さよなら風たちの日々 第11章ー2 (連載33)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

第33話


              【4】


 しばらく待っていた。その時間は実際はほんの数分間だったと思われるが、その数分はぼくにとって、長い長い数分間だった。

 果たしてヒロミは出てきてくれるのだろうか。会うことを拒否して、マリさんを通じて「帰ってください」という意思を告げるのだろうか。

 無理もない。最後の日、ぼくは自分に非があるにも拘わらず、それを糊塗するためにヒロミを追い出した。ひどい暴言を吐いてヒロミを傷つけた。それをヒロミがまだ許してないことだってあり得るのだ。何をいまさら、何しに来たんですか。。帰れ。帰ってください。と、ヒロミが言うことだって考えられるのだ。

 そんな不安な気持ちのまま待っていると、パーティションに仕切られた厨房の奥から、長い髪をした小柄な女性が出てきた。そうして口に手を当てながら、信じられないものを見たような顔をして、その女性はゆっくりぼくの前まで歩いてきた。

 見まがうはずはなかった。それは二年前、目に涙をっぱい溜めて、偏頭痛のような敬礼をして出ていった、ヒロミに間違いなかった。

「ヒロミ・・・だよね」

 そう訊ねるぼくに、そうです、という意味なのだろうか。あの懐かしい、はにかむような笑顔を見せて、ヒロミはぼくに、こっくりとうなずいてみせるのだった。

 すると彼女の髪が顔を隠した。彼女はそれを無造作にかきあげ、もう落ちてくるなよ、とでもいうように軽くそれを手で握りしめ、もう一度ぼくに照れくさそうに笑ってみせた。

 ああ、これだ。このクセのない、ふわりとした髪だ。

 けれどあの頃のままなのは、ふわりとした長い髪だけだった。よく見ると顔や身体つきは高校生だった頃の幼さやあどけなさが消え、今のヒロミはどこか大人の女性のしなやかさを漂わせているのだ。十代後半の女性は二年も会わずにいると、見違えるほど美人になってしまうものだ。今、目の前にいるヒロミもそんな女性になっていたのだ。

ヒロミは淡く、ルージュを引いているのだろうか。ぼくはそう思って彼女を見つめたのだけれど、彼女は化粧などしておらず、素顔のままだった。

 グレー系のスカート。赤系のアーガイル模様セーター。そんな服装もまた、彼女のセーラー服姿しか見たことがなかったぼくには、新鮮に見えた。

 初めて出会ったとき、16歳だった彼女は今、成人を間近に控えた清楚な大人の女性に成長していたのだ。


               【5】


「お久しぶりです」と言ったあと、ヒロミはボックス席の反対側に座り、「どうしてここが分かったんですか」と、イタズラを見つけられた子供のような照れ笑いを見せ、ぼくに訊ねた。

「超能力だよ。おれには超能力があるんだ」

 ぼくは嘘をついた。自慢じゃないが、ぼくがとっさに思いつく嘘は、これまで破綻したことがないのだ。

 ヒロミは小さく下唇を噛み、首をゆっくり左右に振りながら、ぼくを見つめ返した。

 その刹那、ぼくは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 やはりぼくは、ヒロミが好きなのだ。恋しているのだ。それは学校の体育館で出会ったときからぼくはずうっと、ヒロミを想っていたのだ。

 しかし今まではその想いをはばむものがあった。否定しなくてはならないものがあった。それが信二だ。受験だ。オートバイだ。だからそれらがなくなった今、ぼくは数多あまたの呪縛から解放され、ようやく自分に素直になれる気がしたのだ。


 

 沈黙が流れた。そう。ぼくたちのあいだにはいつだって、沈黙が流れているのだ。

 その沈黙は今までと同じく、何から言おうか、何から話そうか、という

その言葉を探すための沈黙だった。

 ぼくは天井に目を移した。するとこみ上げてくるものがあった。体育館での身体測定。屋上の出来事。信二からの手紙を渡すため、待ち伏せしていた正門前。突然呼び止められた秋葉原駅。晩秋の上野恩賜公園。突然の再会。そしてぼくからの冷酷な別れの言葉。

 それらの出来事が脳裏に次々に現れては、消えていった。気がつけばその別れの日から無為な時間は、いつの間にか二年以上も過ぎていたのだ。


 マリさんがふたり分のコーヒーを運んできた。ひと口飲んで、ぼくはその味に懐かしさを覚えた。そう。その味はヒロミがぼくの家で淹れてくれた『スマイルコーヒー』の味そのものだったからだ。

「おれ、ヒロミに謝まらなくちゃいけない。最後の日のこと、ごめん」

 そう言って頭を下げるぼくに、ヒロミは手を左右に振って、

「謝らないでください。悪いのはわたしの方だったんですから」と短く答えた。

 そうなのだ。ヒロミはいつだって、悪いのは自分の方だって考える女の子だったのだ。

 その言葉に救われぼくは、簡単にあれからのことを話した。

 一浪のあと何校かの大学に合格して、今は錦糸町にある墨東大学経済学部の二年生であること。大学に入ってから自動二輪の運転免許を取って、今は400ccのオートバイに乗ってること。バンドをやってること。そのバンド仲間から、お花茶屋にある喫茶店ポールを知ってここに来たことなどだ。

 そんな近況報告をしてからぼくは、一番知りたかったことをヒロミに訊いてみた。

「この喫茶店の名前、もしかして、おれのニックネームから採ったの」

 ヒロミは、勝手に名前使ってすみませんと、またイタズラを見られた子供のような顔をしてぼくに頭を下げた。

「知ってたの。おれが学校でポールって呼ばれてたの。」

「社会問題研究会の先輩が教えてくれました」

 ヒロミは簡単に種明かしをしてから、語気を強めた。

「でもね。でもね。先輩殿。わたし中学の頃からビートルズが好きで、特にポールマッカトニーの大ファンだったんです」

「だから、だからですよ」

 ヒロミは身を乗り出してぼくを見据え、目を輝かせながら言葉を続けた。

「身体測定で初めて先輩殿と会ったとき、ドキッとしたんです」

「だっていきなり目の前に、ポールマッカトニーそっくりな人が現れたんですから」

 そのあともヒロミは何かをつぶやいた。

「先輩殿。あれはわたしの・・・」

 そこまでは訊きとれた。しかしそのあとはよく聞こえなかった。訊き返そうと思ったのだけれど、もうヒロミはその時点でうつむいてしまっていたので、ぼくはその訊き返すチャンスを失ってしまったのだ。

 けれどヒロミは、たぶんこう言ったんだと思う。

「先輩殿。あれ、わたしの初めての恋だったんです」


              【6】


 だから動揺しちゃって、肺活量測定器に、息入れられなくて。何度もやったら変な音、出ちゃって。笑われたんで、泣くまいって思ったら、逆に涙が出てきちゃって。

 三年以上も過ぎて、それが初めて明かされるあの日の真相だった。

 今思うとそんな出会いのときから、ぼくたちの歯車は噛み合ってなかったように思う。

「昔からポールマッカトニーに似てるってよく言われるんだよ。自分では目が垂れてて、まつ毛が少し長いだけだって思ってるんだけどね」

「そのせいで、しょっちゅう逆さまつ毛になって、泣かされたよ」

 ヒロミは静かに笑いながら、話題を変えた。

「訊きましたよ。文化祭でビートルズやったとき、学校中の女子にモテモテだったんですってね」

「下校のとき、正門と裏門で別々の女の子たちが待ってるもんだから、先輩殿は塀を乗り越えて逃げたんですってね」

「それって武勇伝だと思います」

 そこまで話してヒロミは、さも可笑しそうに握りこぶしの口元に当てて破顔した。

 可愛い笑顔だった。だけどヒロミはどうして、その話を知っているんだろう。

 そして気づいた。そうか。信二だ。その話を知っているのは信二しかいない。あいつ、一度だけ猿江恩賜公園でヒロミとデートしたんだっけな。たぶん信二はそのとき、その話をしたかもしれない。あとでとっちめてやらなくちゃならない。


「これからもときどき、ここに来てもいいかい」

 ぼくが訊くと、ヒロミはこっくりとうなずいた。

「あ、それから、おれのこと、ポールって呼んでいいから。もう先輩殿とか言わなくていいから」

「高校のときも下級生の女の子がおれのこと、ポールって呼んでたんだ。だからヒロミも呼び捨てでいいから。それでもおれ、全然平気だから」


 そのとき、驚いて目を見開いたヒロミの反応に、違和感があった。

 嬉しいのか困惑したのか、ヒロミは長い髪でわざと顔を隠し、その長い髪のすき間からぼくを覗きこんだ。

 今思えばその仕草の不思議に、ぼくはそのとき気づくべきだったんだ。

「それと、ビートルズのコピーバンド復活したんだ。来月の第三日曜日。そのライブあるから観に来ないか」

 わあ、ビートルズですか。先輩殿の歌が聴けるんですか。と、ヒロミははしゃいだ声を出した。でもそのあとすぐ、ヒロミは顔を曇らせた。

 平日は無理だし、お休みの日は身体がクタクタになってるから、完全休養することにしてるんです。だからその日も・・・と、ヒロミは言葉を濁し、そして寂しそうに微笑む。

 何か変だと、ぼくはそのとき感じていた。この場違いな雰囲気は何だろう。今思えばぼくはそのとき、その違和感についてもっと考えるべきだったのだ。


 そして喫茶店ポールのもうひとりのきれいなお姉さんマリさん。

 あれからぼくは毎週土曜日の夜になると、喫茶店ポールに足を運んではヒロミ相手に楽しい時間を過ごしたのだけれど、マリさんの存在もまた、いつもぼくの不思議だった。

 マリさんの苗字を訊いたら、高橋だという。容姿が歌謡バンドの二代目ボーカリストに似てると思ってたら苗字まで同じとは偶然の一致があまりにも見事なので、ぼくはマリさんが本人かあるいは双子の姉妹かと勘ぐったほどだった。

 マリさん。彼女はほんとうに不思議な女性だった。ぼくを迷惑に思っているのだろうか。招かれざる客と思っているのだろうか。別に彼女がぼくに、慇懃無礼な態度を取っているわけでもない。つっけんどんな対応をしているわけでもない。けれど彼女はどこかに、ぼくを受け入れまいとする雰囲気を作っていた。他人行儀とでもいうのだろうか。いや、違う。それは見えない壁だ。場違いな不思議だ。

 そしてその場違いな不思議はやがて、とんでもない形でぼくの前に現れることになるのだ。




                           《この物語 続きます》






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