第90話 翼の折れた鳥・1
微かに聞こえる喧騒に目を覚ますと、窓にかかったカーテンの隙間から陽の光が溢れていた。暖かく優しい陽の光を見るのはいつぶりだろう?
あの建物で過ごしたのは5日か6日位だったはずなのにその陽の光がまるで1、2年ぶりのようにすら感じる。
目と瞼の辺りがヒリヒリしてちょっと痛い。頭痛もする。だけど、あの地獄の空間から抜け出せたのだ――安堵の息をついた後、自分が何か温かいものに包まれている事に気づく。
そして何か、重みのある何かがお腹の辺りに乗っている。
振り向くのが少し怖くてその体勢のまま、まずお腹の方に手をやると触り慣れたフカフカの手触りを感じる。ラインヴァイスだ。
寝てるのか起きてるのか分からないけど、もし寝ていたら私が動いたら起こしちゃうかな、と手を離してまた布団を抱える。
布団を独占したまま寝てしまった。幸い室内は温かいから風邪は引いてないと思うけど、引いてもクラウスなら治せると思うけど――布団を独占してしまった事は後で謝ろう。
背後で微かに呼吸してるのは感じるけど、私を包むように抱きしめる腕は全く動かない。クラウスは今起きてるのだろうか、寝てるのだろうか?
(……起きてたら、さっきの私の行動に何か言ってくるよね……)
寝てるんならそっとしておこう。私も横になってる分にはまだ頭が回るけど、今すぐ動いて会話しろとか何か食べろと言われてもまだ心がついていかない。
記憶がハッキリあるだけに後ろを振り向けない。お酒を飲んでた訳じゃないから「記憶にない」なんてはぐらかし方もできない。
辛い場所から逃げだせて、緊張が解けた。でももうこの世界で一人でいるのが怖かった。
そしてずっと忘れていた記憶が蘇ってきて、耐えられなくて――誰かに縋りたかった。
(……酷い思考……)
そう思う自分がいるのは事実だけど、実際自分の身に色々起きすぎて、頭は何が起きたか理解してるけど心が全く追いついてないのも事実だった。
それこそ、誰かに縋りたくなる位には追い詰められていた。昨日も――今も。
あの研究所にいた時から考えてみても腹を蹴られ電撃も受けて人が死ぬ所を目撃し、首を絞められ器の中を洗われ口づけされ――と思った所で僅かに吐き気を催して、そこから先を考えるのをやめる。
そこから先も思い返したら吐いてしまいそうだ。
だけど――そんな酷い目に合わされた直後に自分が酷い事を言った記憶が蘇ったのは、ある意味不幸中の幸いだったのかもしれない。
その幸いも不幸の類のものである事には変わりないけれど。
自分のしでかした罪も忘れて、ただ自分の悲しみにだけ泣き明かすような真似をしないで済んだ。
これまで自分は善人気取るつもりはないけど、後ろめたい事もない至極真っ当な人間だと思っていたのに――実際は自分が悪者になった事実を受け入れる事が出来なくて記憶を闇に閉ざした酷い人間だった。
お父さんが死んだ記憶、自分が叫んだ記憶、お母さんが叫んだ記憶――思い返せば返すほど、心がズシリと重くなっていく。
手放したくなる位に重く冷たくドロドロとしているそれは、当時は口から吐き出す事が出来なかった。お母さんがいたから。
取り乱す事も泣き叫ぶ事も、向こうの人達に謝る事もできなかった。お母さんがいたから。
抱える事も出来ず、誰に懺悔する事も出来ず――そんな状況に置かれた私の脳はお母さんが言う通り、忘れるしかないと判断したんだろう。
そんな12歳の私に向かって私は石を投げつける事は出来ない。
だけど今――20を超えた私が12歳の私と同じ選択をすれば私は石を投げる。
向こうが悪い、だけど、私だって悪い――『子どものした事だから』と許して良いのは被害者だけだ。
悪い事をしでかした子どもだって謝罪こそ出来なくてもちゃんと
そして許されたからと言って罪が消える訳じゃないし、忘れたからと言って罪が無くなる訳でもない。
私は、子どもの頃の私が隠した罪に向き合わなきゃいけない。
記憶を消したくない理由はただ、それだけ。それがなければクラウスに記憶を消してもらって、自分の辛さにだけ涙を流す事が出来たのに。
クラウス――今、私の傍にクラウスがいてくれるのもありがたかった。
この世界の恐ろしさを十二分に思い知らされた後でまた一人ぼっちになるのは怖かったし、何より一人ぼっちの時にこの記憶を思い出していたら、私はこの世界に対する恐怖と自分のしでかした罪に押し潰されて、何処であろうと一人泣き喚いてみっともない姿を晒していたと思う。
クラウスとラインヴァイスが傍にいてくれる温かさと心強さで、この世界に対する恐怖の方は大分和らいでいる。
そして私は悪くないってクラウスが言ってくれた事が嬉しかった。自分自身は到底そう言えないけれど、お母さんも誰も言ってくれなかった言葉――あの時、誰かに言ってほしかった言葉。
私が悪いのなんて分かってる。だけどそれでも誰かに『悪くない』って言ってほしかった。私が口に出せなかったもう一つの気持ちをクラウスに言ってもらえた事で、私の絶望は少しだけ軽くなっている。
12歳の時にはいなかった人がいる。欲しかった言葉も貰った。自分自身の成長と強さだってある。だから――だから、12歳の時とは違う答えを出したい。
(それでも……今はもう少しだけ、休みたい……)
昨日クラウスに抱きしめられた時は正直迷ったけれど、クラウス自身の暖かさと彼から伝わってくる白の魔力が心地よくて、拒めなかった。
今もクラウスとラインヴァイスから感じる温かさと白の魔力に引き込まれるように、再び眠り――アランに襲われた後、首を絞められて殺される夢を見た。
「アスカ……アスカ!?」
魘されていたのかもしれない。クラウスに揺すられて目を覚ました時には全身に嫌な汗をかいていた。
「アスカ、大丈夫……!?」
「大丈夫……ちょっと、嫌な夢を見ただけ……」
一瞬、クラウスに全部話してあの研究所にいた記憶を全部消してもらおうかと思った。
ヒューイの双子だとか、人工ツヴェルフだとか今の私には必要ない情報だし、と思ったけれど――
(ダグラスさん……)
私のせいで器が割れたのに小さなペイシュヴァルツになってまで私の側にいて私を守ってくれていたダグラスさんの記憶まで消したくない。
それにカーティスの研究を誰か頭の良い人に引き継いでもらえたら――誰も犠牲を出さないようなやり方で、その研究を完成させる事が出来たら――ダグラスさんは一応頭の良い人に当てはまる気がする。
私の話を聞いてくれるだろうか? という不安はあるけれど。とにかく、これらの記憶も消してもらうのは駄目だ。
そう結論づけると同時に良い匂いが漂ってきて、ベッドから身を起こす。
テーブルにはサラダにスープにパン、目玉焼きにウインナーといった食事が載っている。恐らく朝食だろう。
「部屋に運んでもらうようにお願いして並べてもらったんだけど……食べられる?」
クラウスの言葉に、小さく頷く。丸一日食事をとってない割に食欲はそんなに無い。だけどせっかく用意された物に手を付けないのも気が引けた。
ゆっくり起き上がろうとすると目眩が起きてフラつく。心配したクラウスに支えられて立ち上がり、席につく。
薄くスライスされた透明な玉ねぎが浮かんだ、オレンジ色に透き通ったスープを少し口につけると、クラウスから改めて昨日の事を謝られた。
私から拒まれるのが怖くてこれまでずっと自分の気持ちを偽っていた事、ラインヴァイスには記憶を読んだり消したりする秘密の力があって、それを使って私の記憶を消そうとした事――
記憶の件について憤りがない訳ではないけれど、責める気にはなれなかった。
自分の罪を暴かれて逆ギレしてるだけのような気がして。クラウスが気持ちを偽った事には私にも責任があったし。
思う感情はあっても上手く伝えられる自信もなく、私の思い通りに受け取ってもらえるとも思えなくて――お互い様だから、と私も謝った。
ただ、「もう勝手に私の記憶を見たり消したりしないでね」とはしっかり伝えた。クラウスは了承すると同時に「勝手な話だけど、これは秘密の力だからこの力の事はこれから先、誰にも言わないで欲しい」と口止めされた。
色神が宿す秘密の力――もしラインヴァイスが記憶を司る力を持ってる事が周囲に知られたら6大公爵家の力の均衡が崩れるのかもしれない。
もうこの世界に関わりたくない私は、その事を誰に言うつもりもなかった。
少しずつ飲んでいたスープを飲みきった所でクラウスに白の騎士団とはどうなったのか問えば「もういいんだ、僕が守りたいのは家じゃなくてアスカだから」と返されて罪悪感が押し寄せる。
クッキー作りを教えてくれたトムさんは、見守ってくれた厨房の人達は今どうしてるんだろう?
エレンも――仕える主が、元婚約者が私を追って行方をくらませている今の現状をどう思っているんだろう?
まだまだ脳が疲れているのかそれ以上の事は考えられず、残った食事は下げてもらった。
その後――食事やトイレ等、必要最低限の行動以外はベッドの上で横になり、少しずつ雪崩の後に何が起きたかをクラウスに話す、そんな日々が3日程続いた。
これからどうするのか、どうしたいのか――それを聞きたいだろうにクラウスは何も言わず、上手く頭が回らずほぼ寝たきりの私にずっと寄り添ってくれた。
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