第86話 白の再生・1(※クラウス視点)


 お腹も空かない、眠くもならない――息苦しいのに溺れ死ぬ事も許されない不思議な空間で考える事を放棄したのは、閉じ込められてどの位経ってからだろうか――そしてそこからどの位の時間が経ったのか分からない状況で、ラインヴァイスが囁いてきた。


『何か言え。我、不安になる』


 お前の不安なんか知ったこっちゃないよ。


 その声に対して耳を塞ぐ仕草をすると、再びラインヴァイスが沈黙する。


 何も考えたくない。少しでも何かを考えればまた自分を追い詰めて、この何も出来ない状況を嘆いて自分の心を壊していく――結局今はただ何も考えずにこの息苦しい空間に耐えるしかない。


 ゆらゆら、ゆらゆら、ひたすら息苦しい不思議な海の世界を漂う中、またしばらく時が流れて――ラインヴァイスの声が頭の中に響く。


『……クラウス、チャンス来たかも知れない』


 その言葉に思わず目が見開く。


『今、近くに黄金の悍馬ゲルプゴルト真紅の巨竜カーディナルロートいる。多分紺碧の大蛇アズーブラウの神気に当てられて困ってる。アズーブラウとゲルプゴルト、仲悪い。宿主も仲悪い。誰かの機嫌悪い時、喧嘩に発展する事多い。今、皆機嫌悪い。絶対喧嘩する! 絶好のチャンス!』

『喧嘩って……皆いい年した公爵だよ? そう都合良く喧嘩なんかしないよ……』


 いくら魔力の色が相反しているといえ、40代か50代の中年男性――しかも貴族の頂点に降臨して数十年も経っている人達が大人げなく喧嘩する姿が想像できず呆れたように返すと、うるさいと言わんばかりに「キイッ!」と鳴き声が響く。


『お前六会合出た事ないから知らないだけ! 公爵皆大人げない! 出る準備、する! 黒の魔力使う準備、する!』

『黒の魔力? どうして……』

『アズーブラウ、青の公爵、どっちもまだお前の中の黒の魔力気づいてない。この空間、アズーブラウに繋がってる。喧嘩になった時、戦闘に集中してるアズーブラウ驚かせて吐き出させる! 我、この4日間どうやったら出られるかずっと考えた。絶好のチャンス!』


 4日――いつの間にか意識を失っていた時間も何度かあった気がするけれど、もう、そんなに経ってしまっているのか――


 恐らく今、ラインヴァイスは目を輝かせてドヤ顔しているんだろう。そんな色神に相反するように僕の心がズシリと重くなったのを感じる。


 今、アスカは生きてるんだろうか? 生きていたとしてもきっと僕はアスカに見捨てられてる。

 あんな醜態を晒した挙げ句、雪崩から助けてあげられなかった僕に失望してるに違いない。


(……ああ、そうだ、早く消しに行かないと。早く、アスカの記憶、消しに行かないと……)


 何処から、何処まで? 何だっていい、僕にとって都合が悪い記憶は全部消してしまおう。重くなった心と不安にどんどん焦燥心を掻き立てられる。


『……分かった』


 僕の中の黒の魔力で使えるレベルの魔法なんて、たかが知れてるけど――だからこそ、今まであいつ以外の他の公爵達には気付かれずにいられた。


 本当に喧嘩――戦闘が始まるなら、驚かせる事は出来るだろう、本当に戦闘が始まるならな――と思った後、空間が不自然に蠢く。まさか――


『始まった』


 この国の公爵達は皆どうかしていると思いつつこのチャンスを逃す手はなく、体の内の魔力を呼び起こす。

 体に悪寒が走り目眩が生じる。だけど僕の右手には確かに――痺れとともに禍々しい黒の魔力が集まっていく。


 青の色神を驚かせるなら、使うのは黄属性の魔法――雷。

 場所を定められずに放った雷は周囲に稲光を一瞬生じさせるに終わった。


(駄目、か……)


 と、思った瞬間――水の中に流れが生まれる。吸い込まれるように一点、白く光り輝く方へと引き寄せられていく。

 その中でラインヴァイスが僕の直ぐ側に現れ、白の魔力で彼の背に縛り付けられた。


『出た瞬間、一気に飛ぶ! 我、頑張る!!』


 力強いラインヴァイスの念話が心に響く。


 醜い鳥だと馬鹿にして、ずっと拒否して――ずっと酷い事をしていたのに。

 絶対これまで宿ってきた中で一番最悪な宿主だろうに。それでもラインヴァイスは僕を見捨てない。


 僕がラインヴァイスにしてきた10年以上の冷遇に比べれば――僕はアスカから一度怒られただけじゃないか。


 今こうして僕がラインヴァイスに感謝してるんだから、アスカだっていつか、僕に感謝してくれる日が来るかもしれない。


 本当に、アスカの記憶を消す必要はあるんだろうか――


(って……そうやって躊躇ちゅうちょした結果が今じゃないか……!)


 自分の中の、善意や優しさが作り出す甘い思考を否定する。想いを伝えるのも記憶を消す判断も遅れたからこうなってしまったんだ。


 もう、やめよう。そうやって良い人ぶって接しようとした結果、上手くいかなかったんだから。

 良い人ぶったり見栄を張ってたらアスカが手に入らない。それならもう自分自身でぶつかっていくしかない。


 多くの人の前で恥を晒したあいつみたいにはなれないけど――アスカの前で恥をかく事を恐れていたら、きっと何も伝わらない。


 伝えた結果が間違いだったら消してなかった事にすればいい。

 複雑に絡まってしまった絆を消して新たに引き直す――それが一番確実で、お互いにとって最善なんだ。


 ただそれは生きているからこそできる事で、死んでいたらどうしようという不安も心に纏わり付く。だけど今はアスカが死んでない可能性に賭けて動くしかない。



 青の空間に生じた強い光を越えると一気に色鮮やかな世界が見えた。同時に自分の器の中が激しく掻き回されるような気持ち悪さを覚える。


 それでも広がった視界は荒れた土地と一瞬驚いた様子の黄の公爵と黄金の馬を映し、その後夜空へと目まぐるしく変わり――ラインヴァイスは全力で夜空を駆けていく。


『このままロットワイラーまで飛ぶ。雪崩起きた方向飛んで、白と黒の魔力探知……』


 ぼんやりとした思考は、ラインヴァイスの念話を上手く聞き取れない。


(アスカ、どうか……どうか生きていて。生きてさえいてくれれば僕の力でなんとでもしてあげるから)


 ただひたすらそれだけを思ってるうちに意識が途絶え――青の空間の中で狂った体内時計を合わせようとしたのか、再び目を覚ました時には空はもう明るくなっていた。



 ルドニーク山を越えて、雪崩を越えて――薄暗い空が、心と繋がっているようで良い気がしない。


「アスカが何処にいるか分かるの?」


 雪崩の場所も越えて真っ直ぐ飛ぶラインヴァイスに疑問を感じて問いかけると、


『分からない。けどこっちの方向に微かな黒を感じる。恐らくペイシュヴァルツの欠片。多分。恐らく。もしかしたら』


 非常に曖昧な言葉に不安を感じつつ、少し離れた場所に赤が追いかけてくる気配を感じては引き返す事も出来ない。


 休戦協定も戦争も関係ない――なるようになれ、と半ば投げやりに真正面を見ていると宙に何かが浮かんでいるのが見えた。


 それが女性だと分かり、そしてアスカだと分かった直後――アスカが複数の矢に撃たれて落ちた。


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