第9話 公爵令息の反応


 痛恨のミスに血の気が引いていくのを感じながらシーザー卿を見やると、明らかに楽しそうな笑みを浮かべています。


 この方は最初から気づいていた――私が馬車から降りた、その時から。


(でも、フェロモンが拡散しているのなら、ラインハルトは何故……!!)


 バッ、と後ろにいるラインハルト振り返るといつもの冷静な表情ではなく、ぽかんと口を開けて驚いた顔をしています。


(まさか、気づいていなかった……!?)


 この状況で私が幻覚フェロモンを拡散させている事に気づかない理由なんて、一つしか――


「は? レオナルド……眼の前にいるのはどう見ても……どう見ても……マリー嬢じゃない、だろう?」

「マリー嬢じゃない、って……どう見てもマリーですが……兄上には誰に見えるのですか?」

「……誰って、それは……」


 ヒューイ卿とレオナルド卿の会話に我に返ります。ああ、今は従僕の想い人が誰かなんて考えてる場合ではありませんわ!


 2人に向き直り、微かに震える手でチャームのボタンを押してフェロモンの拡散を止めると、お二人の困惑の表情がみるみるうちに驚愕のものに変わっていきます。


「えっと、あ……あの……わ、私……ル、ルクレツィアですわ。ヒューイ卿、レオナルド卿、驚かせて申し訳ありません……!!」


 脳から出している冷静になれという命令は体に上手く伝わらず、大分たどたどしい謝罪になってしまいました。

 ああ、お二人が引いてますわ。当たり前ですけれど。


「どういう事か、さっさと説明してもらいたい所だが……こんな所で女性一人囲んで立ち話させるのも気が引けるな……とりあえず、応接間に場所を移すか」


 ヒューイ卿の僅かに苛立ちを帯びた声に自分の失態を心から反省します。

 ただ、罵倒されてもおかしくないこの状態で冷静に応接間に誘導する姿は流石としか言いようがありません。

 そういうさりげない配慮が女性を惹きつけるのでしょう。


 単にラリマー家がアイドクレース家と険悪になるのを避けたいと思うように、ヒューイ卿もこちらと険悪になる状態は避けたいと思っているだけなのかも知れませんが――どちらにせよ、説明する余地をくれた彼に感謝せざるを得ません。



 応接間に入り、勧められたソファに座った後淫魔の首飾りについて説明します。

 私の向かいに座り眉を顰めて厳しい表情で私を見据えるヒューイ卿と、その隣で未だ信じられない物を見るような目で私を見るレオナルド卿の視線が痛いですわ。


「淫魔と相対した事はありませんが、話には聞いています……しかし、まさかあれほどとは……」

 

 ショックを隠しきれないように呟かれます。ええ、分かりますわ。私も騙された時は本当にショックでしたもの。


 いつだったか、魔物学の授業でも淫魔について習った時の事を思い出します。


『淫魔の幻覚は淫魔が死んだ後も効果を発揮し続けます。淫魔を殺す事は想い人と全く同じ容姿をしている存在を殺すに等しい。催淫や魅了に抗って淫魔を討伐できたしても「理想の異性や想い人にしか見えない遺体」は討伐者の精神に相当なダメージを残すそうです。その時はよくても徐々に精神を蝕んだり……淫魔と間違えて想い人を殺めてしまうという事件も1つや2つではありません。だからこそ、淫魔を討伐できる人間は限られるのです。その為ギルドに淫魔討伐が貼り出される事はありませんが――」


 自分の愛は運命の物だと思い込んで(私だったら本物のアーサー様を見抜けますわ!)なんて聞き流した説明も今はズシンと心にのしかかります。

 私、淫魔討伐なんて絶対したくありませんわ。


「レオナルド卿、淫魔のフェロモンは愛する人への想いが強いほど作用する物……見抜けなくても仕方ないのです。今回の件は私、誰にも言いませんので安心してくださいまし」


 私もお父様に騙された事を周囲に言いふらされたら立ち直れません。だから貴方の恥もそっと心に秘めておきますわ。

 こう言えば後ろに立つラインハルトも周囲に言いふらしたりはしないでしょう。

 まあ、隣りに座っておられる方の口までは防げませんけれど。


 今はレオナルド卿のショックより、ヒューイ卿の心象の方が大事です。視線を横に移すと呆れている様子のヒューイ卿と目が合いました。


「事情は分かったが……エグい事を仕掛けてくるな、君達親子は」


 声からも呆れが感じ取れます。先程の苛立ちは消えているのがせめてもの救いでしょうか?


「本当に、申し訳ありません……ですがヒューイ卿の『女性の好みがコロコロ変わるけれど肝心の好みを言ってくれない問題』をクリアするにはこの方法しか無かったのです。でもけして騙すつもりはありませんでした。ここに来るまでに馬車が揺れて……その拍子でついうっかりボタンを押してしまっていたのです」


 両膝を覆っているスカートをギュッと掴んで改めて頭を下げると隣から落ち着いた声が聞こえてきました。


「……ルクレツィア嬢は嘘はついていないと思うよ。お前を騙すつもりならボク相手にそれを使う理由がないからねぇ」


 面白い物を見ているように微笑みながら呟いたシーザー卿に視線が集中します。


「……父上、何でこの子がこの子だと気づいたんですか?」


 一番厳しい目を向けているヒューイ卿の言葉に小さく肩を竦めて、シーザー卿は饒舌に語りだします。


「気づくも何もルクレツィア嬢が来たと言われて出迎えに行ったんだ。馬車の傍にラリマー家の御者もいる。当然中にいるのはルクレツィア嬢だと思うだろう? それにヴィクトール卿は淫魔の本を借りていった。ルクレツィア嬢の姿が本人の物ではない……お前の性癖に対応する為に彼が淫魔の特性を利用しようとしている、という結論に至るまでそう時間はかからなかったよ」


 確かに、私が予め淫魔のフェロモンを使ってくるかもしれない、という予備知識を持っていれば見抜くのも平静を装うのも容易いかも知れません。しかし――


「……うっかりだろうと気づいていたのでしたら『それを使う相手を間違えてないかい?』位の事は言ってあげては?」


 私が疑問を口に出す前にヒューイ卿が追求していきます。


「このままお前と引き合わせたら面白くなりそうだなぁと思ってね。外に出ようとするグリューンを『お前の反応を見たいから待って欲しい』って説得するの大変だったんだよ?」


 ああ、『グリューンの機嫌が悪い』というのはそういう意味でしたのね――


「ルクレツィア嬢、覚えておくといい。失態は常に誰かに利用される危険性を孕んでいる。一瞬のミスが命取りになる事を父君から教えられた事はないかい? まして公爵家相手にそういうミスは本当に致命的だよ?」


 ヒューイ卿から私に視線を移したシーザー卿から、少し馬鹿にしているような微笑みを向けられてしまいます。


「……ご忠告、痛み入りますわ」

「ふふ……素直でうっかり者な君に一つ助言をしてあげよう。ヒューイが今想いを寄せているのは平民のような子だよ。そのうっかり具合や素直な所とか君とよく似てる所もあるから言葉遣いさえ意識すれば結構いい」

「父上!!」


 ヒューイ卿の怒りに満ちた一喝がシーザー卿の言葉を遮り、部屋に重い沈黙が立ち込めます。


「……ああ、怖い怖い……そこそこ面白い物も見れたし、これ以上ここにいると更に余計な事を言ってしまいそうだ。邪魔者はこの辺で退散するとしよう。ずっと我慢してくれたグリューンにもお礼を言わないといけないしね」


 ギリ、と歯が軋む音すら聞こえてきそうなヒューイ卿の怒りの表情にシーザー卿は大げさに肩を竦めた後、スッと立ち上がって扉の方へと歩いていきます。



「……悪いがレオナルドも帰ってくれるか? ちょっとこのお嬢様と2人きりで話がしたい。お前も話したい事は大体話しただろ?」

「分かりました。これ以上は私が聞いていい事ではなさそうですし……ただ最後に兄上、何度も言いますがたまには母上に手紙の一つも書いてあげて下さい。一方通行では母上が」

「分かった分かった! 気が向いたらそのうち書くさ。ああ、お嬢様の連れはここで待っててくれ。話が終わったらまたこの部屋に連れて来るから」


 もう不快な話は聞きたくないと言わんばかりに立ち上がり、ヒューイ卿も部屋を出ていきます。



 応接間にラインハルトを残し、エントランス方向に向かうレオナルド卿と別れ、ヒューイ卿の後を追いかけると酷く殺風景な部屋に通されます。


 部屋が狭い訳でも置かれている家具が粗末という訳でもないのですが――小ぶりな窓が2つ付いた部屋にあるのは服が並ぶオープンクローゼットやタンス、机と大きめのベッド、と最低限の家具だけ――人を持て成す為のテーブルやソファがありません。


「はぁ……何でこんな年にもなって親父に茶化されなきゃなんないんだか……」


 ドアを締めたヒューイ卿と私以外誰もいない空間になったからでしょうか? 重めのため息をつかれてしまいます。

 どうしましょう、シーザー卿に向かって怒鳴ってから明らかに不機嫌ですわ。イライラされてしまってますわ。


「ご、ごめんなさいまし……あの、この部屋私が座れるよう場所がないようですが……何処に座ればいいのでしょう?」

「何処って……普通にベッドに腰掛けてくれりゃ……」


 そこまで言うとヒューイ卿は突如言葉を止め、沈黙が過ります。


「ああ……そうか。そうだよなぁ……悪い、今度は俺がうっかりしてたわ。この椅子を使ってくれ」


 ヒューイ卿がクイ、と指を曲げると机に収まっていた薄緑の椅子が浮かんで私の直ぐ側まで移動してきました。お言葉に甘えてて座り心地のいい椅子に腰掛けて気になった事を問いかけます。


「あの、この部屋は……?」

「俺の部屋だ」


 こんな、人をもてなす為のおもむきはおろか、人を迎える為のテーブルやソファが一切ない部屋が数々の女性と浮き名を流す方の部屋――? 違和感が凄いですわ。


「さて、と……もう一回その首飾りの力を発揮してもらっていいか?ちょっと確かめたい事がある」

「え?」


 何を言ってるのか分からなくてつい間の抜けた声を上げてしまうと、ヒューイ卿はベッドに腰掛けて私に視線を合わせてまっすぐに私を見つめます。


「興味があるんだよ、その幻覚フェロモンってやつに」


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