第91話 翼の折れた鳥・2


 アーサーと泊まった宿の部屋より少し広く、質も良い部屋の中で私がベッドで横になっている間、クラウスは私の横で朝食と共に届けられた新聞を読む。

 そして新聞を読み終えると、特に何も気になる事は書かれてなかったと教えてくれる。


 この国にとって皇国は隣国の隣国だから、皇国の情報が何処まで入ってくるか分からないけど――クラウスが言うには皇国はこの大陸で一番大きな国だから、大きな事件があればどれだけ国を介していても伝わってくるらしい。


 新聞を読み終えた後、クラウスがこの世界の色んな話をしてくれる。そんな中で私が話し出すと、クラウスは私の言葉を急かす事もせずゆっくりと聞いてくれた。


 そして夜になるとクラウスは背を向ける私を抱きしめて眠る。朝が来ると陽の光は大事だから、と静かにカーテンを開けて微笑んでくれる。

 確かに窓から明るい光が差し込むと不思議と気が軽くなる。窓のない部屋で5日位過ごしていたから尚更、その光が温かいものに感じた。


 日が経つ度に食事を食べられる量が少しずつ増えてくるとクラウスは嬉しそうに微笑む。

 こうやって温かくずっと傍に居てくれるからだろうか? その優しさと笑顔に私の心に安寧とはまた違う気持ちが宿りはじめた、そんな時クラウスからつかの間の平穏を崩す言葉が紡がれた。


「ロットワイラーの首都が落とされた」


 この宿に来て5日目の朝――クラウスは広げていた新聞から顔を上げて少し困ったような表情で私を見つめてきた。


「ダグラスが単独でロットワイラーの王都に現れたらしい。城に入り込まれた王は自分の罪を認め自分の命を引き換えに民と王族の命を守ったとある。国境に近いここにいたら気付かれるのも時間の問題だからもっと遠くに逃げた方がいいんだけど……アスカ、大丈夫?」


 クラウスの眼差しは温かい。まだ全然本調子じゃない私を心配してくれているんだろう。その気持ちが嬉しくて気まずくて耐えきれずに視線をそらした。


 クラウスは私を連れて逃げて、3年後に私を地球に返そうとしている。

 私は――どうしたい? ずっと後回しにしていた問題に向き合わなきゃいけない時が来た。


 ダグラスさんがロットワイラーを落としたという事は、無事にダグラスさんの器のヒビが治って時止めが解かれたという事になる。


 ダグラスさんとは話した方がいい。だけど今の話を聞く限り恐怖も感じる。

 何故ロットワイラーの王様を殺したんだろう? まだ全然万全とは言えない頭と心境で必死に考えた末、もう少し情報が得たいと思ってクラウスから新聞を受け取って読もうとするけど、どうにも文章が頭に入ってこない。


 ただ、『これまでロットワイラーが行ってきた非人道的な実験の罪を償わせる為』にロットワイラーを制圧したという理由だけは何とか読み取れた。


「……アスカを傷つけた奴らに対する制裁と、何も出来なかった苛立ちをぶつけたんだろうね」


 クラウスが呆れたように呟く。


 クラウスにはペイシュヴァルツがダグラスさんだった事を話した。ラインヴァイスによると自分も一時的に分身を作って同じ色の魂を避難させる行為は出来なくはないらしい。滅多にしない行為らしいけど。


 クラウスが出した推測は私が出した推測と全く同じだった。あの人はやっぱり、自分にとって気に入らない対象は容赦無く傷つけるのだ。


(で、でも……皆殺しにだってできる人なのに王一人殺すだけで終わらせた……あの人の中で、本当に何かが変わってるのかも知れない……)


 私の中で小さな私が声を上げる。あの小さな黒猫が私を黒の魔力から守ろうとしてくれたのは確かなのだ。あの人はけして、傷つけるだけの人じゃない。


 だけど今はダグラスさんが人を殺した、という事実が物凄く怖い。心があの人の優しさを受け入れたいのに、体があの人の残酷な面に震えてしまう。


 もう4日間、温かい部屋で甘やかされながら休んでいるのに少し頭が回る用になった位でまともに結論1つ出せない自分の頭に歯がゆさを覚える。


 他人に対してなら『もっと焦らないでゆっくり休んで』と本心から言えるのに。自分自身の事になるとどうしても焦ってしまう。


「アスカ……後2、3日位ならここにいても大丈夫だよ。皇帝が死んだみたいだから」

「え?」


 悩んでいるのが思い切り表情に出ていたんだろう。クラウスがそっと指で示した記事を見ると<レオンベルガー皇帝、崩御>の文字が視界に入った。


「皇帝が死ぬのは一大事だからね。皇帝の葬儀に新皇帝の即位式……緊急の14会合も開かれるはずだし、もしロットワイラーの件がダグラスの独断なら皇家や他の公爵から大目玉を食らうのも間違いない。ダグラスはしばらく皇国から動けないはずだ」


 皇帝の体調が思わしくない事、先が長くないんだろうなという事は分かっていたけれど、実際に会った事がある人に亡くなられると心の中の何処かに穴が空いたような虚しい感覚を覚える。


「ごめんね、急かすような言い方して……ここから発つにしても次に何処に行くかも考えなきゃいけないし、アスカはもう少し体を休める事に専念してて」


 少し頭が回り始めると私が表情を陰らせる度にクラウスに気を使わせてしまっている事に気づく。いくら気にしなくていいと言われても、甘えすぎちゃいけない。


 そう思ってその日の夜はもう抱きしめなくて大丈夫だから、と伝えた。本音を言えば寝る時にクラウスに抱きしめられると逆に落ち着かなくなってしまったから、というのもあるんだけど――そんな事を言うのは抵抗があって、心配するクラウスからも背を向けて眠りについた。



 その夜はあの研究所の洗浄機にかけられる夢を見て、またクラウスに体を揺すられて目を覚ました。



 汗だくの私を心配するクラウスに怖い夢を見ただけだから、とだけ伝えると「やっぱり抱きしめて寝ようか?」と聞かれ――断ると「じゃあ手をつないで寝よう」と手を差し出される。


 クラウスに触れていないとまた怖い夢を見てしまう気がして、心配させてしまう気がしてその申し出は拒めなかった。



 朝起きると手に少し痛みを感じる。それでもクラウスの手の温もりと白の魔力の温かさのお陰か悪夢を見なくて済んだ上に少し体が楽になったのを感じる。

 その日も手を繋いで眠った。大分精神面も落ち着いて、体に大分活力が戻ってきているのを感じた。


 それ自体は良い事なのだけれど、余裕が出てくると段々後回しにしていた事に関心が向かっていく。


 想いは気にしなくていいと言われたけれど、こんな、利用するだけ利用する私の事なんてもう放っておけばいいのに――なんて言ってもクラウスはそうしないだろう。


 思えばこれまでクラウスと接する時間はあまり無かった。会えても数時間ほど話すだけで、毎日ずっと顔を合わせる事なんてなかった。


 女の子がきゃあきゃあと黄色い声をあげるだろう端正な容姿に、艷やかでサラサラな銀色の髪、儚い印象を受ける薄灰色の瞳――最初会った時は芸術だと思った。何処か人間離れした存在だと認識していた。

 今はその姿に熱く温かい感情を感じて、ちゃんと一人の人間として生きている事が分かる。


 ――私を想ってくれる、一人の、異性として。


(……どうしよう……)


 自分に好意を寄せている人間から『気にしないでいい』と言われて本気で気にしないでいられる人間が存在したなら、どんな風に考えればそんな風に思えるのか教えて欲しい。


 その上クラウスをそういう風に認識してもダグラスさんに抱く想いが消える訳ではなくて。

 塔で襲われてもなお完全には潰れなかった感情が今なお心のなかで渦巻く状況が殊更私に罪悪感を背負わせた。


 体を許してる訳じゃないからいわゆる尻軽女じゃない、と思いたいけど――同じベッドで手を繋いで眠りながら他の男へ想いも抱いている辺り、どんな言い訳をしても『ふしだらな女』である事には変わりない。


 でも私を支えてくれるクラウスを強く突き放せない。クラウスがいなくなったら私は多分この世界で生きていけない。


 研究所の岸壁でアランと対峙したあの時、私はアランの頭部を狙えなかった。

 狙ったとして命中してたかどうかも怪しいけど。どれだけ強くなれたとしても私はアランには勝てないと思い知らされた。


 いや、アランだけじゃない。私はきっと誰も殺せない。あの状況で、人を殺す覚悟を持てなかった私が、人を殺せる人達に敵うはずがないのだ。


 私が一人で生きていけるような世界じゃない事を思い知らされた今、ダグラスさんと話して向かい合うのか、クラウスと3年間逃げて地球に帰るのか――もう残された時間はないんだからちゃんと考えないといけない。


 新聞を読んでいるクラウスの横でしばらく考えた末に、小さく呟いた。



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