第11話 公爵令嬢の欠点
目を覚ますと、薄緑の天井ときらびやかな緑のシャンデリアが視界いっぱいに広がっていました。
「……ここは?」
「アイドクレース邸の応接間です、ルクレツィア様」
声を出すなり視界にスッと入ってきたラインハルトの声が落ちてきます。
辺りを見回せば確かにそこは少し前に会話していた応接間で、私はソファに横になっている状態でした。
「ヒューイ卿が失神されている貴方を抱えてきたんです」
ラインハルトの言葉によって意識を失う直前の状況が呼び起こされます。
「ああ、そうですわ……私、ヒューイ卿に顔を近づけられて……気絶してしまったのですわ……!! ああ、アーサー様以外の殿方に対して気絶するなんて、何たる不覚……!!」
「悔いる所はそこではありません、ルクレツィア様……そんな調子で本当にヒューイ卿と出来るんですか? あの方、顔面蒼白で気を失ってる貴方に呆れて苦笑いしてましたよ?」
ああ――またしても失態を重ねてしまいましたわ。ヒューイ卿は絶対に私の事を馬鹿な娘だと思ったに違いありません。
ラリマー家の娘として何という屈辱……!
「この汚名は絶対に返上せねばなりません……まだ日もありますし、デートもキッスも乗り越えてみせますわ……!」
「私が心配しているのはデートでもキッスでもなくセックスです」
「セッ……!?」
真面目な顔のラインハルトの口から飛び出た卑猥な言葉に、思わず言葉を失います。
「そ、そ、その時は眠らせてもらえば、はっ……今みたいに私が気絶すれば逆にやりやすいのではなくて……!?」
「ルクレツィア様……意識のない女性を抱ける男などそうそういませんよ。相手に余程執着しているとか歪んだ性癖を持っているとか、あるいはどうしてもそうせざるをえないという事情がない限り、理性や罪悪感が勝るものです」
「そ……そうなんですの?」
私だったらもしアーサー様に「寝ている間に好きにしてくれ」と言われたら喜んで、と思いましたけど――でも、それって何だか……物凄く寂しいですわね。
「いかがですか? だいぶ抵抗があるでしょう?」
「……そうですわね」
私が想像した事を推測したらしいラインハルトの言葉を素直に認めて頷くと、頭の底に沈んでいた1つの疑問が浮かび上がってきます。
「……そ、そんな事よりラインハルト……!! 貴方、何故首飾りが作動している事を教えてくれませんでしたの!? もしかして貴方、私の事」
「ルクレツィア様、アイドクレース公が言っていた通り、馬車の中にいるのは貴方一人なのです。私だって誰に見えてもルクレツィア様だと思いますよ。一体何をやってらっしゃるのかこの沸騰娘と思いましたよ。ですがアイドクレース公は普通に接されているし、貴方も堂々とされている……そんな状態で従僕に過ぎない私が何か言えると思いますか?」
私が問いかけが終わる前に立て板に水のごとくスラスラと並べ立てられた言葉を理解するのに、数秒――
「し、しかし……それなら何故あの時動揺していたのです!?」
「ルクレツィア様が
最後の言葉が頭を冷静にさせます。そう、ラインハルトはアーサー様に熱を上げる私をいつも馬鹿者扱いするのです。
「で……では、貴方の想い人は私ではありませんの?」
「しっかりしてください、ルクレツィア様……私にとって貴方は私が仕える主の娘です。それ以上でも以下でもありません。そして貴方が愛しておられるのはアーサー様で、ヒューイ卿はその足がかり。どうか、気を強くお持ち下さい」
冷めた目で、低い声で淡々と説かれます。その表情には焦りも同様も見られません。
ラインハルトは元々感情を表に出さない男ですけれど、ここまで冷静だとやはり私の勘違いだったのでしょうか?
あの時は私も動揺していましたけれど――冷静に思い返せばラインハルトの言う通りのような気がしてきました。
(それに、私の事が本当に好きだったらアーサー様への恋を応援してくれるはずがありませんわよね……?)
お父様達の目を盗んでオレンジティーを買ってきてくれたり、青の下着を売ってきたお金で橙の小物を買ってきてくれたり――私もしアーサー様に想い人がいたら、その方の色の小物なんて絶対プレゼントできませんもの。
想い人に熱を上げられるアーサー様を馬鹿者呼ばわりも出来そうにありません。
(はぁ……何だかここに来てから、いいえ、昨日から失敗や勘違いばかりですわ……)
「私の事はともかく、ルクレツィア様……体に異常がないようでしたらそろそろ舘に帰りましょう。ヒューイ卿のご厚意でラリマー家に魔鳥を飛ばさせて頂きましたが、きっと皆様心配しておられます」
ラインハルトが見せてきた懐中時計の長針は8を示していました。ここに来てから既に2時間以上経過しています。
「まあ、大変ですわ! 早く帰らないと……ですがヒューイ卿にお礼を……」
「ルクレツィア様が起き次第帰ってもらって構わない、と言われています。探してもらったらまた時間がかかってしまいますし、お礼は次の機会にしましょう」
ラインハルトに急かされるように応接間を出てアイドクレース邸から出ます。
雨はすっかり止み、夜空に輝く青白い星の下、馬車に乗り込む為に差し伸べられるラインハルトの手を見て一つ疑問が浮上しました。
それを確かめるようにラインハルトの手を取り段を上がり、そのままグッとラインハルトに顔を近づけてみると、また嫌な動悸がし始めます。
「やはり、そういう事ですのね……」
「ど、どういう事ですか?」
座席に座り、胸を抑えて動悸が収まるのを待っていると私の奇行に動揺したらしいラインハルトが戸惑いの声を上げます。
「私……殿方に慣れる特訓をしなければなりませんわ」
重い溜息をついた後に紡いだ言葉にラインハルトは「ああ……」と納得したように息をつきました。
「……確かにルクレツィア様は殿方とダンスの距離以上に近づく経験をした事がなさそうですね。しかし困りましたね……特訓と言ってもルクレツィア様相手に顔を近づけられる殿方などそうそういないですし……」
「ラインハルト……何を言っているのです? 貴方がいるではありませんか」
「なっ……何故私なんですか!?」
珍しく声を荒らげたラインハルトの声が馬車の中に響きます。
「あら、私を想ってないのであれば何も問題ないでしょう? ラリマー家の娘である私が男が顔を近づけただけで失神するだなんて知られたら、末代までの恥です。家に帰ったら早速特訓ですわ!」
「か、勘弁して下さい……身が持ちません!」
何でしょう? さっきからラインハルトがちょっと生意気ですわ。
「黙りなさいラインハルト、これは命令です。貴方に逆らう権利など無いのです。分かったら早く馬車を動かしなさい!」
ラインハルトは眉を顰めて苦虫を噛み潰したような表情をしたものの、私に逆らう言葉を出す事もなく静かに馬車のドアを締めていきます。
ただ私に顔を近づけるだけ――オレンジティーの保管や下着を売りに行くよりよほど健全な命令だと思うのですけれど。
(身がもたないと言ってましたわね……戻ったらエリザベート様に事情を説明してラインハルトの勤務体制を確認してもらい、負担がないように調節してもらいましょう)
考えている内に馬車がゆっくりと動き出します。窓の向こうの淡い光を放つ
うっかりで作動させてしまったフェロモンのせいでシーザー卿に利用され、レオナルド卿にショックを与え、ヒューイ卿を困惑させてしまいました。
(今回、多大な恥をかいてしまいましたけれど……そのおかげで色んな事に気づきましたわ)
この首飾りの危険性や殿方に顔を近づけられる事に慣れていない、という事もそうですけれど一番重要なのは4歳の頃からひたすらアーサー様を想い続けて14年――私、色恋の駆け引きに対して全く耐性や経験が無い、という事です。
殿方とダンスを踊った事は数え切れませんし、手の甲にキスをされる事だって慣れています。
でも急に顔を近づけられたり、手を繋いだり、肩を抱かれたりとか熱を帯びた瞳で見つめられたりとか――そういうロマンス小説のようなシーンに遭遇した事はありません。
知識としては知っていても、実際にそれを体験した事のない私は頭では理解していても心が動揺してしまい、体がうまく動かなくなってしまうのです。
今のままの私――殿方の熱を帯びた視線に動揺し、軽いスキンシップや至近距離での会話に動悸を起こし、親愛のキスで失神してしまうようでは駄目なのです。
公爵になる為の知識や鍛錬を周囲に恥じぬ程に積み上げてまいりましたが、ここに来てそんな自分の致命的な欠点を発見してしまいましたわ。
(でも、欠点を発見したら克服すればいいだけの話ですわ)
幸いこれだけの失態を犯してもヒューイ卿に幻滅されること無く10日後にチャンスをもらう事ができました。
もう絶対失態など犯しません。絶対にヒューイ卿の希望に沿う幻を演じ、ツヴェルフの務めを果たしてみせますわ。
さあ、明日からはラインハルトを使って殿方に慣れる特訓です。平民らしさを身につける為の努力もしなければ。
10日以内にアーサー様から連絡が来たとしてもこの特訓や努力はけして無駄にならないはずですわ。
一つ深呼吸をして改めて決意する私を、青白い星はただただ優しく照らしてくれました。
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