第春章 花風③

この間、花江と風間が目を合わせることはなかった。

そのことに風間は少々の苛立ちともやもやした気持ちが入り混じり、表現できないほどの微妙な顔になっていた。

どうにかして自分に興味を抱いて欲しい、とほんのばかりでも思ったのだろうか。

無駄な意地を張ってみせた。

だが、そんな意地も花江に効果はなく、逆に距離を置かれそうになった。

花江はポケットから先生しか持っていないはずの鍵を取り出す。

門番である鍵穴はすんなりと花江の鍵を受け入れ、ガチャンと音を立てる。


「セキュリティーが仕事してないっすよ」


「わたしがセキュリティーなので、大丈夫です」


「生徒に鍵預ける教師なんて狂ってる」


「違います。文化部の部長兼生徒会長が先生に信頼されているんです。『美術室のことなら、お任せください。俺がきちんと面倒を見ますので』って言われたら、誰が断ると思います?」


「断れないっすね。あのオーラで口説かれたら、老若男女問わずイチコロだ。狂ってたのはこの学校だったか…」


「で、その先輩に最も信頼されているのが、わたしです」


「自分で言っちゃうんだ」


「事実なので、言えちゃうんです」


「無害そうだもんね」


「この世で一番ピュアかもしれません。浄水器にも負けないです」


「濾されてんじゃん」


花江が開けたドアは、古い音を立ててゆっくりと押し出された。

木製で出来たアンティーク調のドアは、異世界に通じている雰囲気を感じさせる。

ドア全体は、第二美術室同様、絵の具がちらほらと飛び散っていたが、比較的傷は少ない方だ。


「ようこそ。わたしの秘密基地へ」


「お邪魔します…」


風間は、花江の案内でドアをくぐる。

狭い小部屋は、確かに秘密基地という言葉がぴったりだった。

いくつもの棚の中には様々な種類の画材や資料が並んでおり、それのせいで部屋は窮屈を感じさせる。

風間は、一見で全てが見回せてしまう小部屋に、案内されてもなにも嬉しくなかった。

なにに期待したのか知らないが、なにもない小部屋から立ち去ろうとした風間だが、花江は「よっと」と言いながら、隙間に挟まる大きなキャンバスを手に取る。


「このサイズが、200号です」


花江はしれっと何事もなかったかのように、自分よりはるかに大きいキャンバスを引きずり出す。

新聞紙ががさつに広がる棚の前に、それをどすっと置くと花江は鼻息を荒げた。


「これ…」


「毎年、文化部の中の美術部員…要はわたしなのですが…に頼まれている作品です。伝統らしく、地域の皆さんが、楽しみにされているんですって」


目の前に広がる大きなキャンバスに圧倒されながら、風間は口をぱくぱくとさせたまま言葉を失った。

キャンバスの大きさではなく、

彼女が描く作品に風間は驚いていた。

いつも団子と桜と言ったセンスの欠片も感じさせない絵画と格闘している花江からは、微塵も感じさせない大作だった。


真っ暗な夜空に、満点に広がる星。

絵の端から端まで描かれるミルキーウェイは、非現実的にうねり、まるで龍が飛んでいるようだった。

幻想的に輝く碧いオーロラや白い星々は、どこか立体的で、まるで目の前に本当の景色が存在しているように見えた。


「わたしたちの地区の夏まつりは、代々、美術部が作品を飾っていたそうです。年々、部員は減り、最終的には文化部として統合されましたが、まだ伝統は残っています。こつこつと去年から描いている作品です。これを今年のお祭りに持って行こうと思っています。他の高校からも持ち寄りますので、数の華々しさは衰えないとは思いますが…」


『どうですか?』と、照れながら花江は、頬をかく。

おこがましいなんてレベルじゃない。

どこかのコンクールに出せば、軽く佳作以上の賞は取れるだろう。


「せんぱ…い、いや、花江さん!花江先輩!えっと…下のお名前は…」

「未来…ですが?」

「未来先輩!!」


しばらく黙り込んでいた風間だったが、顔をあげ『尊敬』の眼差しで花江のことを見つめる。

肩を強く掴まれたが、興奮しきった彼に拒絶は無意味だった。


「すごいです!俺、本当に感動しました!未来先輩はすごい人です!」


「は…はあ…。ありがとう…ございます」


予想以上のリアクションに花江はついていけなくなる。

有名人でもないのに、握手会にきたみたいに何度も彼女の手を握る。

そして、彼女の指の感触を確かめながら、風間は満足げに笑う。


「すごいです。こんな小さな手から、こんなにすごい絵が描かれるなんて、信じられないです。俺も…未来先輩みたいになれますかね?」


「今のまま、こつこつと練習すれば自ずと力はつくと思います…よ?」


「そんなの無理ですよ〜。俺には先輩みたいな想像力もセンスもありません。あの絵はユーモアの塊です。発掘されたダイアモンドです!先輩はすでに原石ではなく、輝きをもっています!」


「熱弁されていらっしゃいますね」


「俺は、これからも未来先輩についていきます!そして、先輩みたいな素晴らしい絵画を描いてみせます」


珍しく話し始めたかと思ったが、気持ちが高ぶっている風間の早口は一人で始まり一人で終わった。

いきなりの態度の変化に驚いた花江だったが、馬鹿にされているわけではないことから、嫌な気持ちにはならなかった。

だが、アイドルの握手会みたいに、熱烈に手を握られれば、さすがに気持ちが悪くなった。

花江は、はにかみながら、手をおずおずと引っ込める。


「これからも、がんばってくださいね」


「え!?あ、はい!!先輩の期待に沿えるよう、努力します」


今度は軍隊みたいに距離をとり、風間は姿勢をピシッと正す。

これも体育会系の名残なのだろうか、と花江は勝手に推測し、滞っていた作業を開始させる。


「未来先輩、俺に手伝えることがあったら、なんでも言ってください。あ、エプロンしますか?後ろで結ぶの手伝います」


「いえ、結構です。一人でできますので」


「そう言わずに!先輩に万が一のことがあったら、大変ですから…俺がお世話しますよ」


「気持ち悪いです。ゴー、ホーム」


「怒らないでください。今まで手伝えなかった分、今日から先輩の手となり足となり、必死で働く所存です!」


「怒ってないです。ただ単にきみの発言が気持ち悪いと言っただけです」


と、会話をしつつも、風間は慣れた手つきで花江のエプロンを体に巻きつけていく。

そして、彼女が必要である画材や、脚立の準備もテキパキと行う。

今までダラダラと作業していたのが嘘のようだった。

やる気さえ出せばなんでも卒なくこなせるタイプの人間なのだろう。


花江は幾度となく彼の心境の変化に『気持ちが悪い』と発言していたが、彼女が彼に費やしてきた時間や、意地の悪い会話の数々を思い出し、諦めずに面倒を見てよかった、と素直に思った。

風間の前であまり笑わない花江だったが、この時ばかりは、面が取れたように表情が緩む。


やっと春がきた。


清々しい風が、彼女の心をすぅっと通り過ぎていった気がした。

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