第89話 白の再生・4(※クラウス視点)


 部屋の窓から差し込む光が少しずつ赤みを強めていく中、温かな部屋の雰囲気に似つかわしくない重苦しい沈黙が漂う。


 身を起こして真っ直ぐに僕を見るアスカの目は今にも泣き出しそうだし、僕の手首を掴む手も震えている。


 何一つ言い訳できない状況。記憶を消そうとした事がバレたのだから、この手を振り払って一秒でも早く消してしまった方が良い――と血の気が引いた頭でも最善の答えが出ているのに手が、動かない。


 アスカの酷い悲しみに満ちた目が、振り払わせてくれない。


「……思い出したの……私、酷い事言って、人、自殺に追い込ん、それで、私、だから」


 文章になってないアスカの震える声は普通の精神状態じゃない事を伺わせる。


(そうだ、今のアスカは封印していた記憶の内容を知ってるんだ……!)


 記憶を消そうとしている事を知られた事にばかり気を取られていたけど、あんな記憶が突然蘇ったら気が動転するのも当然だ。


「落ちついて! アスカは悪くない……!! あんなの、皆言ってた言葉じゃないか!!」

「でも、お母さんが言ってた通り、他人がネットで好き勝手に叩くのと、被害者が加害者に面と向かって言う言葉は重みが違う……!!」


 咄嗟に飛び出た言葉にアスカは尚更困ったように眉間に皺を寄せて反論してくる。何を言ってるのかよく分からない。

 他人の戯言と当事者の罵声が、同じ言葉でも重みが違うのは分かる、分かるけど――


「ネットって何なのかよく分からないけど、何でアスカだけが責められなきゃいけないの!? 刺された側があげた悲鳴で自殺されて、それが刺された側の罪になるのは絶対に間違ってるよ!! 重みの違いはあるかもしれない、でも、アスカの言葉が全てじゃない!!」

「でも、でも……あの人だって、わざとじゃなかったのに!! 私、非道い事言って……!!」

「わざとじゃなかったとしても、自らのミスでアスカのお父さんを殺めたのは間違いない……!!」

「だったら私だって責められて当然じゃない!!」


 一切感情を取り繕わないアスカの剣幕に思わず言葉が詰まる。


「それは……そういう意味じゃ、確かに飛鳥も同じかもしれないけど……!!」

「私、あの時、あの人が本気で死ねばいいと思った!! 私の方がよっぽど……よっぽど……!!」


 重い言葉が零れ落ちる。よっぽど酷い人間だと言いたいのだろうか?

 間違ってる。アスカの世界ではどんな人間も感情を押し殺さないといけないのだろうか? 確かに、あまりに取り乱すのは見苦しいと捉えられるのかもしれないけど――


「確かに……周囲や相手の気持ちを思いやって言わない、という選択の方が賢いのかもしれない。だけど……アスカは賢い選択ができなかっただけだ。大切な親を殺された幼い子が加害者に向かって素直な感情をぶつけてしまうのは、至極当然な行動なんじゃないのかな? 少なくとも僕は、アスカは悪くないと思う」


 努めて冷静を心がけて呟いた後、アスカから言葉が返って来なくなる。それなら、と更に言葉を続ける。


「……ねえ、アスカ……消そうよ? こんな記憶、いらないよ」

「いらなくない!! だって、私、謝らなきゃいけない人がいるって思い出せた……私は後悔しなきゃいけない事を、反省しなきゃいけない事を思い出せた。いらなく、ないのよ……!!」


 またアスカから悲痛な声が吐き出される。こんな重く辛い記憶を背負おうとするアスカが理解できない。僕が消してあげるって言ってるのに。


「こんな辛い記憶残して何になるの!? アスカのお父さんは絶対、アスカがこんな記憶に怯えて生きる事を望んでないよ……!!」

「そうかもしれないけど……確かにお父さんもお母さんも私にこんな記憶忘れてほしいのかもしれないけど! 実際、クラウスがそういう力を持ってるんなら、頼った方が良いのかもしれないけど……!! だけど……私、私の罪をなかった事にしたくない! そうやって、消せるからって喜び勇んで自分の罪を記憶を消すような人間になりたくない……!!」


 知ってしまった物を無かった事には出来ない、自分に恥じない人間でありたい――そんなアスカの正義感の前には『そもそも自分は被害者である』という事実は慰めにもならないのだろう。今も、これからも。


 アスカがそれを言い訳にして自分の罪を消せる人間じゃないのは、これまでのアスカを見てよく知ってる。


 まだ消せる。消してしまえる。アスカがどうこう言おうと全部消してしまえばいい。

 全部消して――僕とラインヴァイスだけの秘密にしておけばいい。


 だけど真っ直ぐに僕を見るアスカの姿が、封印された記憶の中にいたアスカと被る。

 今、アスカにこの表情をさせているのは――あの女でもアスカのお母さんでもない、僕だ。


 俯きもせず、逃げ出しもせず僕の手を掴んで拒否を示す姿に、自分の醜い部分を真っ直ぐ見つめられているようで心が折れるのを感じる。


「……分かった。分かったよ。アスカがそう言うなら、消さないから……」


 震える声でそう紡ぎ出すとそっと手が離れ、布団を胸に抱え込んだアスカは再び横になって背を向ける。


 どうしよう――もう完全に、嫌われてしまった。

 消したい、消せない、消したい、でも、消すなって言われた。


 消せばいいのに、消した方がずっと楽になれるのに――好きな人から消すなって言われた物を消せる程、僕は、強引にはなれない。


 ああ、だから――だからアスカは僕に惹かれてくれないんだ。


「うっ……うう……」


 僕が涙を流すより先に啜り泣く声が聞こえて俯いていた顔をあげると、横になっているアスカの体が震えている。

 縮こまるように体を丸めて必死に何かに耐えているように、必死で噛み殺そうと堪えて震える姿にどうしようもなく胸が締め付けられる。


「アスカ……君がその記憶を手放したくないって言うなら消さない。だけど君が自分を責め続けるなら、僕は傍でアスカは悪くないってずっと言い続けるよ。それにその記憶を思い出したのは僕とラインヴァイスのせいだ。自分を責める前に僕達を責めてよ……何で怒らないの?」


 吐き出した言葉にアスカは振り向いてくれない。そりゃそうだ。


「……2人は自分の罪を思い出させてくれただけよ。それに、何を言って責めろって言うのよ? 人殺しの罪を忘れていられたのに貴方達のせいで、って? 私に何処まで非道い女になれって言うのよ? 馬鹿にしないでよ……!!」

「だから、何で自分ばかり責めるの……!? それにまだ死んだと決まった訳じゃない! ……そうだ地球に戻った後調べてみたらいい! そこでその女が何食わぬ顔で幸せになってたら、アスカも何を気にしなくてもいいし! 自分を責めるのはハッキリさせてからでも遅くないんじゃないかな!?」

「……どうして……? 私、クラウスにも、相当、酷い事、してるのに、地球に帰るのだって、私が、迷わなかったら良かったのに、どうして、そこまで」

「それは……愛して、るから……」


 どうして――そう聞かれて、反射的に想いが溢れる。そうだ、もう、取り繕わないって決めたんだ。


「アスカの傍に……いたいんだ。でも、何をしても上手くいかなくて嫌われるから、だから……自分の都合の悪い記憶を消そうとした……本当に、ごめん」

「クラウス……私、貴方を嫌ってる訳じゃない……ただ、貴方のその想いに……」


 こんな状況でさえ僕の想いを拒絶するアスカの辛辣な言葉が心に刺さる。


 ねぇ、何でアイツは良くて僕は駄目なの? 僕の何が駄目だったの? 言ってよ、直すから。アスカが好む僕になるから、何だってするから。

 アスカ、お願いだから、僕を、見捨てないでよ。僕、アスカに嫌われたくないんだよ。間違った選択をしたら消すしか無いんだよ、だから――



 ――なんて、今のアスカに言えるはずがない。



 それも間違いなく自分の本心だけど、今のアスカにそこまで言えない。

 死にかけてボロボロの状態で、その上こんな記憶を無理矢理呼び起こされた絶望の中で尚、僕達を責めようとしないアスカに我儘を押し付ける事なんてできない。


(僕達は似た者同士だと思ってたけど……大違いだ)


 魔物狩りの時もそうだった。アスカは僕の弱さを責めずに受け入れてくれる。だから、惹かれた。


(僕は……そんなアスカに甘えてたんだ)


 僕とよく似ていて、でも、全く違う強さを持っているアスカに。


 ここでアスカの記憶を強引に消してしまえば、そういうアスカに受け入れてもらえるかもしれない。だけど――


 静かにベッドに腰掛けて、続く言葉を紡げないアスカの髪に軽く触れる。明るい茶色の髪からアスカの本来の髪の色に戻す。

 黒が混ざった暗い茶髪――嫌な色だけどこれがアスカの色だから、こっちの方がいい。


 僕は、明るくて、真っ直ぐで、強くて、弱くて、ちょっと狡かったり変な発想をするアスカが好きなんだ。

 怒らせたくない、それ以上に悲しませたくない。だから――


「……分かってるよ。僕の気持ちに応えてもらえない事は。でも、アスカ……一人で抱え込まないでよ。僕のせいでアスカが苦しんでるのに見てるだけなのは辛いよ。僕がアスカが抑え込んでた記憶の封印を解いたんだから、一緒に背負わせてよ? 背負わせてくれないなら、せめてアスカが押し潰されないように傍で見守らせてよ?」

 

 吐き出したい言葉をグッと堪えて、ハッキリと拒絶の言葉が紡ぎ出される前に言葉を重ねた後ベッドに腰掛けてアスカの肩に触れる。

 こちらを向かずに涙を流し続けるアスカの真っ赤な瞳に、言わなくて良い言葉が零れ落ちる。


「……僕を利用するとか僕の好意とか気にしなくていいから。だから、一人で背負い込まないで」

「……う、う……」


 アスカの嗚咽が辛い。だけど、それを一番傍で聞けて良かった。他の誰にも見せたくない。

 自分の想いを伝える言葉を封じた代わりに零れ出るのは、アスカにかけたい言葉。


「怪我をしたり疲れたりした時は僕の魔法で癒やしてあげられるし、もう二度と変な奴らに酷い目に合わされないように守る……よっぽど強い相手じゃなければ僕にだってアスカを守れる……! 辛くて押し潰されそうな時にはいつだって話し相手になるし、傍にいてあげる。ラインヴァイスは生意気だけどフカフカで空だって飛べるし、僕も絶対に役に立つから、だから……」


 だから傍にいさせて――という言葉までは負担になる気がして言えなくて、僕の声も震える。

 嫌われてしまった今、僕のこんな言葉は迷惑かもしれない。信用もしてもらえないかもしれない。


 アスカから何も返ってこない。涙声も消えて、また余計な事を言って怒らせてしまったのかな?



(ああ、僕は本当に……選択肢を間違える)



 これ以上何を言っても、怒らせてしまう、苦しめてしまうだけかもしれない。

 どうしようもない自分に呆れながら肩に置いた手を離すと、また手を掴まれた。


「……だけ……いい?」

「……え?」


 アスカの消え入りそうな声が聞き取れなくて少し頭に顔を近づけると、アスカは鼻を小さくすすった後に微かに口を動かし始めた。


「……今だけ……傍にいてもらって、いい……? 記憶も、だけど、これまで、色々ありすぎて、ごめん、今だけ、今だけでいいから、傍にいてほしいの、誰かにいてほしいの、ごめん……!!」


 今だけじゃなくていいのに、謝らなくていいのに――ずっと、これから先もアスカが望むならいつだって傍にいてあげるのに――そう言ったらまた困らせてしまう気がする。それに今は僕の感情なんて、どうだっていい。


 大事なのはアスカが今、僕が傍にいる事を許してくれた事だ。『誰か』の中に僕がいる事が許されている事だ。


 アスカの涙と声につられて、僕の涙もこみ上げてくる。それが何の感情で溢れ出てくるものなのかよく分からない。だけどそこに喜びの感情が混ざっているのは確かだ。


 こちらを見ないアスカの背後から優しく抱きしめる。辛い感情から、記憶から少しでも守れるよう全身を包むように。


 拒まれないだけで嬉しい。こうやって僕の腕の中で泣いてくれるだけで嬉しい。


 でも、あいつが連れ戻しに来たら、またアスカはあいつの方に飛び立ってしまうかも知れない。

 また良い人ぶって、また逃げられてしまう位なら、このまま――と思う自分もいる、けど。


(だけど……今のアスカに僕の気持ちを押し付けたくない)


 アスカが誰を想っていても良い。傍にいたい。安心されたい。癒やしてあげたい。僕がいる事で少しでもアスカの助けになれるなら、もう、何だっていい。


 アスカが自分の罪に気づいたのは僕のせいだ。そしてアスカはその罪を手放さない事を選んだ。だったら僕はその罪に潰されてしまわないように傍で見守りたいし、支えたい。

 それが許されるならもう――アスカにとって都合のいい存在でいい。


 この人を――この愛しい人を守れるなら、力になれるなら。


 いらないって面と向かって言われる日が来るまで、ずっと、傍にいたい。


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