第95話 とある生母の子守唄・1(※ジェシカ視点)


「……しばらく新聞は取らない」


 長卓に肘をつき、手で額を抑えながらエドワードがそう呟いたのは朝食の時間。


 それを聞いて(10年位前にも同じような事があったわね)と過去を振り返る。あの時は1年位経ってからまた取り始めたんだったかしら?


 小さな言い争いなら家臣達ともしょっちゅうしているけれど、大きな喧嘩に至った事はないのに。何故新聞屋とだけ大喧嘩してしまうのかしら?


 それにしても今朝のエドワードはお酒の匂いが物凄い。気になってちょっと覗き込むように顔色を伺ってみれば酷く悪い。

 お酒に弱い印象は無いし、酒に溺れるような人ではないはずなのだけど――一体どれだけ飲んだのかしら?


「貴方が二日酔いする程飲むなんて、余程酷い喧嘩をしたのね……何があったの?」


 中庭をロの字型に囲うコッパー邸の中で私が移動できるのは自室や客室、食堂がある西棟と、中庭を介して犬猫達が過ごす北棟。

 訓練場や倉庫がある東棟や客人達が出入りするような南棟には入らないからその辺りで喧嘩されたら何も分からない。


 いつもなら(また変な事言い出して……)でスルーするんだけど泥酔するレベルの喧嘩となると流石に気になって問いかけると、額を抑えて呻くような返事が帰ってくる。


「……恩を仇で返されたんだ。まあ、私にも確かに悪い所があったがね。すまないがこれ以上はあまり話したくない。思い出すからね……ああ、それと……あの子達を手放したよ」

「あら、新聞屋にあの子達の事がバレて言い争いになって反省して手放したの?」


 エドワードは私の追求には答えなかった。質問に答えないのは物凄く機嫌が悪い時。だから彼が質問に答えなくなったら、それ以上何も言わずにおくのが正解。


 こういう事が頻繁に起きると面倒だけど、この人がこんなに機嫌が悪い時なんてこの館で過ごす長い年月で片手の指の数にも満たない。放っておけば大体翌日には質問に答えてくれる位には機嫌を持ち直してくれている。

 心配して構ってより大喧嘩になった事は何度もあるけれど、放置しておいて悪い状態になった事は一度もない。


 私が黙々と朝食を食べ終えてなお額を抑えて食が進んでいないエドワードに「体は大切にしてね」とだけ伝えて食堂を後にし、犬猫達が待つ北棟へと向かう。


(それにしても、エドワードがあの子達を手放すなんて……)


 あの子達――今はそう表現するのも厳しい位、いかつい巨獣になってしまったけれど。

 エドワードが革袋に押し込んだあの子達を持って帰ってきたのは、今のような晴れた日じゃなくて、土砂降りの日だった。


「リーシャが私の元に戻って来てくれたんだ!」


 目を輝かせてそう微笑むエドワードには(まあ元々変な人だし、本人がそう思って前向きになるのなら)と耐えられたけど、まだ幼いリチャードにその子を向けて「お母さんだぞ」と言った時は咄嗟に頭を叩いて怒鳴ってしまった。


 エドワードは私を殴り返しはしなかったけれど、グチグチ呟きながらその子達を抱えて自室に籠もり、魔力を遮断する板やら岩やら集めて北棟に地下室を作り出した。


 リーシャが亡くなってから見るからに気落ちしていたエドワードに対して『その子達を捨てて来て』なんて酷な事も言えず、だからって協力する気も起きず。

 基本的には静観していたけれど彼が館を不在にする時は仕方なく私とハンナが地下に降りて世話をする。何かあった時の為にとアーサーも着いてくる。


 あの子達はどんどん大きくなって神話の化け物のような恐ろしい風貌の巨獣達と化すのはあっと言う間だった。

 その中の一匹を優しそうな目で「リーシャ」と呼ぶ彼と、彼女には本当にかなわないのだと思い知らされた。


 だから、あの子達の事で喧嘩するとしたら彼の息子であるアーサーかリチャード以外にいないと思っていた。

 でも2人とも静観していて、私が生きている間には解決しないだろうとも思っていた。


 新聞屋に何で巨獣を飼っていた事がバレたのか分からないけれど、私の大きな悩みが一つ消えた事は感謝しなきゃね。


(ああでも……あの子達を手放す程の喧嘩となると数年間は新聞見られないかもしれないわね。私が産んだ子達が結婚したとか孫が生まれた記事とか見るの、ちょっと楽しみにしてたのに……)


 これまで産んできた子の事が気になるようなってきたのはこの館に来て、アーサーを産んで育て始めてから。


 今更自分が生んだ子ども達に会いたいとは思わないし、手紙を出そうとも思わないけれど、私が産んだのは有力貴族の跡継ぎ――何かあれば新聞に載るかもしれない。 

 ただそれだけの感情で私はこの世界の新聞を読み始めた。


 大抵は嬉しい記事。私が産んだ6人の子ども達のうち、4人は既に結婚して3人は子どももいる。名ばかりの夫達はまだ皆健在のようだから、家の当主にはなっていないみたい。


(夫……4番目の夫は最悪だった)


 と言ってもあの件の直後に離婚を言い渡されたから、夫だけど。


 あの件の後、怒りと敵意と嫌悪を示してきたあの人も出会った時は大柄な体格の割に丁寧な態度の好青年だった。

 だけど私が子を宿し、臨月に入った頃に「愛する人がいる」と言われた時点で心身が色んな意味で冷えた。


 もしこれが初産だったら私もユミのように子どもを置いて地球に帰ろうとしたでしょうね。誰も待っていなくても、求められていなくても。間違いないわ。

 クズ勝負ならこっちも負けてないんだから。


 なんたって出産直前に「産まれた時から愛する人に育てさせたい」ってお産の時に夫人と同室し、産まれた子を綺麗にした後、夫人に一番に抱かせたのは今思い返しても理解に苦しむし、普通に殺意が湧くわ。


 そしてそれを徹底してくれれば良かったのに、一年後、突然「母親なのだから育児に関われ、この子を愛せ」と言ってくるからその時の私は本当に追い詰められた。


 当時はまだハンナのような専属メイドはおらず、神官長に相談してみても「冷遇されてる訳ではないし、親子の絆が大事なのは事実。後1年も経てば貴方は次の子を産む為にここを離れる事になるでしょう。それまで頑張ってみてはどうですか?」と言われた。


 後1年――その言葉を頼りに見様見真似で頑張ってはいたけれど、既に何人も子を育てている夫人のさり気ない言葉の端々に滲み出ていた嫉妬や悪意は当時の私には何倍にも膨れ上がって見えた。今思えば産後鬱もあったのだと思う。


 そんな日々に追い詰められながらも何とか後3節、となった時――夫人に対して「母上」と呼んだあの子と笑顔で答える夫人を見て何かが切れた。


 切り口からブワリと吹き出す負の感情が私の心を黒く染め上げていく。その子を私が育てて何になるの? 何で私が母親ぶらなきゃいけないの? 私が何をしても皆嫌味言ってくるくせに――そんな思考もよぎった事は覚えてる。

 だけどそんな疑問より頭を締めたのは、この状況からの脱出方法。


(この子さえいなくなれば、私はこの地獄から開放される)


 追い詰められた人間にとって、道理なんてどうでもいいのよ。

 綺麗事でお説教垂れてくる奴は皆敵に見えるし、実際そうなのよ。彼らは夫人や子どもの味方であって、けして私の味方ではないの。


 私自身に対しては誰も手を差し伸べてくれない、私の苦しみをわかってはくれない――そんな人達の言葉を何で聞く必要があるの?


 私は私を守らなきゃいけないの。私を守るのは私しかいないの。

 私すら私の為に動かなかったら、私は何の為に生きてるの?



 そんな思考でいっぱいになった翌朝――護身用に渡されていたナイフを眠るあの子めがけて突き刺した。



 今でも私は私を悪いとは思ってない。私はそれに耐えられる程強くなかっただけ。悪魔に魂を乗っ取られた時間があっただけ。


 馬車で細い吊り橋を通っていたら吊り橋が千切れて馬車が落下したようなものなの。

 何も分かってないあるいは無理やり走らされた馬には同情するけれど、吊り橋よりも吊り橋を渡りきれると思った人達が悪いし、愚かでしょう?


 それにあの子は馬と違って死んだ訳じゃないもの。あの子はあの後ちゃんと『母親』に守られて治療されたもの。

 顔を真っ赤に染めて泣き叫んでいたあの子はちゃんと温かい家族に助けられたの。そして夫婦の間に割って入った魔女は館を追い出されて、めでたしめでたし――


 今はふざけるなと思う。でも、それを言える程私の立場も綺麗なものじゃなかったし、その時はひたすらどうでもいい、あの家から解放されるなら何でも良いと思ってた。


 その後私には専属メイドという監視役をあてがわれた。もう何だかイライラして散々愚痴をぶつけた時にハンナが共感してくれなかったら。その後色々な縁が重ならなかったら。

 きっと私はエドワードと結婚する事無く、アーサーを産む事も無く、今ここで平穏な生活も手に入れていない。


 額を切られたあの子の耳をつんざく程の泣き声で、ようやく神様が私という不幸な存在に気づいて哀れんでくれたのかもしれない。


(そう言えばあの子はまだ……結婚したとか聞かないわね)


 アーサー以外にまだ結婚の報を聞かないのは、私が傷つけたあの子――カーティスだけ。

 結婚を知った所で今更祝いの言葉を言えた義理でもないけれど。正直、言う事が許されるのなら祝いの言葉と謝罪の言葉を送りたい気持ちはある。


 ごめんなさい――その言葉はずっと心の中に、とても重く太い鎖に絡まって沈んでいる。

 その鎖が解けたとして、口に出せた私の一言はカーティスの晴れの舞台を台無しにしてしまう可能性がある。そう思えば鎖を解きたい気持ちも霞のように消える。


 温かい家庭の中で生きた子には私の祝福の言葉なんて、邪魔なだけ。


(祝いたいなら空を見上げてそっと祝福を祈る程度で十分よ……わざわざ私の存在を主張して謝罪するのはエゴだわ)


 でも新聞を読めず情報が入ってこない日々の中では空に祈る事も許されない。これは神様からの『もう母親ヅラするな』と言う罰なのかもしれない。


 実際、今こうしてあの子の事を考えるとまた暗い靄に包まれる私に母親ヅラする資格はないと思う。


(……関わらない方がいいのよ。どうしても言いたい事があるのなら、死期が来た時に手紙をしたためて、私が死んだ後にエドワードかアーサーに届けてもらいましょう)


 遺言を聞いたあの子の顔を、反応を見るのが恐いから言い逃げしたい。もう自分の心を抉られるような思いはしたくない。


 あの子は勝手だと怒るかしら? それとも蔑むかしら? どっちでもいいの。私がこのもやもやを抱えたまま死にたくないの。



 考えているうちに北棟に着いて棚から手入れ道具を取り出し、猫のブラッシングを始める。

 この館に来てもうすぐ30年。エサやりにトイレ掃除――今でこそ何でも自動化しているけれど結婚当時はかなり酷かった。


 腐った餌や排泄物の悪臭に耐えきれずに従者達に混じって作業してたら『君はツヴェルフだからそんな事しなくてもいい』とサラっと言ってのけた彼に食って掛かったのが初めての喧嘩だったかしら。


(あれからもうすぐ30年……私達、何百回言い争ったのかしらねぇ……)


 18で召喚されて40年。ここに嫁いだのは30を過ぎた頃でまあストレスも溜まってから本当にエドワードとはよく言い争ったし、アーサーにも手を焼いた。

 最近は喧嘩も大分減ったと思うけれどそりゃあ60近くにもなればもうガミガミ言う気力も無くなる。エドワードに対しても、アーサーに対しても。


 自分が歳を取ると動物の老いも何となく分かってくる。皆、穏やかな死を迎えて欲しい。



(私がここに来た時にいた子はもうカメちゃんだけなのよね……)



 私が館に入った時にナァナァ鳴いて近寄ってきた子猫のナァちゃんが亡くなって猫はこのニャアちゃんとグルちゃんとフーちゃん、犬はバウちゃんとワンちゃん……皆もう老いの気配を感じる。数年も経たないうちに皆いなくなるだろう。

 アヒルもどきのガァちゃんも毛の艶が明らかに無くなってきている。


 ただ、亀もどきのカメちゃんだけその甲羅がすっかり盛り上がって外が温かくなってきたからか、ノソノソと歩いている。

 その姿は地味だけれど何故かまだまだ生きそうという確信をくれる。


 カメちゃんは『コッパー家のバカ息子』と呼ばれてた頃のエドワードの事も知っているのかも知れない。有能で人格者だったと言われるお義兄さんや厳格だったらしいお義父さん、優しかったらしいお義母さんにも会った事があるのかも。


(私も死んだら一度会ってみたいわねぇ……バカ息子の家族に)


 アーサーが産まれるまでは彼の家族にどういう育て方をしたらああなるのか聞きたかったけれど、今はもうその質問はあんまり意味もなさないと知ってる。


 そう考えた後小さく咳き込む。大した咳じゃないけれど、もしかしたら悪い病気の前触れなのかも知れない、と思うのはやっぱり老いたからなのかしら?


(もうすぐ60だし、いつ死んでもおかしくない年でもあるけれど……)


 ただ、死んだら私は何処に行くのだろう? 地球の天国か地獄に行くのか、この世界の天国か地獄に行くのか――私が会えるのは今はもう顔を思い出すのにも時間がかかる私の家族か、それとも先程会いたいと願った、写真でしか知らない彼の家族か――


(……家族といえば、アーサーはいつ帰ってくるのかしらねぇ)



 そうため息をついた数日後、皇帝が崩御されたという一報が入った日の翌日――どりゃ降りの雨の中皇都へ発ったエドワードと入れ違いにアーサーは帰ってきた。


 手の平に収まる位の、小箱を持って。


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