第23話 凍てつく波動による最強寒波
橙の花が咲き乱れる中にたたずむ、神が人を慈しむがごとく慈愛に満ちた微笑みを浮かべられるアーサー様の眼差しが私の方に向けられています。
『ルクレツィア』
どれだけ人の心を打つ歌姫の唄も奏者の曲も、これ以上に私の心を揺さぶる事は出来ないでしょう。
『私はこれまで君に酷い態度を取り続けてしまった』
「そ、そんな事ありませんわ……! 酷い態度を取られた事など一瞬たりとてありません……!」
困ったように眉を下げられたアーサー様に咄嗟に弁明すると、そっと顎に手をかけられます。
『これからは、私もちゃんと君に愛を贈ろう』
「ああ……アーサー様……!!」
甘く蕩けそうな微笑みに別れを告げるのは名残惜しいですが、ここで目を開けているのはマナー違反。
そっと目を閉じて唇に温かく柔らかな感触が訪れるのを待ち――
「ルクレツィア様!!」
突然の怒声に思わず目を開くと、そこにはアーサー様の姿はなく――代わりに眉を少し潜めた従僕の姿がありました。
「ルクレツィア様……ようやくお目覚めですか」
ああ――先程のアーサー様はどうやら夢だったようです。
それならそれで後5秒、ラインハルトが叫ぶのを堪えてくれたら私は夢の口づけを堪能できたというのに。
「はぁ……最悪のタイミングですわ。ラインハルト、いくらなんでも女性の寝室に断りもせずに入ってくるなんて、男として最低の行為でしてよ」
「申し訳ありません。メイドから『ルクレツィア様が何度呼びかけても起きてくださらない』と助けを求められましたので。非常事態という事もあり失礼を承知で入らせて頂きました」
昨夜の出来事を思い返すとまた胸がバクバクしだしそうになりつつ身を起こすと、ひんやりとした空気とラインハルトの言葉に胸がスン、と静まります。
「非常事態……?」
「数刻前にヴィクトール様がお戻りになられました。既にエリザベート様から報告を受けて緊迫した空気が漂っています」
「あら……お父様、帰ってきてしまってますの……!?」
厄介ですわ。昨夜、ヒューイが帰った後エリザベート様に事のあらましを説明して、今日アーサー様がご挨拶にいらっしゃるから本日は学院をお休みしたい事は伝えてあるのですけれど――
(後1日、遅く帰ってきてくださればアーサー様が帰った後、時間をかけてお父様を説得できましたのに……)
ですが、たらればを言っていても仕方ありません。改めてラインハルトの服を見るといつもの燕尾服に厚手のコートを纏っています。
すぐ近くのメイドの服はさして変化がありませんが、肌が全く見えない位の厚いタイツを履いているようです。
彼らが何故そんな厚着をしているのか――それはこの空気の冷たさですぐ理解できます。
「……お父様、怒ってらっしゃるのね?」
「はい。流石に今回は大きな損害が出てますので……発言にはくれぐれも気をつけられた方が宜しいかと」
最悪なタイミングは目覚めに限らなかったようです。
それに、ラインハルトのこの言い方とこの空気から察するに、既に最悪の事態になっていると思った方が良さそうですわ。
「既に皆様食堂にお集まりですが……いかがいたしますか? 昨日の出来事が出来事ですので『知恵熱を出しているのか体調が悪いようで……』と伝える事も可能ではありますが……」
「……いいえ。その言い訳は貴方の立場を悪くするだけですわ。気持ちだけありがたく受け取ります」
そう、お父様は価値ある物や自分に害を与えない者には優しいですけれど――そうではない者には氷より冷たいのです。
自分の意向に抗う、これといった価値もない臣下を消す事など造作もない事。
有能な家臣をこんな事で失うのはもったいないですわ。
それに――夢ではついアーサー様に愛の言葉を言わせてしまいましたけれど、私、ちゃんと覚えてますのよ。
薄れいく意識の中、この目と耳に焼き付けたアーサー様の微笑みとお言葉。
『ルクレツィア……これまで君に失礼な態度を取り続けた事を謝罪する。これからは私もちゃんと君と向き合う事を約束しよう――』
「……せっかく、アーサー様が私と向き合ってくれると言ってくれたのです。それなのに私がお父様から逃げていてはアーサー様に即見限られてしまいますわ」
「……かしこまりました。それではお急ぎください」
ラインハルトが深く頭を下げて出ていった後、慌てた様子のメイド達によって厚手のワンピースとタイツを纏い、髪と顔を整えた後、毛皮のケープとフードを羽織らされて部屋を出ます。
冷気など、防御壁で――という訳にはいきません。
この冷気はこの館の主が出しているもの。それを拒むのは主に対する反抗にほかなりません。
ラリマー家に仕える者は、この冷気を受け入れなければならないのです。
(……とはいえ、お父様がここまでの冷気を出すなんて滅多に無いのですけれど)
ちょっと肌寒い程度ならたまにあるのですけれど、お父様が食堂にいるのにここまで寒いという事は――きっと食堂はアズーブラウを神化させている時以上の寒さですわ。
食堂へ向かう中、いつもよりずっと冷たい空気に館の騎士も従者達も皆緊張した面持ちで、懇願の眼差しで私を見据えてきます。
早く何とかしてくれ、という事でしょう。この冷気の原因は私ですもの。
食堂に入るなり、より一層冷たい空気が漂います。エリザベート様とリオネラ様、ネクセラリア様は明らかに防寒性を重視したワンピースに毛皮のストールを、オフェリア様にいたっては毛皮のコートを纏われています。
「うふふ、こんなに着込んでるのに寒いって不思議ね♪ 歯が震えるのって面白いわ!」
皆凍りついたように無表情なこの空間で一人、楽しそうにカチカチと歯を震わせる首元をマフラーで覆ったネクセラリア様の姿がより一層、この空間の異常を際立たせています。
微笑っている方はもう一人いらっしゃるのですけれど――ええ、長い付き合いですもの。その笑みが愛想笑いだという事はよく分かっていますわ。
「お父様、皆様、おはようございます」
「おはようございます、ルクレツィア……座りなさい」
お父様に促された通り、いつものように斜め向かいの席に座ります。冷気の発生源に近いと一段と冷えます。
そこで初めて真向かいのアレクシスが毛皮のフードとコートを纏っていながら歯をガチガチ震わせる姿が視界に入り、ちょっと鼻水が出ている所まで見えてしまって元々無い食欲が完全になくなってしまいます。
スープはこの状況を見越して元々冷たい物を用意したようですが、パンの外側にはうっすら霜が降りています。サラダもこの感じですとパキッといきそうですわ。
「昨夜、あの男が乱入したそうですね」
ただでさえ静まり返っている空間に紡がれた言葉によって、空気が一層凍りつくのを感じます。
「はい。私がハンカチを返す事をすっかり忘れておりまして……アーサー様は悪くな」
「言い訳は不要です。何をどう言い繕おうとお前が未熟であるが故に大きな魚を逃してしまった事に変わりないのですから」
微笑みを浮かべながら言い放たれたお父様の言葉に、ゾクリと冷たさが襲いました。
惜しい魚を逃した事に対して、アーサー様に対して怒っているだけかと思いきや――どうやら私も見限られかけているようです。
数節前のアレクシスと同じ様に。
「……お言葉ですがお父様、アーサー様もけして小さな魚ではありませんわ。コッパー領は魔晶石が豊富に取れる地。淫魔のフェロモンに対して耐性もあるあの方自身のお力もきっとラリマー家に……」
「確かに、コッパー家の資産と魔晶石は魅力的です。だから私も、私の条件を飲むならお前の願いも叶えばいいと思っていました。しかし、彼は私の計画を邪魔したのです。私に物申す程度ならまだしも、私の邪魔をする人間は私の世界に必要ない」
「わ、私にとってはなくてはならない存在です。アーサー様は素晴らしい方ですわ」
「お前にとっては必要でも、私にとっては不要……いえ、処分対象です。彼がいなければアイドクレース家……引いては翠緑の美蝶の力を得る事が出来た。これはラリマー家にとって多大な損失です」
「お父様、私は」
冷たい空気が一層強まります。少し口を開いただけで口の中が凍りつきそうな空間に本能的に口を閉ざしてしまいます。
「ルクレツィア。言い訳は不要だと言ったでしょう?」
お父様の愛想笑いは変わりません。
少し離れた場所で待機している従者達も、アレクシスも夫人達もじっとお父様の圧に耐えています。ただ一人を除いて。
「不思議! 寒いはずなのに暑くなってきちゃった♪ ヴィクトール様、私ちょっと外に出ていいですか? 喉痛めたら歌えなくなっちゃう! ウィスタリア姉様やマリアライト領の人達が困っちゃうわ!」
「ああ……それは困りますね。ラインハルト君、ネクセラリアを部屋まで。喉に良いお茶を入れてあげなさい」
ラインハルトに付き添われたネクセラリア様がそのまま食堂から退室していきます。
マリアライト領の平穏は、ネクセラリア様が年に一度歌う祝歌があってこそ。
あの方の幸せを込めた歌をマリアライト領の大魔道具を介して領土に響き渡らせる事で魔物の心や負の感情を沈め平和が保たれる――つまりネクセラリア様の喉と歌声は特別な物。
その辺りの判断を誤らないあたり、お父様は怒りつつも冷静さを保っていらっしゃるようです。
それでも怒りの対象である私に対して浴びせかけてくる冷気は変わらず、耳が痛くなってきましたわ。同時に胃もキリキリと痛みだします。
これ以上の説得はかえってこの冷気を強めるだけ。
食堂の扉が閉まったのを確認すると、お父様は再び言葉を紡ぎ出しました。
「……私が貴方に出した彼との結婚条件は私が認めた2人の男と子を成す事です。それを果たさずに自分の想い人と結婚できるとは思っていませんよね?」
「……も、もちろん先にお父様が認めた方と子を成しますわ。順番はわきまえております」
「私はアイドクレース家の……色神の力が欲しかった。お前はそれを自分の失態で取り逃がした。私の補助があっても尚、お前のその未熟な精神が失敗させた。これをどう償うつもりですか? リアルガー家もリビアングラス家も望みはない……他に候補がいるとすればダグラス卿とクラウス卿ですが、アスカさんの出産ノルマが3人という事を考えると、どちらもお前と子づくりする可能性はないに等しい」
喋り方こそいつもと変わりませんが、いつにない重圧を感じます。
重々しい空気の中、少しだけお父様から放たれる凍てつく波動が弱まるのを感じました。
「ですが……幸いにもまだあと一人だけ、相手が決まっていない公爵家の嫡子がいます」
――ああ、やはり。そこに行き着かれるのですね。
「……ルクレツィア。お前がどうしてもあのコッパー家の次期侯爵と結ばれたいと言うなら、一人目はアレクシスと契りなさい。我らが最も大切にすべき、我が家の跡継ぎを成す事で今回の失態は水に流しましょう」
「ええ……!? あ、あの、父様、僕は」
口出しは許さない、と言わんばかりに一度緩まった温度がまた急激に冷え込みます。
お父様の無言の圧はアレクシスの鼻水まで凍らせてしまったようです。
それでもまだ何か言いたげに歯をガチガチと震わせるアレクシス。これ以上口答えすればアレクシスに待っているのは死。
そしてその死の後に待っているのは――アレクシス以上に嫌な相手との契り。
アレクシスと契るのは心底嫌ですけれど――お父様と契る事になるより何倍もマシですわ。
「お父様、分かっています……私、アレクシスと契りま」
「失礼!」
言いかけた言葉に思いがけない人の言葉が被せられて声がした方を振り向くと、閉まっていた食堂の扉が開いていて――
そこには、バリッバリに橙色の防御壁を張ったアーサー様が立っていました。
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