【第一飴:深層ドロップス】

始まりはいつだって退屈


「人が想像できることは、大抵実現できる」


 そうどこかの誰かが言ったのを

 伝え聞いた私は、

「世界はなんて

 夢と希望に満ちているのだろう」

 と思った。




 雨がシトシトと降りしきる梅雨の季節。

 

 じっとりとしているようで、

 ひとたび激しい雨に見舞われれば

 ひやりと身を震わせる。


 夜には、そうして結露した窓辺で

 ダークシャドーの空を見上げながら、

 ミルクセーキを飲むのがいい。


 温めたそれはプリンのように

 なめらかな味わいとまろやかさで、

 疲れた心と脳を癒してくれるから――。



 そんな益体もないことを考える

 二十三歳の初夏。


 私のアオハルはまだ見(まみ)えない。


(そろそろ、生涯の伴侶さん候補

 見つけたいんだけどナー)


 文系の短大を卒業した私は、

 一度転職を経験して今、

 地元の企業で営業事務として働いている。


(入社二年目のまだまだひよっこだゾ☆)


 とは言え、入社した年は

 女性社員の妊娠ラッシュがあり、

 先輩は次々と産休に入っていった。


 そのせいで、

 入社二年目だというのに

 あまり新人扱いされていない。


(ま、そんだけ期待されてて、

 頼りにされてるってことだよね!)


「えーと、

 今日は何から手付けようかなぁ……」


 朝食を用意する片手間に、

 出勤後の仕事の手順について

 考えていると、


「チィンッ」


 トースターが軽快な音を鳴らした。


「お、焼けたか。

 どれどれ……うむ、いい感じだ」


 こんがりと焼き目のついた

 それを皿に載せ、

 いそいそと食卓についた。



 今日の朝食の献立は、


(マヨ×チョコトースト・

 ポタージュ・

 グラノーラ入りヨーグルト)


 だ。


 目の前で融合するマヨネーズと

 チョコレートの調和がたまらない。


 チーズのようにしょっぱい匂いと

 カカオとミルクのまろやかに

 とろける甘い薫りに食指を動かされ、

 私はパンにかぶりついた。


「ぅんっっ、

 あまじょっっぱ~ぁい♥」


 マヨネーズを食パン一面に塗り広げ、

 その上から板チョコを三かけ程度

 散らしてトーストすると、

 悪魔的美味しさを生み出すのだ。


 マヨネーズのお陰で

 パンはサックサクに、

 噛むとチョコレートがとろ~り。


 マヨネーズの持つ卵のコクと

 チョコレートの持つ

 ミルクのまろやかさが絶妙にマッチして、

 三分とかからずに食パンを平らげた。


(今度、SNSで悪魔トーストと称して

 レシピを投稿してみるのも

 いいかもしれない)


 ポタージュで身体を温めてから、

 ヨーグルトを流し込むように食して、

 私は美味しいを噛み締めた。


「は~っ、美味しかった~~。

 でも、ちと物足りないよ~な……?」


 しかし、時計を見る限り

 これ以上食べ物を追加する余裕はない。

 諦めるしかないようだ。


(でも、

 食欲が旺盛なのは健康な証拠だ!)


 意図せず腹八分目で朝食を終えられた。


 身支度を済ませて、会社へ向かう。



 すると、出社早々

 デスクに着いたばかり

 だというのに、

 上司から声を掛けられた。



「月雲さん、おはようっ!」

「おはようございます」



 私が朝食時に

 仕事の段取りについて

 考えていた理由は

 この人にある。



 和原禿八(かずはらとくや)。

 三十前半。


 筋骨隆々~恰幅のいい

 男性社員が多い中では

 比較的スリムな男性だ。


 顔はそれなりに整っているが、

 華がないので

 伊達眼鏡を

 かけているらしい。


 よく冷やかしで

「男前!」と

 言われているのを聞く。



「早速だけどね、

 この仕事を頼みたい。


 僕が担当する

 得意先の中でも

 重要なところでね、

 至急

 伝票作成をしてほしいんだ」



 手渡された資料に

 目を通してみる。



「え……ここって、

 和原さんの売り上げ二位の

 得意先じゃないですか!

 こんな大事な案件を私が

 担当してもいいんですか?」



 売り上げも高いが、

 手間も難易度も

 桁外れな得意先だ。


 まず、一日、二日では

 終わらない仕事ばかりだろう。


 先輩社員から

 難しい顧客だと

 聞かされていたところである。



「ああ、

 君にしか頼めないんだ。

 やってくれるかな?」


「しょ、承知しました!」


「期待しているよ」



 ポン、と肩に置かれた

 手の温もりよりも

 言葉に胸を温めて、

 私は再度資料に

 目を通し始める。



 その日から

 定刻を過ぎる夜が続いた。



 シトシトと降りしきる雨が

 いつしか

 上がっていたのを知る。


 濡れていたアスファルトが

 湿り気を帯びているくらいに

 変化しているのを

 足裏に感じながら、

 帰路を辿った。



 信号待ちで見上げた空に

 浮かぶ月はなく、星もない。

 ただ、曇天でもない。


 何もなくて、

 物寂しい気持ちになる。


 だからだろう

 月の周りを粛然と煌めく、

 あの曖昧模糊な

 雲に会える日を

 待ち遠しく思った。



 

 電車に揺られ、

 雨上がりの冷たいアスファルトを

 踏みしめて。


 家路を辿っていると、

 遥か数メートル先で

 人が派手に横転した。


 荷物は散乱し、

 転倒したその人も

 ひどい負傷をしたのか、

 すぐには起き上がらない様子だ。


 視線を前方に戻すと、

 慌てた様子で

 自転車を滑走させる人影が見えた。


 あの人物が転ばせたのだろう。


 ひき逃げならぬ、

 当て逃げとは惨(むご)い人間だ。


「大丈夫ですか!」


 遅れながらも駆け寄るが、

 その人はまだ起き上がれていなかった。


「だ、だいりょうぶじゃぁ……、

 なさそうです」


 ようやく絞り出せたようなその声は、

 自動車の排気音でさえ

 掻き消されそうなものだった。


(声高い……

 それに、身体も華奢なような?

 でも、喉仏がある)


 サイダーが泡を立てるような

 透き通る声に癒しを感じながら、

 彼はいくつぐらいなのだろうかと

 思った。 


「どこが一番痛みますか?」


「ほ、ひょお(ほお)が……」


 うまく舌が回っていない。

 打撲が酷いのかもしれない。


「救急車呼びますか?」


「ひょ、ひょこまではりょっと

(そこまではちょっと)……」


 辺りに散らばった菓子に

 目を遣りながら、

 少年と思しき彼は呟いた。


「じゃあ、家で手当てしましょうか?」


 すぐそこですしと付け足す間もなく、

 彼は食い気味に、


「いいんれひゅか(いいんですか)!?」


 と私の手をかたく握った。


 その手はとても柔いのに体温はなく、

 まるでガラスを握っているようだった。


 しかも、その手は

 人間離れした透明度を持っていた。 


「ええ」


 改めて向かい合った彼の髪は飴色で、

 瞳は海色をしているのだと知った。


 星一つない夜空の下で

 くっきりと視認できるそれは、

 まるで恒星だと思った。



 湿ったアスファルトの上に

 散乱した荷が商品の「飴」

 だということに気付いたのは、

 彼を私の家に運んでからだった。


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