第10話 青と緑の狂想曲


 殺風景な部屋には照明となるような物もないのか、ヒューイ卿が出現させた淡い薄緑の光が私達を淡く照らす中、私は彼が言った言葉を繰り返しました。


「興味……ですか?」

「ああ。さっきは動揺して声も荒らげちまったが冷静になってみるとなかなか面白い案だと思ってな。元々そっちもそのつもりで来たんだろう?」


 まだ、望みはある――ヒューイ卿の言葉に小さく頷き、首飾りのスイッチを押すと少し気だるげな眼差しで私に微笑んでいたヒューイ卿が何か不思議なものを見るかのような表情に変わっていきます。


「……少し、髪に触れてもいいか?」

「ど、どうぞ」


 ヒューイ卿は前かがみになって私の顔に手を伸ばし、恐る恐る、といった感じで私の頬の傍に髪に触れ、そこから髪に沿うように指を滑らせていきます。


「なるほど……君の髪は長いはずなのに途中から感覚が全くない……本当に触覚も惑わすんだな……」


 見ているのは髪なのでしょうけれど、至近距離にこう殿方の顔を近づけられると――何だか酷く緊張してしまいますわ。


「……手にも触れてみていいか?」

「ど、どうぞ……」


 私の震える声に気遣うようにそっと指先に触れられる。

 少しでも拒否すればすぐに離れてしまいそうな、優しい触り方――本当に、本当にこの方が不特定多数の女性と浮名を流す方なのでしょうか?

 こんな風に、繊細な壊れ物を扱うように丁寧に扱われては違和感しかありません。


 指先を確かめるように触れるこの方の、憂いと熱を帯びた眼差しと微かに緩む口元――


(もし……もしアーサー様にこんな風に扱われたら私、全身から水分が蒸発して昇天しまいそうですわ……!)


 って、駄目ですわ、そんな事考えたら妄想が――と思った瞬間ヒューイ卿の顔がグイッと近づいて思わず身が強張ってしまいます。


「ああ、悪い悪い……! 嗅覚はどう作用するのかと思ってな……本当に厄介なフェロモンだな」


 想像した通り、私の拒絶を察したヒューイ卿はすぐに私から離れます。

 そしてじっと、私を見つめてきます。


 その優しく温かい眼差しはけして軽薄な物ではなく、ただただ愛する女性として見つめられているような――ただ、それでいてどことなく悲しげな、憂いを帯びた眼差し。


(……この方と一夜を過ごす女性はこういう状況に溺れるのかも知れませんわね)


 これまで令嬢達がこの方に溺れる気持ちが分かりませんでしたが。

 10歳も上なのに、けして子どもっぽい訳でもないのに何故か母性がくすぐられるというか。

 私はアーサー様がいるので溺れたりはしませんけれど――期限付きの恋だと分かっていても放っておけなくなる女性の気持ちが、今なら理解できます。


 そんな事を考えながら彼を見つめ返していると1分に満たない沈黙の末に彼の口が微かに開きました。


「……君はここまでして俺と子作りしたいのか?」

「勿論ですわ。そうしないと私、アーサー様と結ばれる事が出来ませんもの」

「初めてはアーサーと、みたいなこだわりはないのか?」


 鋭い言葉がグサリと刺さりますが、それは絶対に聞かれると思っていた事――乗り越えなければと思っていた事なので何とか平静を保ちます。

 

「勿論、アーサー様に捧げたいですわ。初めては好きな人と、は乙女なら誰もが夢見るロマンスですもの。ですが、そうならないからといって別に何かを失う訳ではありません」


 そう言い切ってみせるとふと、疑問がよぎります。


「……逆に聞きますけれどヒューイ卿こそ数々の女性と浮き名を流す割には恋愛婚も政略婚もされていませんわよね? それは何かこだわりがあるからですの?」

「……あちらこちらのお嬢様に手を出しちまってる男に政略結婚の話なんて来ると思うか?」


 確かに。夫に抱かれた事のある女がいっぱいいるパーティーやお茶会なんて絶対出たくありませんわ。娘を大切に想う親ならまず縁談を持ち込もうとはしないでしょう。

 政略的にも余計な敵が増えて利益以上の不利益を受ける事になりそうですし。


「それに……結婚まで考える程想いを維持できた事もないしな」


 ああ、こういう所が浮名を流す原因ですのね。先程の熱を帯びたお姿とはうってかわった冷めた態度に幻滅せざるをえません。


「ま、俺の事はいいとして……あいつは俺と君が婚約するかもしれないって事を知ってるのか?」

「ええ。ツヴェルフになった事も含めて本日手紙に綴って魔鳥を飛ばしました。ちゃんと都合が悪いようであれば連絡くださるようにも書いてあります。お気遣いなく」

「そうか……それなら今日あれこれするのはやめておいた方がいいな」

「えっ?」


 まさか、今日あれこれしようと思っていたんですの――? と思わずマヌケな声を返してしまいます。

 ただ、ヒューイ卿は違う意味で受け取ったようで小さく方を竦められました。


「あれこれした後にあいつから嫌だと言われたら誰も得しないだろ……ところでもしあいつから嫌だって返事が来たらどうするつもりなんだ?」

「も……もしヒューイ卿とは止めてほしいと言われたら、お父様に縁談を無かった事にしてほしいとお願いして、代わりにダグラス卿かクラウス卿との縁談を提案しようかと……アスカさんは一夫一妻主義ですから、きっとどちらかに交渉の余地がありますわ」


 私の作戦にヒューイ卿は腕を組んで考え込まれます。何でしょう? 私それほどおかしな事は言ってないはずなのですけれど――


「どうだろうな……人工ツヴェルフが子作りノルマを引き受けた所で、あの子のノルマが完全になくなるとは思えない。どう少なく見積もっても2人は課せられる。どちらが選ばれたにしろ、もう片方は残った1席を狙うだろ」

「えっ」


 選ばれなくても諦めないとは思いましたけど、その発想はありませんでしたわ。

 でも確かに、アスカさんもツヴェルフなのです。子作りノルマが完全に消えなければ2人が私を選ぶ理由はほぼありません。


「……というより、俺が言ったのはアーサーが君との結婚自体を嫌だと言ったらどうするって意味なんだが……あいつにハッキリ拒絶されたら君はどうするつもりなんだ?」


 自分の見通しの甘さを痛感している中、ヒューイ卿は更に痛い所を突いてきます。

 アーサー様からのハッキリとした拒絶――それはずっと頭の奥に追いやっていましたわ。


(……自分が嫌な事は相手が誰であろうと「嫌だ」とハッキリ言われるあの方がこれまで私に対してハッキリ拒絶してこなかったのです……だから……)


 ルドニーク山での一件だって、命を大切にしろと怒られはしましたけれど、嫌われてしまってるかもしれませんけれど、拒絶された訳じゃありません。

 だから、その希望に縋って考えないようにしていたのですけれど――


「もし、アーサー様からハッキリ私自身が嫌だと拒絶された場合は……分かりませんわ。考えた事が無い訳ではないのですけれど、考えた途端に物凄い恐怖や孤独感が襲ってきていつも思考に歯止めがかかってしまいますの」


 侯爵家の人間が公爵家の人間を傷つければどうなるか――第三者の視点で見ればハッキリ拒絶されない理由は明らかですのに。


(でも……稀に私を視界に入れてくださるあの方の目はいつだって嫌悪とか、憎悪とか、そういう感情を感じないから、だから、私は……)


 それにツヴェルフ化する際にお父様と約束したのです。『アーサー様に告白した際フラれた時は、もう一切アーサー様に関わらない』と。

 もし関わるようであればお父様から『強硬手段に出る』と言われてしまっています。


 だからその時は、どんなに辛くても苦しくても――


「……悪い、意地悪な事を言っちまったな。そう思い詰めたような顔をしないでくれ」


 私が余程暗い顔をしてしまっていたのでしょうか? ヒューイ卿の謝罪に顔を上げるのと同じタイミングでヒューイ卿が顔をそらしました。


 ただ、顔をそらす前に見えた苦しそうな顔――ああ、私は今ヒューイ卿の想い人の姿をしているから罪悪感を感じさせてしまったのでしょうか?


「……今日の朝、魔鳥で手紙を送ったんなら返事が来るのは3日後以降……少し余裕を持たせた方がいいな……そうだな、10日後は学院の休息日だしちょうど良いな」

「ヒューイ卿……?」


 一人で喋って一人で納得する姿を不思議に思って呼びかけると困ったように微笑まれました。


「……俺の事は呼び捨てでいい。それともう少し気さくな話し方をしてくれ。親父の言った事を肯定するのも癪だが、その姿でその喋り方じゃ違和感が半端ないんだ。そういう手段を使うからにはちゃんと俺を落とすつもりで来てほしい」


「それって……」

「やり方は大いに問題あるが、好みを言えない俺の問題を解決したんだ。その情熱には応えないとな」


「……ヒューイ、ありがとうございます……!!」

「その言葉遣いはなかなか直りそうになさそうだな……」


 両手を組んで神に祈るように感謝すると困ったように微笑まれたまま手が差し出されます。

 その手は躊躇なく私の頬に優しく触れてきました。


「ま、そんな風に微笑ってくれる顔が見れるなら俺にとってもそう悪い話じゃない。もし10日後までにあいつから何の返事もなかった時は……」


 何故か心臓がドクドクと脈打ち、頭の中で大きく警鐘が鳴り出す中、体を思うように動かせず――ヒューイ卿の熱を帯びた眼差しが私を捉えます。


「1日だけでいい……この幻に浸らせて欲しい」


 ヒューイ卿が顔を近づけて、額に何かが触れた瞬間――視界が真っ暗になって思考が途絶えました。 


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