第春章 花風⑤

「はあ…」


近づこうとしても、花江はどこか離れている気がして、風間は妙にもやもやとしていた。

いつもなら躍起になって、ズバズバと鉛筆の線が走るのに、今日はたらたらとやんわりとした線しか描けなかった。


一方の花江は、黙々と自分の絵画に集中し、様々な青や緑を装飾していく。

彼女の描く世界に迷いはなく、自然と笑みがこぼれていた。

楽しいことをしている時は、仮面を外すようだった。


第一美術室と第二美術室を繋ぐ小部屋が、花江の秘密基地という名の作品の保管所だ。

気晴らしに描くセンスのない絵とは違い、彼女の想像力は一目置くほどの作品たちだった。

最近、描いた彼女の作品は『花と団子』だそうだが、もう一つ作品があり、そちらの題名は『花と太陽』。

眩しいくらいの西日に照らされた桜たちは、花を渦のようにうねらせながら太陽に向かって伸びていた。

桜はピンクというのが主流だが、彼女は陰影をつけるために青や紫で描いていた。

それがまた幻想的で、この世のものと思えなかった。

中心に向かえば向かうほど、緑を帯びていく桜はどこか夏を感じられる。

春から夏へと移り変わる様も描いたのかもしれない。


しかし、彼女に言わせてみれば、気晴らしに描く絵こそ本気で、小部屋に保管されている絵たちはおまけだそうだ。

彼女の眠っている才能こそ、応募さえすれば佳作以上は狙えるだろう、と風間は予想する。

風間は、羨ましそうに彼女の作品たちを一つ一つ確認しながら、自らが描く絵画の幼稚さと陳腐さに、もう一度深いため息をついた。


「今日の課題はできましたか?」


「ぼちぼちです」


「先ほどから、ため息が止まらないのですが、それはきみの調子と何か関係がありますか?」


「聞こえてました?てっきり、先輩は絵に集中しているもんだと思いましたけれど…」


「集中していますよ。今も、現在進行形で」


確かに風間と話しながらも、花江の手は止まらず、せっせとキャンバスに色が塗られていく。


「邪魔でしたか?」


「少々…というかかなり。まるで構ってくれと言わんばかりの大きさでしたし。最初から受け身にとれる態度は好きではないので…正直、話しかける気はありませんでした。しかし、先輩という立場もあります。後輩が困っているのなら、先輩が解決して差し上げましょうと思いまして、こうして話しかけたわけです」


「すいませんでしたねー」


「謝ってほしいわけじゃありませんよ。心配しているだけです」


「心配…ねえ…」


花江の答えに不服だったのか、風間はスケッチブックを抱え込み、体育座りでふてくされた。


「人の感情の起伏は難しいですね。言葉の選び方がまずかったでしょうか?」


「いえ…先輩はなにも気にしなくて大丈夫です」


「先ほども言いましたけれど、きみのその態度では気にしてください、と言っているようなものです」


「だって、先輩には俺の悩みは分からないでしょ?」


「そりゃあ、きみじゃないですもの。分かりませんよ」


「だよね」


と言って、風間は再度、無言になる。

花江はうーんとしばし考えたあと、動かしていた手をぴたりと止めて、風間に向き直る。

彼と同じ視線になるように、彼の側まで近づいてきて、目の前ですとんと座る。


「すいません。わたしは人の感情というのを読むのが苦手です。なので、きみの口から聞かないと…わたしはどうすることもできないのです」


「先輩は悪くないっすよ」


風間は真っ直ぐ自分のことを見てくる花江に、少々照れながら髪をガシガシとかく。

彼女の瞳は、風間を冷静にさせてくれる。

真剣に話すから、彼女の誠意は彼に伝わるのだろう。

風間は段々と苛立っていた心が平常心になるのを感じる。


「ただ…俺はどうやったら先輩みたいになれるかなって思って。先輩の絵はどこか独創的で、俺とかけ離れていて。俺には先輩みたいな絵は描けないし、全然オリジナリティーもないつまらない絵だなって思って…。そんなこと考えていたら、全然集中できなくなっちゃったんです」


「わたしの絵のどこに才能を感じたのか分かりませんが…わたしはきみの絵を上達していると思いますよ。第一、きみにわたしの絵をパクられては困ります」


「パクらないよ!先輩みたいな絵が描きたいだけなの!」


「ちょっと興奮しただけで、敬語がなくなりますか」


「す、すいません!昔からの癖で…」


「いいですよ。元々、敬語で話してくるきみに気持ち悪いと思っていたので、それぐらいが丁度いいです」


「やめてくださいよ」


花江はこほんと咳払いをし、話を振り出しに戻す。


「きみは、きみらしいので十分です。人は人になれません」


「そんな当たり前のセリフ聞くために、俺は先輩に相談したんじゃないですよ」


「ふむ…。コケましたか。難しいですね」


花江は顎に手を置き、なんとか言葉を振り絞ろうと考え込む。


「そうですね。わたしはきみの絵を、きみらしさ、で評価しますよ」


「俺らしさ?」


「きみらしさ、に関しては、これから知っていきたいと思っています。きみが写真部員の一員に一刻も早くいきたいのは分かります。でも、急いてはことを仕損じます。まずは自分の興味の対象や構図…写真においても絵においても共通する得意分野を発見し、そこにきみらしさ、が加わればわたしは正当な評価をします」


「でも、先輩はさ…その…現実主義者じゃないじゃん。だから、表現の評価に偏りが生まれるんじゃない?」


「言いますね。わたしにも好きな画家と苦手な画家もいますから…評価は確かに偏ります。ただわたしは自分の好きな物に関しては、好きと言いますよ」


「難しいですね…」


「そんなことありませんよ」


立ち上がった花江は、パンパンとスカートの裾を軽く叩いて、風間に手を差しのばす。

風間は花江の手を掴むと、彼女はぐいっと彼の体を起こそうとする。

しかし、彼女の体重では一男子を持ち上げられるわけなく、結局、風間が自らの手で体を起こした。


「わたしはここから見える景色が好きです」


と、小部屋から春風を運んでくる窓から顔を出す。

第二美術室の一面の桜とは違い、小部屋からは花江たちの住む町が、一面に広がる。

春のうららかな陽の光と共に、田んぼの緑や菜の花畑が広がっていた。

農面道路には軽トラックがぶーんと走り、子供達はそれを避けて下校していた。電柱柱は木製のものもコンクリートのものも混じり、その線一本ずつにカラスや雀が止まっている。

緑と薄いピンク色の混じる春を演じる景色を、二人はじっと見つめていた。


「穏やかで心を落ち着かせてくれます」


「じゃあ、俺がこの景色を描けば、先輩は俺の絵を気に入ってくれるってこと?」


「えこひいきになりますよね」


「ずるですね」


「でも、わたしは誰がこの景色を描いても好きになるとは限りません。例えば…そうですね。後輩が描いたから、という理由もあれば、わたしは簡単に認めてしまうかもしれません。きみは特別ですから」


花江は、口の端をゆっくりと上げて自然な笑顔を作る。

その笑みは穏やかで、春そのものを表現するような気持ちにさせた。

風間は花江の表情から目が離せなくなり、じっと彼女を見つめてしまう。


「どうしました?」


「い、いえ、なんでも…ないです!絵、絵を完成させなくっちゃ、です、しようね」


はっと我に返った風間は、花江から体一つ分距離を取って、本日の課題である花瓶と造花の絵に取り組もうとする。


「大丈夫ですか?言動がおかしいですよ」


「元々です!」


「なるほど。その一言で全てが納得ですね」


「その一言で納得しないでくださいよ!もっとつっこんでくれても構いませんから」


「さほど興味がわかないので」


「興味持ってください!」


「しつこいです。通報しますよ」


「ストーカーじゃないから!」


頬を少しだけ赤らめながら、風間は必死に鉛筆を動かし始める。

しかし、どうもうまく鉛筆の線が引けず、指と指が絡まっているような感覚に陥る。


「本当に大丈夫ですか?」


「大丈夫!」


「鉛筆の持ち方、分かってます?」


「分かってるって!」


「………こうですよ?」


ガチガチと震える風間の手を花江はそっと支える。

瞬間、風間は体温の上昇を感じた。


「大丈夫ですか?汗、びっしょりですよ?」


「元々、だから!」


「おぉ、さすがサッカー部…」


「体育会系=汗っかきってわけじゃないですけど…まあ、先輩がそれで納得してくれたなら、それでいいっす」


花江は「失礼しました」と言いながら、風間から距離を取る。

横目で花江の姿を確認しながら、風間は鉛筆を動かし始めた。

たまに彼女の姿を見たいがために、鉛筆を縦に握りしめては、デッサンに集中しているようなポージングをする。

その画角の中に、必ず花江を映した。


もっと近づきたい。


もっと仲良くなりたい。


「と、いうわけで一緒に帰りましょ!」


を具現化した言葉を自然と発していた。


「おっと。ストーカー気質が晒されてきましたね」


「普通の流れじゃないですか!後輩との時間も大切にしなきゃ、距離が縮まらないと思いますよ」


下校のチャイムが鳴る夕暮れ時。

チャイムの音は果てしなく響き渡り、反響し合う。


「きみの意見は一理あります…が、その前に片付けをしましょう」


「はい!」


いつまでもこの部屋が、彼らの物にはならない。

明日には授業で使われる部屋に、感謝の意を込めて片付ける。

毎日、これを繰り返す。


「風間くん…いいです」


「なに驚いてるんですか?それは俺の仕事です」


花江はいつものように自分より少しだけ高いところに位置する棚の上にキャンバスを返却しようとしていた。

何も言わずとも、彼女の行動を見ていれば、次にするべき行動が見えてくる。

サッカー部で鍛えられた動体視力が、こんなところで役に立つとは思わなかった。

風間は花江より一手早く動き、彼女が手にしようとしていたキャンバスを軽々と持ち上げる。


「わたしだって高い所くらい届きますよ。この脚立を使えば…」


よいしょ、と言いながら、近場に置いてある脚立を持ってこようとする。


「それって届いてないですよね。そんな危ないこと女の子にさせられませんよ」


「オンナノコ…まるできみが有能な男の子と言いたげですが…」


「有能な男の子です!先輩にそんなこと言われちゃ、手伝う気失せますよ…」


「失せて結構です。元々、一人でしていたことなんですから。返してください」


「………」


発言元は自分だが、花江の言い方にムッとする。

返してください、と手を広げる彼女だが、これくらいの仕事を任せてもいいんじゃないだろうか。

ましてや花江は女子だ。

今まで、風間が話してきた女子は、いつだって風間を頼ってきた。「重たい」の一言があれば、運ぶのを手伝うし、「取れない」と言われれば迷わず高いところにも手を伸ばした。


「先輩…ってさ」


もう少し男を頼りにして欲しいところだ。


「先輩はもうちょっと他人を信用した方がいいんじゃないですか?」


「信用してますよ」


「してませんよ。ある一定の距離を置いて、それ以上は踏み込ませないように境界線を張っているように見えます」


「わたしは野良猫じゃないですよ」


「野良猫じゃないなら、すり寄ってきてください」


「なにが言いたいんですか?」


「もっと俺を頼って」


珍しく真面目なトーンで話してしまった。

友達にだって、こんな真剣な表情を見せたことはない。


「って言いたいの…」


風間は自らの行動が急に恥ずかしくなり、声をしぼませながら、花江から視線をそらす。


「きみの絵の才能が発揮されたら、考えておきます」


「じゃあ、必死に努力して才能を開花させてみますよ」


「楽しみにしています。それまでの間は、まだまだきみのことを頼れませんよ」


「あ!」


油断していた。

手に持っていたキャンバスをぱっと取り返し、花江は用意しておいた脚立に足をかける。


「も〜!」


風間が不服の声を上げる。

こんな小さなことで小言を言ってくる後輩は初めてだ。

小さい子供が何でも自分でしたい、と思う感覚と一緒だろうか。

花江は風間のことを児童を見守るような目線で見つめた。

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