第春章 花風⑥

この前の大雨で桜の花はあっという間に散ってしまった。

春というのは穏やかな印象を受けるが、蓋を開ければ嵐。

変わりようのある日々だった。

昨日までは美しく咲いていた花々の姿が消えれば、少し寂しい気持ちになる。


なんてことを思っている暇もなく、カッとなるような暑さを覚える。


暑い。

眩しい太陽が目に痛い。

一体春とはなんぞや?と思うほどの熱が、体全体を走り回る。

呼称だけの春に不満を覚えながら、長袖の裾をめくる日々。

早く半袖になりたいと、スカートをパタパタと仰いだ。


そんな日々が終われば、雨が通り過ぎる。

空を見上げては、暗い雲の様子にため息が増えた。

あれだけ眩しいと疎んでいた太陽が、今では猛烈に恋しくなる。

日は伸びてきたが、暗空のせいで夜のように感じる。

ジトジトと広がる水面が、校庭に広がり、寒色を描く。

ボツボツと窓に当たる雨。

湿気の多い部屋。

髪質の具合も良くない。

気分は上がらぬ一方だった。


「そろそろ一学期もおわりだ。風間の調子はどうだ?」


「わたしの髪型とは逆に、いい感じですよ。本人は悩んでいるようですが、実力は確実についています」


「そうか。それはよかった」


「よかった…ですか…」


今日は日直だった。

花江は誰も残らぬ教室で一人、最後の日誌を書いていた。

集中したい気分ではあったが、王様のように花江の教室にやってきた鳥羽に少し驚いた。


「何しにきたんですか?先輩はわたしと違って忙しいご身分の方ですよね」


「忙しい中、時間を見つけて話しにきたんだ」


「わざわざ?」


「そう。わざわざ」


鳥羽は花江の目の前に座る。


「その席は…」


「アイウエオ順で、『は』の前は『と』だね」


「はい、きみの席です」


言い争う気も失せた。


静かな教室に二人。

雨音だけが聞こえてきた。

さらさらと書く花江の文字を鳥羽が目で追う。

これの何が楽しいのか。


「監査ですか?」


「俺のことは空気とでも思ってくれ」


「随分、主張の激しい空気ですね」


「梅雨に比べたら猫みたいなもんだろ」


「自らを可愛いと仰られてます?」


「花江の印象でいいよ」


「じゃあ…ブサ猫でいいですか?不細工な猫です、ブサ猫」


「二度も言うな」


雨音が一瞬だけ止んだ気がした。


「印象と言えば…最初の頃とは大分違う印象になったな」


「先輩とですか?…まあ、確かに落ち着きましたよね、お互い。大人になるってこういうことなんですね」


「お前と俺も、変わったな。お互いを良く知らなければ何も語れない。…俺が言いたいことの意味はわかっているか?」


「分かっていますよ。彼、風間くんのことですよね?第一印象が懐かしいですね。あの頃は、お互いの印象が最悪でした」


出会った日のことを思い出し、花江は柔らかく笑う。


「でも、今はとても仲良くできていますよ。これぞ、先輩後輩ですね。何だか彼のことが可愛く思えてきました。あ、猫のようにじゃなく…なんですかね…母性?みたいな。昨日も一緒に帰ったり、今度は外で写生大会しましょうっていう話もしているんです。彼たってのお願いで、なんでもお気に入りの景色を描きたいそうです」


「順調のようで…聞いて安心したよ」


鳥羽は花江が書く日誌の前に人差し指を出す。


「ところで…夏まつりへ提出する絵は完成したか?」


とんっと軽く日誌を叩いた。


「………最近、彼との会話が楽しくて…あまり進められていません」


「来週は期末テストも入るし、どんどん期日は迫っているぞ」


「分かっています」


「お前が新しい後輩にちやほやされるのも分かるが、本来の作品を見失うなよ」


「…分かっています」


部長としての言葉だ。

いつも軽口を言い合っている仲だが、先輩後輩であると言うことを忘れてはいけない。

鳥羽は部の長として、花江の進捗状況を遺憾に思っていた。


「実際問題、あいつが来てからあの絵を描いてないだろ?」


「何とか間に合います。頑張れば、すぐに追いつきますし…」


「焦ろ」


「焦ります…土日で何とか追いつくようにします」


「そうだな。その分、俺の手を煩わせることになる、な」


「一緒に先生に頭を下げに行きますから許してください」


「お前の遅れのせいで先生に迷惑がかかることを忘れるなよ。教師にとって部活はボランティアだ。人の休日をお前のせいで無駄にしてしまうこと、詫びろよ」


「なんですか、その誰かを代弁したような台詞は…」


「ん?」


「いえ、なんでもないです。でも、申し訳ないと思ってます…だから、謝りにも行きますし…ってか、何ですか?あたりが強い気がしますけど」


無駄に言葉にトゲを感じる。

太陽がないだけで人の性格はねじ曲がる。心穏やかに暮らせないからだろう。


「それと…」


「なんですか?まだ言いたいことあるんですか?」


鳥羽がとん、と机を叩くたびに、花江は体を小さく震わせた。

もう花江のメンタルはズタボロだ。

これ以上は責めないで欲しいと弱音を吐きそうになる。


「風間のことを気に入っているのは、分かるが…少々構いすぎてやいないか?」


「後輩ですもん。絵を描くことを気に入ってくれる人は少ないので、わたしの唯一の理解者です」


「理解者…か」


「何か言いたげですね?」


「いや、随分と風間のことを評価しているなと思っただけだ。人に興味を示さないお前が、肩入れをしすぎている気がして、な」


「人に興味はありますよ。そうでなければ、わたしは先輩と話すこともないですし。先輩は人に興味がない非常なわたしが良いんですか?」


「…変わっていくお前が嫌なだけだ」


「どう言う意味ですか?」


「被写体がブレる」


「ブレる小道具も味があって良いですよ、きっと」


「俺の描く景色の中に、必要な物だけが欲しいんだ」


「わたしは物じゃないですよ」


「今、自分で自分のことを小道具と言っただろ?」


「失言でしたね」


花江は口元を手で隠す。

隠したところで発言してしまった言葉は戻せないが…


「今日はやけに突っかかってきますね。なにか悪いものでも食べましたか?」


「確かに、今日はなぜかムカムカしている」


「脂っ気のある物でも食べました?歳なんだから、気をつけてくださいね」


「お前の目に俺は何歳に見えているんだい?」


日誌を書き終えた花江は、鳥羽の手ごとページを閉じる。


「…八つ当たりしないでください」


「悪かった」


「お忙しいのは分かるのですが、考え込むとストレスになってしまいますよ。ハゲますし…」


「人が折角謝っているのに、随分と逆撫でてくるじゃないか。喧嘩を売っているのか?」


「傷ついたので、わたしも八つ当たりです。いいですよね?」


「正当な理由だ」


敵わないな、と鳥羽は苦笑いを浮かべる。


「…けれど…」


最後に、一つだけと鳥羽は指を立てる。

彼の動作を理解した花江は、どうぞと手のひらを天井に向ける。


「そろそろ風間を成長させて、本来のあいつが入部した理由を思い出させてやれ。このままでは、なあなあの形で美術部員として在部するつもりだろう」


「わたしが…彼の成長を止めていると言いたいのですか?」


鳥羽の顔は笑っているが、心はあまり穏やかではないようだ。

静かに怒る彼の言葉を花江は真摯に受け止めた。


「お前がどう取ろうと勝手だが、風間の件はちゃんと考えておけ。このまましたいこともやらせないでいたら、俺が卒業してしまうぞ」


「……考えておきます」


「早々にな」


「……はい」


「行くぞ」


帰り支度を終えた花江のカバンを鳥羽はスマートに肩に担ぐ。

普段の調子なら、花江はここで鳥羽に対し、「泥棒」と口をうるさくするはずだ。

しかし、今の彼女に言い合う気力もない。

心中は申し訳なさと不甲斐なさでいっぱいだった。


「え?どこに…?」


「職員室。日誌を出しに行くついでに、土日のことについて先生に相談する」


「あ、はい…そうですね」


「心配するな。土日だったら、俺も手伝う」


「心ばかりの飴と5倍くらい痛い鞭ですか」


「高くつくぞ」


「承知しました。わたしの体以外でしたら、何でも…仰せのままに〜…」


「図書カード」


「わたしの作品は100年地上に降りるのが早かったそうなので、まだまだ皆様の理解は得られないようです。ですので、来世に乞うご期待してください」


「そういえば、夏まつりでも優秀賞を取ればもらえるな?」


「冒頭に戻るですか。分かりました。例え火の中、水の中、草の中、森の中、土の中、雲の中…あの子の」


「ストップ」


「…であっても、必ずゲットしてみせます。待っててくださいね、こんちくしょー」


何かに配慮した鳥羽は花江の言動を咄嗟に止める。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


花江がいる2年の教室は2階に割り振られ、3年は1階といった造りになっている。

歳を取れば取るほど、楽になる。

また階段を必ず登らないといけない1年、2年に対し、ちょっとした交流も生まれることだろう。


職員室は1階にある。

生徒たちが出入りする門のすぐ脇だ。

来賓者、業者、もしくは不審者がきてもすぐに対応できる場所に位置している。

少し教室と離れてしまっていることがネックだが、その分、生徒たちの安全を守ってくれている…と感じてくれればいい。

残念なことに建築の裏に隠された静かな想いを汲んでくれる生徒など存在はしなかった。


それもまた然り。


それもまた青春。

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