第96話 とある生母の子守唄・2(※ジェシカ視点)
一見、朝か昼かも分からない程どんよりと曇った空から降ってくる、どしゃ降りの雨――窓が揺れる音がしないから風はないみたいだけれど時折閃光と雷鳴が聞こえてくる。
「お二方がいない時にこんな天気になられると少し不安になりますねぇ……お茶でも飲んで温まりましょうか。今、準備しますね!」
窓の向こうを眺めていた私の気持ちをやや惜しい方向に推測したらしいハンナがパタパタと部屋を出ていく。
二人の事を考えていたのは事実なんだけど、私が心配していたのはこの長引きそうな雨の中で彼らはちゃんと防御壁で雨風しのぐかしら、という一点だった。
(まあ、あの人達に関しては何言っても無駄だから……)
気を紛らわせる為に棚からこの世界の植物の図鑑を取り出そうとした時、部屋にノック音が響いた。入るように促すと予想外の人間が入ってくる。
「母上……只今戻りました」
この世界の人は魔法が使えるから雨が降っても防御壁を張って服が濡れる事はない――はずなのだけれど、アーサーの髪と肩は少し遠目に見てもそこそこ濡れているのが分かる。
(やっぱり……)
地球にも本降りにならないと傘をささない人間がいたけれど、それは傘でも魔法でも同じようで。アーサーに何度『雨が降ってきたら防御壁を張りなさい!』と言っただろう?
その度『この程度の雨なら平気です』と言って聞かず、ハンナにアーサーの分の防御壁も張ってもらうとあからさまに不機嫌になるので諦めた。
今こうしてみてもずぶ濡れでない辺り、ちゃんとこの子なりに防御壁を出す基準があるのだろう。アーサーは外見こそ若かりし日の私に似ているけれど、こういう変なこだわりがいくつもある所はエドワードによく似ている。
「……おかえりなさい、アーサー。怪我はしてない?」
『はい』
言いかけた言葉をグッと飲み込んで微笑むと、アーサーから短い念話が返ってくる。
皇都にある魔導学院に行ってからアーサーは念話で会話してくるようになった。「普通に声に出して喋りなさい」と何度言っても聞かないのでそれもそのままにしている。
この子と結婚する子も、この子に理解を示してくれればいいけれど――と考えているうちにアーサーが手のひらに収まる位の小箱を差し出してきた。
この子は遠方に出るといつもこうしてささやかなお土産を持ってくる。だから特に不思議に思う事無くその箱を受け取って開けてみると、部屋に懐かしい音調が響き渡る。
金属を弾いて紡ぎ出される独特の可愛らしい音色――オルゴールを目にするのは何十年ぶりだろう? 少なくとも40年は経っている。
感慨深い音色が紡ぐ曲も、また酷く懐かしいものだった。
『母上はこの曲をご存知ですか?』
「ワンフレーズだけ繰り返しているみたいだけれど……
『この歌をカーティスに対して歌いましたか?』
アーサーから紡がれる名に、血の気が引くのを感じた。
「……どうして?」
笑顔を貼り付けて恐る恐る問いかけると、アーサーは眉間に皺を寄せて視線と落として念話を続けた。
『先日、カーティスが病死しました……この箱は彼の形見です』
その念話に対して微かに口を開けただけで何の言葉も返せなかったのは、アーサーの言葉を理解できなかったからじゃない。
自分の脳を自分の意志で動かせない――凍りついたような感覚が私を襲ったからだ。
あの時もそうだった。だけどあの時のように自分を突き動かすような衝動は何処にもない。頭にも心にもぽっかり穴が空いた状態でアーサーの念話が続けられた。
『ここに入る前にペリドット家の使いの者と会いまして……これを形見として持って行くようにと。お礼の手紙などは一切不要だそうです』
アーサーが視線をそらして少し俯く。眉間に皺が寄って悔しそうな顔――息子の初めて見る顔にこれ以上心配をかけてはいけない、と心が働きだす。
「そう……そうなの……あの子、死んじゃったのね……」
口にだす事で改めてそれが事実としてのしかかってくる。
何故こんなに私は悲しいのかしら? 一時は殺そうとした子に対して、何で、こんなに心が締め付けられるのかしら?
本当はちゃんと自分の子だと認識していたから? 違うわね。そうだとしたらもっと悲しいはずよ。後悔が押し寄せてくるはずよ。
あの子にとって加害者という立場で終わってしまったから? この心の中に沈む謝罪の言葉をあの子に伝える事は二度とできないから?
再び小箱に視線を落とすと、糸の束のような物が綺麗にくくられている。
先は少し青みを帯びているけれど、それの中央は間違いなく、あの時見た黄緑色。
だからアーサーが何も言わずとも、それがあの子の遺髪だと理解できた。
憎んでいるだろう私に対して、形見どころか遺髪までよこすなんて。
でもこの音色を聞いてあの子自身は私を恨んではいない、と思ったのかもしれない――だからわざわざ私にこれを託しに来た。
私も今、この曲を聞いてあの子に怨まれていた訳ではなかったのかと思ってしまっている。複雑な気分が心に空いた穴を執拗に撫でまわす。
そんな私の心境なんて分かるよしもなく、オルゴールはただただ決まった1フレーズを精密に繰り返す。
何故その部分だけしか流れないのか――その理由はすぐに思い至った。足が震えて立ち続ける事が出来ず、小箱を持ったまま椅子に腰掛ける。
「この曲ね……あの館にいた時、あの子に少しでも母親らしい事をしてやれって言われて、でも私、これまで産んだ子は早々に乳母だったり、そこの夫人に引き渡してたから……何をしてやればいいか全然分からなくてね……パッと思いついたのが歌だったのよ……」
昔を――まだまともな精神を保っていられていた頃を懐かしむように語りだすと、アーサーもテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰掛ける。
そのタイミングでハンナがティーセットを乗せたサービスワゴンを持って入ってきてアーサーの帰還を喜んだ後、いそいそとお茶の準備をしだした。
「ハンナ……カーティスが病死したそうよ」
そう言うとハンナの手から布巾が落ちた。カップを持っている時に言わなくて良かった。
「そ、そうですか……」
ハンナはそれだけ言って黙り込む。オルゴールの音が響くだけの沈黙の中アーサーの念話が再び頭に響く。
『私は母上からこの歌を聞いた記憶はありませんが……?』
「そりゃそうよ、この歌は子守唄じゃないから……あの子が綺麗な黄緑色の髪と目をしていて、黄緑のヒラヒラした服を来てたからこの歌が思い浮かんだだけなのよ。歌詞は子どもに歌うものじゃないからメロディだけ口ずさんでね……」
でも、あそこの家は何故か歌や曲……そういう類の物が好きじゃないみたいで、私が口ずさむと嫌な顔をされて歌い始めると止められた。
意地になって何回も、止められるまで歌ってやったっけ。だから1フレーズしか覚えなかったのね。
ハンナがやや濃い橙色のオレンジティーをテーブルに置いたのと同時に小箱を閉じると、音が止む。
静寂が戻った部屋の中、温かいオレンジティーに少し口をつけて1つため息をついた。
「……私ね、あの子を……カーティスを『自分の子』だと思えた事がないのよ。私の子はアーサー……貴方だけなの。私が愛してる子は、愛していい子は貴方だけなの。だけど……そう……あの子には何も言えないままだったけど、これから先も何も言えないままなのね」
その言葉には返ってくる言葉はなく、独り言のように続ける。
「……私が死ぬ前に何か貴方に一言託せたらいい、なんて逃げていた私に罰が当たったのね。リーシャのように若くして病に伏せて亡くなる事もあるのだと、分かっていたのに……」
それ以上言葉を紡ごうとした時、声が詰まり代わりに溢れ出たのは、涙。
「母上」
アーサーがハンカチを差しだそうとしたのだろう、ただ何処かで無くしたのか「あ」と小さく声を出した後辺りを見回し、先ほど落ちた布巾を差し出してくる。
流石にそれはと思ったのか、ハンナが慌てて自分のハンカチを差し出してきたのでそちらの方を受けとる。
この館ではこうやって私に気を使ってくれる人達がいる。ありがたい事と思いながら目頭をそっと押さえ、気を取り直す。
「アーサー……このオルゴールは私がもらってもいいかしら?」
『はい……兄上も私が持っているよりは母上に持っていてもらった方が喜ぶでしょう』
「アーサー……あの子の事を兄上なんて言わなくてもいいのよ。私はあの子にとって良い母親ではなかったし、あの子にはあの子の家族があるわ。きっとあの子も貴方を弟だと思ってなかったでしょう」
『母上、母上が自分が産んだ子をどう思っていようと、向こうがどう思っていようと、私にとって母上が産んだ子は全員兄弟です』
アーサーは折れたくない所は絶対に折れない。今の言葉も私が何を言っても変えようとはしないだろう。
その何人にも曲げられない真っ直ぐな信念が心配で、眩しくて、羨ましいと思う。
カーティス――私が4番目に産んだ子。
正気に戻った頭で冷静に考えれば、私があの子にした事はとても酷い事だった。だけど私は、私だけが悪いと認めたくなかった。だから手紙を出さなかったし会いにも行かなかった。
というより私はあの家にとっては灰色の魔女以上の悪女――きっと門前払いされただろう。あの男によく似ていたあの子は愛されていた。身を挺して庇われるくらいには。
そう、あの子にはちゃんとした母親がいる。そんな子に私の存在なんて邪魔なだけだろう。
だから、エドワードにもカーティスがどうしているのか聞けなかった。万が一気を利かされて会わされてしまう事になるのが嫌だった。でも――
「……アーサー、ハンナ、少し一人にしてくれる?」
『分かりました。母上、あまり気に病まれませんよう……兄上は亡くなりましたが私はここにいます。お約束は出来ませんが母上が死ぬまで私は極力死なないよう努めます』
アーサーは本当にエドワードに似ている。だけど、あの人はこんな台詞を絶対に言わない。
違うのだ。全く同じ色でも、血を分けた父子でも。違う人間なのだから――だから、あの子にも、もっと近づいてみたら良かったのかも知れない。
「そうね、貴方は……貴方だけは私より先に死なないでね」
そう言って2人を退室させた後、再び小箱を開いて中に収められた遺髪を見る。
(……罰が当たったのね)
自分のプライドや見栄、苦しみ、優しさ、哀れみ、遠慮、そんな負の感情に阻まれて――想う、なんて言い方も烏滸がましい位、あの子を想う私の気持ちは綺麗なものじゃなかった。
あの子が幸せなら、自分の中の後悔と罪悪感が軽くなるような気がしたから。
それは母が子を想うような愛じゃない。ただ自分が救われたいが為の、独りよがりなエゴの押し付け。新聞であの子の名前を探していたのも、そんな感情から。
そして死ぬ間際に何か言い逃げて終わりにできれば、なんて卑怯な考えでこの数十年過ごしていたから――あの子に何も言えぬまま死に別れる事になってしまった。
私が中途半端に歌った曲をオルゴールに残して。
もう30年以上前――私に刺されて泣き喚くカーティスを助けたあの女の形相は、子を守ろうとする母親そのものだった。
それに引き換え私は、あの子が生まれてから死ぬまで、何一つ母親らしい事をしてやれなかった。
「ごめんなさいね、カーティス……」
私以外誰もいない部屋で私の呟きに答えるのは無機質な金属音だけ。
延々と1フレーズだけを繰り返すオルゴールはいつ終わるのか苦しんでいるようにも聞こえて、そっと遺髪を取り出して小箱を閉じる。
鳴り止んだオルゴールの代わりに振り続ける雨音が耳に障ってチラと窓の向こうを見やると、薄暗い中庭に犬猫達の
あそこで毎朝冥福の祈りを捧げてはいるけれど――と思った瞬間、あの中にこの子の髪を収めるのには物凄い抵抗を覚えた。
この子とアーサーは違う。でも、あの子達とこの子も違う。
今この子の遺髪を手にして、そこを眺めて、そう感じても、もう、今更。
(……本当に、酷い女ね。貴方が死んでから謝れなかった事を後悔するなんてね)
この子にしてやれた事は周囲への嫌がらせのように歌を歌ったり、強制されて仕方なくしてやった多少の世話だけ。
そしてそれらの世話も殺そうとしたという事実で容易に吹き飛んでしまう。
そう――私は酷い事をした。怨まれていると思っていた。これ以上罵声を浴びせかけられて傷つきたくなかった。
それなのにこの曲をこんな風に残してくれるのなら――聞いていてくれたのなら、止められてもちゃんと最後まで歌い切ってあげれば良かった。
この遺髪の、黄緑色の鮮やかな部分は間違いなくこの歌を聞いて笑ってくれた赤子の髪の色。私の中のカーティスの姿を思い出しながら、小さく歌い出す。
もうこの歌を止める人間はここにはいない。私とこの子の間に何の障害もない。
そう思うと心がスッと軽くなる。そうよ――もう何も、誰の事も気にしなくていいのよ。
歌だって好きに歌ってあげればいいし、冥福だって祈りたいだけ祈ればいいし、思う事を素直に言えばいい。
だってもうこの子から、あの家から、私自身から咎められる事はないんだから――
歌い終えた後、窓の向こうのどんより曇った空を見上げる。今の歌はカーティスに届いただろうか? この激しい雨音で聞こえてないかもしれない。
それならまた晴れた日に歌いましょう。一回だけじゃ覚えきれないかもしれないから何度も歌いましょう。しつこく歌い続ければもういい、って何か反応があるかもしれない。
どんより曇った空でも見上げる事で少しだけ元気が湧いてくる。
大丈夫。あの時とは違う。あの時と違って私はもう一人ぼっちじゃないの。
だけど――窓の向こうの土砂降りの雨も、私の涙も、しばらく止まりそうにない。
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