
「変化の季節ですよ」
「は?」
「穏やかに過ごす事はいい事だと思います。ただ…変化も必要だと思います。穏やかな春が嵐に変わるような劇的な変化です」
春の中にもいくつか変わり目がある。
陽だまりのような優しい日々から、冷たい雨風にさらされて凍える日々もある。
変わるからこそ、春は楽しい。
変化があるからこそ、春だ。
そう思いたい、花江の自論。
自分を正当化するための言い訳に近かった。
「きみはわたしと関わってから、少々穏やかに日々を過ごしすぎました。思い出してください。本来の入部した目的を忘れて、今の状況に満足している自分がいるのではありませんか?」
「だって、俺は絵が楽しくなって…先輩とも」
「わたしも悪かったですが、そろそろ甘えるのもいい加減止めましょう」
少し厳しい言葉かもしれない。
けれど、彼の成長を願うなら、心を鬼にして接することも大切だ。
「認めます。きみの才能を…だから、わたしに構わず、鳥羽先輩の元に行っていただいて結構です」
Go to Next Step
花江は風間に出て行けと、ペンキの剥がれかけている美術室のドアを指差す。
「え?」
指の先に目をやる風間は、花江の言葉の意味を理解できず、口をぽかんとさせていた。
そんな風間を視界に入れつつも、花江は現実から目をそらすなと矢継ぎ早に口を動かす。
「わたしの方から話を通しておきますので、夏休みからは写真部員となってください。写真部は2階にある元・準備理科室が部室となっていますので、まずは正面玄関から階段を上がり、つきあたりの…」
「ちょっと、ちょっと待ってよ!俺の気持ちはどうなるの?」
珍しく饒舌な花江を止めようと、風間も負けじと口を早く動かす。
「きみの気持ち…ですか?最初から、きみは写真部に憧れていたじゃないですか。それ以上の気持ちなにがあるんですか?」
「そう…だけど…そうじゃないんだよ」
「言っている意味がよく分かりませんね」
「先輩はそれでいいの?俺が…写真部員になっても」
「決まっているじゃないですか。きみが望んだ部員になれることを嬉しく思いますよ。わたしはそういう風に命を授かったので、きみが成長できたならば、先輩として快く送り出さなければなりません」
「悲しいとか、寂しいとか…」
「子供じゃないんですから、間に合ってます」
「恋しい…とか、も?」
「…ないですね」
目に見えてしょぼくれる風間に、一瞬だけ心が動いたが、だめだ、だめだと首を横にふる。
すると、風間は酷く傷ついたような顔をして、花江から一歩距離を取る。
「そっか…。分かった。ありがとう」
風間は花江の目を見ることもなく、くるりと彼女に背を向けた。
「先輩」
ドアの前でピタリと止まり、風間は花江に向かって一礼する。
「今までありがとうございました」
「はい。お元気で」
その言葉に感情はのらなかった。
風間が言い終わるより早く、花江は言葉を重ねた。
「………」
雨音に紛れて、下校のチャイムが鳴る。
やけに大きく聞こえるそれらに、花江は静かに瞳を閉じた。
第春章 完
ー… 花風
花の盛りに吹く風。主に桜がきれいに咲いているときの風を指し、花を散らす風のことを指す。
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