第春章 花風②
その日、風間は夢を見る。
誰もいない美術室。
いつものように画用紙を広げる。
花風が、花びらを教室の中へと運ぶ。
一枚の花びらが風間の横を通り過ぎ、頬に触れる。
ふわりと優しく香ると花びらは、手のひらに変化していく。
驚いた風間は手のひらから逃れようと顔を背けるが、もう片方の手が彼の頬を両方から挟む。
誰かも知らないその手のひらに、嫌気はしなかった。
風間は伸びてくるその腕の先へと視線を向ける。
そこには…
「え…?」
風間はゆっくりと瞳を開ける。
目覚めの良い朝だった。
風間は窓から差し込む太陽を吸い込むように息をし、窓をそっと開ける。
朝の春風はまだ肌寒い。
夢なのに夢ではない感覚。
一瞬だったとしても、あの手のぬくもりと優しさは忘れない。
風間は呆然と外の春に視線を向ける。
「今日は妙に静かですね。悪いものでも食べましたか?フォックスボーイ」
「は?なに言って…」
放課後の静かな美術室。
いつものように、風間は花江の指導の元、白い画用紙に向き合う。
けれど、どこか違う気がして、近づいてきた花江にぱっと体を離してしまう自分がいた。
「昨日、あんな夢みたから…」
「夢、ですか?」
「あんた…花江さんには関係ない!」
「珍しいですね。きみがわたしのことを名前で呼ぶなんて。とうとうわたしを指導者として認めてくれましたか?」
「そんなはずないよ。ただ…うっす〜い先輩は…少し…呼びづらいから」
風間は「それだけ」と言うとプイッと視線をそらす。
そこへ、風間の唯一尊敬する先輩である鳥羽が美術室へと入ってくる。
「調子の方はどうだ?」
「ぼちぼちです。今日の風間くんはお腹を壊したらしく、静かで作業もはかどります」
「壊してないから!勝手に解釈しないでよね。こっちにもこっちの都合があるの」
「なんだか姉弟のようだね。楽しそうでなによりだ」
「勝手に解釈しないでください。こっちにもこっちの都合があるんです」
「意見も一緒か。仲が良いことは美しきかな」
「桜の目の前でそれを言いますか」
鳥羽はつかつかと風間に近づき、花江には聞こえないように小声で話しかける。
「昨日の写真はどうだった?」
「え?」
「昨日、感想も言わずに惚けて帰ってしまったろ?」
「あ…そういえば、そうでしたね。すっごいキレイでした。なんか優雅で、桜の色とか影のつき方とか鮮やかでした。特にあの中央で風の中心にいた女の子…あの子がいるから、作品は完成しているのだと思いました。あの子、一体何者なんですか?去年に賞を取った時もいましたよね。ぜひ会ってみたいです!!」
ペラペラと楽しそうに風間は身振り手振りを加えながら話す。
鳥羽は無言でうんうんと頷きながら、
「会ってみたいかい?」
と静かに聞いた。
その途端、風間の口はピタリと止まり、体は石像のように硬直した。
「そこの石像の仲間入りでもしたいのか?」
風間の背後には様々なポーズをとった無数の石膏像たちが並ぶ。
不恰好なものも多く、像の下の方にはサインも書かれていることから、卒業していった先輩たちの趣味で作られたものなのだろう。
誰も管理していない場所だけを食う石膏像たちは、埃を被り、心なしか悲しそうな表情をしているように見えた。
「どうした?」
全く動こうとしない風間の目の前で、鳥羽は手を振ってみたりするが全く動く気配を感じない。
「窒息死するぞ」
鳥羽は思いっきり、風間の背中をバシリと叩く。
すると、風間は何度か咳き込んだあと、無事、大きな息を吐き出した。
「先輩…知り合いなんすか?」
「もちろん。もっと言えば、電話番号もSNSも知っている。よく電話をする親しい仲だ。じゃなければ、撮影さえも許してくれないよ」
「一体どこの誰なんすか?」
「彼女」
「か、カノジョ?お付き合いしている方なんすか?!」
「ちがう。ちがう。そういう意味で言ったんじゃない。彼女だよ、彼女」
鳥羽の指は窓のそばを指していた。
その指の先端から伸びる見えない何かを感じ取りながら、風間はゆっくりと視線を右へと動かしていく。
春の風が教室に強く入り込み、吊り下げられた画用紙たちがバサバサと音を立てた。
風間の髪と思考が一気に飛んでいく。
衝撃が全身を伝った。
春、スプリング、はねる、ジャンプ、飛ぶ、フライ。
「今のはすごい風でしたね」
風でぐしゃぐしゃにされた髪を手で梳きながら、花江は風間と鳥羽に顔を向ける。
「風間くん、どうしました?髪がボサボサのままですよ」
「いいんだ。彼はそういうタイプの人間だ」
「どういうタイプの人間ですか」
花江に見えないよう、鳥羽は風間の背中をコツンと突く。
はっと気づいた風間は、急いで髪をクシで治し、鏡で何度も整える。
「お前より女子力が高いぞ」
「ひどいですね。今の風は不可抗力です。事前に教えていただければ、対処できました」
「事前に教えてくれる親切な風は、この世に存在しないぞ」
「されど、私をその風から守ってくれるどなかは存在します」
「また、お前の格言か?」
「いえ、願望です」
「呆れた」
二人の入っていけない会話の真ん中で、風間は目を右往左往させていた。
そして、何度も花江を二度見してしまう。
まさか、彼女が…あの鳥羽の写真に写っていた少女だとは信じられなかった。
「詐欺じゃないよ。あれが彼女のありのままの姿だ。見ていれば彼女の魅力が分かるはずだよ」
「あんな憎たらしいのに?」
「どんな花にだって欠点の一つや二つあるさ。百合にも薔薇にも。写真はそれを隠す。だから、君が惚れたように、他の人にも良い部分だけが伝わる」
「惚れてないっす!」
「そうかい?」と、言いながら、鳥羽は何度も風見のことをにやにやと見ていた。
「二人とも、なにをこそこそと話しているのですか?」
「少なくともきみの悪口じゃないよ。なあ、風間?」
「そ、そうっす!先輩の悪口なんかじゃないっす!」
風が吹くたびに髪が耳のあたりで揺れる。うっとおしい髪を耳にかけながら、「そうですか」と、花江は唇を優しくほころばせ、再び絵画に戻る。
ただそれだけだ。
口元に薄く笑いを含ませた、微笑み。
口の両端が上がっただけ、微笑。
決して愛嬌があったわけではない。
喜色満面でもない。
風間は無意識にこぼれおちた花江のほほえみに、目が奪われた。
「消えそうで、消えない。存在感がないようで、ある。華がないようで、咲いている。風景には溶け込みそうで、溶け込まずに馴染む。俺の曖昧でどうしようもない写真には、彼女という幻想的な存在が必要なんだ」
鳥羽は四角の形を取った手の中心に、花江をとらえる。
「す…すげぇっす。俺、マジで驚きました。感動してます」
きらきらと輝く風間の瞳を見た鳥羽は、満足した笑みを浮かべる。
「これで少しは花江先輩のことを尊敬できたかな?」
「も、もちろんっす。俺はあの人の絵の才能は認めませんけど…それ以外は、すごいと思いました」
「そうか…」と、話す鳥羽はどこか悲しそうだった。
「先輩はそれ以外の長所もあるよって顔してますね」
「そのうち、教えてくれるだろう。それは花江に任せるよ」
用を済ませた鳥羽は、「花江!」と、彼女のことを呼び、無言で手を振る。
絵画に向き合っていた花江は把握し、ひらひらと手を振り返した。
「これからも、がんばれよ」
「はいっす!」
と、元気よく返事はしたものの、鳥羽の絵は一向に花江に認められずに一週間が過ぎた。
鳥羽に花江の話を聞いた際に起きた衝動は、あれから一度も起こらない。
自分の心臓が悪かったのかと、彼は何度も胸をさすった。
「この歳で心臓に病気ですか?」
「んなわけないっす。あんたの方が病気じゃないっすか」
「わたしは生まれてこのかた、病気といった類にかかったことがないので、至って健康体です」
「バカはなんとかってやつっすね」
「失礼な後輩ですね」
つんとしながら、花江は不機嫌に黙り込んだ。
風間は花江の反応を見て、ため息を吐きながら肩を竦めるが、悪いとはちっぽけも思っていなかった。
だが、大事な部活中だ。
いまだに画用紙と睨めっこの毎日を過ごす風間。
進歩はあるように思えるが、花江の目にはどう映っているのだろうか。
彼女に認められなくては、ネクストステージには上がれない。
気は進まないが、風間はお決まりのあの台詞を花江にぶつけてみる。
「俺の絵はいつになったら、先輩に認められるんすか?」
「いつか。有象無象を描いているようではダメですよ」
「辛辣っすね。そんなこと言い始めたら、先輩の絵に基調はないし、無意味っすよ」
「きみがわたしに諫言できる立場ですか?」
「職権乱用。パワハラ」
「わたしに反省しろ、とでも言っているようですね」
「先輩が怜悧で助かります」
「その台詞…いえ、なんでもありません」
因果応報とでも言うのか。
花江は、先日、鳥羽に投げかけた言葉が自分にそのまま返ってきたような気がした。
「とにかく、まだ画用紙にお絵描きしているやつが、先輩に抗言するのは10年早いです。顔を洗って、出直してきやがれってんだ」
花江は踵を返して、風間から離れていく。
いつもなら、窓際の例の桜の油絵に向かう花江のはずだが、今日は反対方向へと歩いていく。
つまりは、第一美術室と第二美術室を繋ぐ小部屋。
文化部に入部してから、一度も入室したことがない部屋だった。
「先輩、どこに行くんですか?」
風間は、現在、取り掛かっている桜の絵に見向きもせず、真っ先に別室に潜り込もうとする花江を止める。
「秘密基地です。ついてきますか?」
「いいんですか?」
「質問に質問で返さなくて結構。わたしが許可を提示しているのですから、きみは素直に承諾するか、はたまた興味を抱かずに拒否するか。その二択しか残されていません」
「そんな会話されたら、拒否したくなるじゃないっすか…」
「では会話は以上です」
「うそうそ!興味ある!!いがみ合っててもしょうがないし、少しでも先輩に歩み寄るから」
「その心意気に感謝で〜す」
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