第92話 翼の折れた鳥・3
「ねえクラウス、ダグラスさんに手紙って出せないかな……?」
「……どうして?」
クラウスは少し驚いたみたいだけど嫌悪感を表に出す事無く、優しく理由を聞いてくれた。
「まだ……これから先の事をはっきり決められないの。だからもう少し時間が欲しいって伝えたくて……今のダグラスさんなら、聞いてくれるかもしれないから……」
私の言葉にクラウスが
それに、ここは他国――もしここの手紙が地球の郵便配達と同じような仕組みになっているとしたら何処からその手紙が発送されたかを示す消印が封書に押されるはずで、それは今自分が何処にいるかを示すようなものだ。
クラウスにとっては二重の意味で断りたい提案だと思う。だけどクラウスが再び顔を上げた時、優しい苦笑いを浮かべていた。
「直接話したい、って言われたら流石に反対しなきゃと思ってたけど……手紙なら出した後にすぐにこの地を離れればいいだけだ。そこの机の引き出しに入ってる便箋やペンは自由に使っていいらしいから、それを使って書くといいよ……封書には僕が宛先を書くから」
「……ありがとう!」
クラウスから書いていいと言われて早速机の引き出しを開ける。机の上に一枚、薄茶色のザラついた便箋を置いてペンを取りだそうとした時にガツッ、と引き出しの角に腕輪がぶつかった。
(……この腕輪……)
両手首にピッタリ密着している腕輪――ここの宿で久々にお風呂に入ろうとした時に気づいてクラウスに外してもらおうとした瞬間、全身にけして弱くはない電撃が走ってそれきりになってしまっている。
魔力でどうこうできる物じゃないそうで『強引に壊せばもっと強い電撃が走ってしまうかも知れないから今は外せない』と言われた。
腕輪には小さな鍵穴みたいな穴がある。鍵はあの研究所にあるんだろうけどロットワイラーに入ると色神の存在に気付かれてしまうから戻る事も難しいとも言われてしまった。
肌に密着してるから時折腕が痒くなってくるけど、その度クラウスに治してもらえばいいから今の所それは大した問題じゃない。
だけどあの時の事を思い起こしてしまうから一日でも早く解除できないかなと思いつつ、改めてザラついた便箋に向き合う。
貴族が使うような上質な紙でもなければ罫線もない、ペンが引っかかりやすそうな紙――だけどそれにファンタジーらしさを感じる位には余裕が戻ってきてる。
ダグラスさんとの交換日記は日本語で書いていた。だから手紙も日本語で書いてもダグラスさんには伝わる。
まず守ってくれた事のお礼を綴ろうとして早速手が止まった。
(ダグラスさん、自分が猫だった事が私にバレたって分かったら気まずいかな……?)
これまでのあの小さな黒猫との過去を振り返る。私、あの猫をペイシュヴァルツだと思いこんで目の前で思いっきり泣いたし、撫でたし――あ、顎撫でしようとしたら逃げられた事もあったっけ。
(そう言えば……あの猫を胸に抱いて寝た事もあったような……?)
子猫だから、寒そうだからと思ってつい抱き寄せてしまったけど、それをダグラスさん相手にやっていたと思うと急に恥ずかしくなってくる。
それらがなくてもみっともない姿をいっぱい晒してしまった気がする。
ルドルフさんやアーサーに近づいた時にあの猫が怒っていた理由も分かった。
今思えばリチャードがあの猫の事をダグラス様、って言い間違えたのも間違いじゃなかったのかも知れない。
(待って……あの猫がダグラスさんだって事は、アーサーに生理用品買いに行かせた事、ダグラスさん知ってるって事じゃない……!!)
どうしようもなく恥ずかしい事実に気づいて顔が一気に熱くなる。
思い返せばあの小さな黒猫がダグラスさんだったと思ったら、酷くくすぐったく、恥ずかしくなる出来事ばかり。
少し頭がクラクラしてきて、またベッドに横になる。しばらく休んで昼食を食べた後にもう一度椅子に座って机の上の便箋に向き直る。
(恥ずかしいけど、もう過ぎた事。今更考えた所で仕方ない……!)
それに――それでもダグラスさんは私を守ってくれていたのだ。
こんなどうしようもない私の素の姿を見ても、私の傍で、何も言わずに守り続けてくれていた。
それは私がツインのツヴェルフだから、という理由だけだとは思えない。
頻繁に襲ってくる気恥ずかしさに身悶えしながら、試し紙に文章をいくつか書き連ねては悩み、途中で夕食をとった後しばらくしてようやく一枚書けた所でクラウスに見てもらった。
今は色々ありすぎて心の中を整理する時間が欲しいからしばらくそっとしておいてほしい事。会おうと思えるようになったら、あるいは自分の中で答えが出たらまた手紙を出すからそれまで待っていてほしいという事だけ綴ってある。
「猫だった事には言及しないの? それに研究所の事は……」
「こっちもちょっと、見られたくない所いっぱい見られちゃったし……気付いてないフリをした方がお互いの為になると思うから……」
「そう……まあ、良いと思うよ。じゃあ今日はもう寝て、明日の朝これを出した後にこの街を出よう」
クラウスは慣れた手付きで封書に宛名とこの世界の文字て私の名前を書き、手紙に封をして机においた後、ベッドに横たわって優しい表情で手を差し出してくる。
つられてベッドに横になって向かい合う。だけどその手を素直に取る事には抵抗があった。
「ねえ、クラウス……私が今クラウスに頼ってるのはただ一人になりたくなくて、また誰かに酷い目に合わされるのが怖くて、クラウスに離れてほしくないだけなのかも知れない」
クラウスからは受け止めきれない位の愛を感じる。それに比べて自分はもう色々限界で、自分のみを守る力もないからクラウスに縋りたいだけ。
今、こういう状況で感じる淡い感情は果たして好意を呼べるものなんだろうか?
一般的に吊り橋効果って呼ばれるような、怖い所で助けてくれた人にときめく物と同じじゃないだろうか? あるいは、健気で報われない男にキュンときてるだけじゃないだろうか?
何より、クラウスに対して失礼なんじゃないだろうか――そう思って吐き出した言葉にクラウスは表情を一切変えずに優しい口調で返す。
「知ってるし、分かってるよ。でも、それでいいんだよ。それでも僕はアスカの傍にいたいんだ。まして今僕がアスカから離れたらアスカは一人ぼっちになる。僕はもう絶対にアスカを一人にしないって決めたから……僕の事は気にしなくていいんだよ」
「クラウスは他の女の子を知らないだけで、こんな、狡い私よりずっと、クラウスに優しい良い子が、絶対」
「僕はアスカがいいって言ってるでしょ? アスカが狡いなら僕も狡いんだ。お互い様だよ」
私の言葉を遮るように重ねられた、優しいけれど少し強い口調に言葉が詰まる。
そしてクラウスにもダグラスさんにも失礼な感情を抱きながら、手は自然とクラウスの手を取ってしまう。それでいいと言わんばかりにクラウスは微笑む。
「おやすみ、アスカ」
これでいいんだろうか――私はまだ甘えていて良いんだろうか? という暗い感情を抱きながら、優しい笑顔と言葉と少しずつ伝わってくる白の魔力に誘われるように眠った。
翌日――受付に手紙を出した後宿を出て、人目につかない建物の裏に入る。そこでクラウスに魔力隠しと透明化の魔法をかけられた後、ラインヴァイスに乗る。
そして雲ひとつ無い青空を駆ける中、自分がしばらく過ごしていた賑やかな街が見えなくなる。
これからもっと東に飛んでこの国も抜けるらしい。皇国から遠く、誰も近寄らないような辺境の地で身を潜ませようとクラウスは言う。
お昼に差し掛かるとクラウスから
最初に会った時よりもずっとクラウスの背中が大きく見える。まだ出会って2ヶ月も経っていないのに幻の貴公子からは儚さが消えて、頼もしさすら感じる。
私と離れていた数日間の間に何があったんだろう? 私が自分自身に何があったのか話したけど、クラウスからは何も聞いてない事に気づく。
「ねえ、クラウスは私と離れていた間、何をしていたの?」
「……ラリマー公に捕まってた。青色の不思議な空間の中で色んな事を考えてたよ。そう、アスカが沈んだ海のような……寒々しい空間の中で。やっと出られたと思ってアスカの所に行ったらアスカが矢に射たれて海に落ちていくから……本当に、生きた心地がしなかった」
クラウスはこちらを向かずに呟く。
「……心配かけて、ごめん」
「アスカが謝る事じゃない。謝らなきゃいけないのは僕の方だ。アスカに嫌われたくなくて取り乱して酷い事をしてしまった。その結果アスカに辛い記憶を背負わせてしまった。君が今背負ってる辛い記憶は全部僕のせいなんだよ、アスカ」
こちらを振り向かないのは多分その表情を見られたくないからだろう。自分の罪に向き合う時は誰も笑顔じゃいられない。
顔を覗くような事はしないけどクラウスの服の袖を掴んで惹き寄せて、その手をそっと握る。
「……クラウスを不安にさせてしまったのは私だから、クラウスも全てを背負わないで。私は誰かから魔力注がれないと魔法も使えないから貴方を守れないし、癒せない。何一つ役に立てない。取り立てて美人って訳じゃないし、この世界で地位がある訳でも無い。性格だってあんまり褒められた物じゃない……だからせめて、クラウスが辛くて押し潰されそうな時はいつだって話し相手になりたい」
クラウスが言ってくれた言葉の中で、私にだってできそうな言葉を紡ぐと握った手がギュッと固くなるのを感じ、ありがとう、と消え入りそうな声が聞こえてきた。
そのまま手を握り続けて、どの位の時間が経っただろう? ラインヴァイスの速度が急に早くなった。まるで何か天敵に見つかって逃げるように。
その理由は数分もしないうちに分かった。冷たく青い魔力がまさに津波のように圧倒的な存在感を持ってこちらに押し寄せてくる。
ラインヴァイスの全速力より早いそれはあっという間に私達を飲み込んだ。
圧倒的な青の魔力の波――ルクレツィアと同じ色の波なのに、その強さは全く違う。
冷たくて、暗くて――まるで深い海の底に沈んだような感覚に包まれたかと思うとそれはすぐに通り抜けて再び温かい白の光に包まれた。
「アスカ、大丈夫……!?」
「え、ええ、今のは……魔力探知?」
「うん……ラリマー公の魔力探知だ。流石にこんなに強い魔力を皇城から飛ばしてるとは思えない。多分ロットワイラーの王都あたりから飛ばしたんだと思う……とにかく、すぐにここを離れないと……!!」
「クラウス……前!!」
突然前方の空に浮かび上がった緑の魔法陣に咄嗟に声を上げると、クラウスはすぐ前に向き直る。
半透明だった白の防御壁が少し色濃くなったと感じた瞬間、防御壁の周囲を雷のような稲光が囲んだ。
あの電撃トングより大きく重い電気の音に身が硬直する。固まって動かせない視線の先には金色のオーラと燃え広がるような黄金の翼を持つ、大きな
「ダンビュライト侯及びミズカワ・アスカに警告する……今より重い攻撃を受けたくなければ大人しく投降しろ」
低い言葉からは抑えきれない怒りの感情を感じる。
その姿と黄色の一角獣からその人がリビアングラス公――黄の公爵である事は誰から説明されなくても明らかだった。
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