第211話 白の狂気・6(※クラウス視点)


 開け放たれたガラスの扉を通して青白い月の光がそのままアスカの横顔を淡く照らしている。


「アスカ……?」


 無意識に漏れた言葉が溶けて消える。せめてアスカがこちら側を――ダグラスに無理やり抱きしめられているような構図だったらまだ、冷静を保てたのかも知れない。


 だけどアスカがダグラスの抱擁を受け入れているかのように向かい合って眠るその姿に、冷静なんて保っていられるはずがなくて。


 優しく揺り起こす事も出来ずに強引にアスカを浮かび上がらせると一糸まとわぬアスカが浮かび上がり、心が絶望に埋め尽くされる。


「アスカ……!!」


 もう黒の魔力がどうだの黒い服がどうだの、それどころの話じゃない。

 アスカが、ダグラスに抱かれた、アスカの中に、ダグラスが入って、アスカを、穢し――


 嫌だ――嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ……!!


「んん……何……?」


 頭が真っ白になる中、アスカの声で現実に引き戻される。ダグラスの抗魔力に守られて強制睡眠スリープのかかりが浅かったのだろうか?


「クラウス……?」


 浮かび上がったアスカは起きたばかりの目ぼけ眼で僕を見つめている。


「あ、アスカ……迎えに、来たよ?」


 この状況に絶望しながらも必死に穏やかな声を出すように心がける。

 今僕の胸に渦巻く負の感情をぶちまけてしまったらアスカを傷付けてしまう。

 何とか負の感情を抑えて言い終えたと同時にアスカの眼が見開く。


「クラウス……! 私、地球には帰らないって……!!」

「だから、アスカは洗脳されてるんだよ……その証拠に、思考どころか、体まで穢されて……ごめん、早く助けに来てあげられなくて……」


 驚いたように僕を見つめて、僕に対して声を紡ぐ――ただそれだけで愛おしさがこみ上げてくる。

 その眼も、口も、髪も、体も全てダグラスに穢されたと知っても、君がこんなにも愛しい。

 君のその顔を、笑顔にしたい。また明るく笑って欲しい。


 そうだ、愛しいんだ。君がこの先どんなに穢れようときっと僕のこの想いは変わらない。


 だって、この状況ですら、君を手に入れたいと願う気持ちが微塵も失せない。


「大丈夫だよ……僕は、この程度の事でアスカを嫌ったりしない……もう、アスカの全てを受け入れるって決めたから……」

「クラウス、落ち着いて! 私は……!」


 僕が言葉を続けるとアスカは我に返ったように表情を取り戻して、困ったように声を荒げる。


「ああ……痛かったよね? 辛かったよね? 苦しかったよね?……こっちにおいで? すぐに癒やしてあげる……綺麗にしてあげるから」


 今はとにかくアスカの保護を優先しようとこちら側に引き寄せようとすると、黒の防御壁で阻害される。


 阻害したのは――アスカだ。

 ボスン、と再びベッドに落ちたアスカは後退してダグラスを守るように防御壁を張り直した。


「クラウス、ちゃんと話を聞いて!! 私、本当に洗脳なんかされてない……! ダグラスさんは貴方が思ってるような人じゃない……!」


 アスカの意思で、アスカの中にある黒の魔力で、ダグラスを守り、ダグラスを庇う。


 ――重症だ。早く2人を引き離さないと。


「困ったな……アスカを傷付けたくないんだけど、そのままだと風邪引いちゃうし……」

「え、あ……待っ、ちょっと待って……!!」


 その言葉でようやく自分が今どういう状況なのか気づいたアスカはすぐに身を丸めて片手だけ伸ばし周囲を探しだす。


 それが黒いバスローブだと認識した瞬間、僕の中でまた何かが千切れる。


「そんな物に触らないで。服なら僕のコートを貸してあげるから」


 障壁消去の魔法アンティウォールでアスカの防御壁を消滅させると、強引にアスカの手を掴む。


「つっ……!!」


 包帯の上から感じる皮膚の違和感が、相当な怪我を負っている事を知らせてくれる。


「ああ、また、こんな酷い怪我して……! こんな状態で何でまだここにいたいと思えるの!? おかしいよ……洗脳されてるとしか思えない……!!」

「これは自業自得で……! 痛い、やめて……!!」


 ダグラスを庇おうとするアスカの言葉が僕の心を残酷に突き刺す。


「もういいよ……話は後で聞くから。今はとにかくここを離れよう?」


 怪我は後で治療すればいい。強引に胸に引き寄せるとアスカは必死で抵抗する。


「ちょっ……やだっ!! たすっ……ダグラスさん、助けて……! ダグラスさん!!」


 今も痛みが走るだろう手と足を使って僕を全力で拒むその姿が、その叫びが何より僕を傷つける。


 心が、壊れそうだ。

 

「やめてよ……そいつに……僕以外の男に助けを求めないで……! アスカを助けるのは僕だ……アスカが助けを求めるのは、僕だけでいいんだ!!」


 そう叫んでもアスカはダグラスの名前を叫び続ける。アスカがダグラスの名を呼ぶ度に僕の心が抉られて、悲鳴をあげる。


 ああ、もう――耐えられない。


 仕方なくアスカに直接強制睡眠スリープをかけると、アスカはグッタリとベッドに倒れ込んだ。


 僕だってアスカの裸を誰にも晒したくない。アスカに僕が着ていた白い薄手のコートを着せて抱きかかえバルコニーを見ると、ラインヴァイスが勝利のアピールと言わんばかりに大きな片翼を広げていた。


 いつからそこにいたのだろう? 一部始終を見ていたのかも知れない。

 だけどラインヴァイスは何も言ってこない。空気を読む事は出来るようだ。


 部屋を出る前にもう一度ベッドを見下ろす。完全に眠りについてしまっているダグラスはピクリともしない。


 すぐ横でアスカがさらわれようとしているのに――必死に助けを求められていたのに目を覚ます事すら出来ないなんてね。今だけは心からお前に同情するよ。


 その同情も、哀れみも、お前にとって何より耐え難い屈辱になるだろうから。



 アスカを抱えてラインヴァイスに乗り、セレンディバイト邸を後にする。

 ペイシュヴァルツがセレンディバイト邸の庭で倒れているのが見えた。あの時と同じで眠らせただけだろうけど。


(後は一度館に戻ってアスカの体を洗って服も着せて、塔に行く準備を……)

 

 青白い星の光とラインヴァイスの光に包まれて再び空を駆ける中、突然、頬に一筋の涙が流れる。その跡を伝うようにどんどん涙が溢れ落ちていく。


 ああ、どうして、どうしてもっと早くアスカを助けられなかったんだろう? 

 

 本当に、僕がアスカの意識がない内に深く口付けておけば良かった。

 少し前に後悔した時より何倍もの膨れ上がった後悔が再び僕を追い詰める。


 僕が助けられなかったから、アスカが穢れてしまった。


 ラインヴァイスは教えてくれたのに。つまらない倫理観に邪魔されてアスカに辛い思いをさせてしまった。


 あいつとアスカに明確な体の繋がりが出来てしまった事が悔しい。

 アスカがあいつを庇った事が腹立たしい。アスカの、僕以外の男を想う姿が呪わしい。


 どうして。僕とアイツの何が違う? 何が違った?


 僕はアスカに尽くしてきたのに。アスカの為に色々やってきたのに。アスカの願いを叶える為に、頑張ってきたのに。


 何でアイツがアスカを抱けるんだ? アスカの気を引けるんだ?

 

 これだけ頑張っても僕は――好意すら受け取ってもらえないのに。

 おかしい、おかしいよ。僕だってアスカに愛されたいのに。


 あいつみたいにアスカを追い詰めれば、アスカの気を引けるの?

 あいつみたいにアスカを困らせれば、アスカに構ってもらえるの?


 あいつみたいに取引すれば、あいつみたいに誰かを犠牲にすれば、あいつみたいに、強引に抱けば――


 (駄目だ、駄目だ、こんな事考えちゃ駄目だ……!!)


「う……」


 アスカが声を上げる。さっきから魔法の効きが悪いのは何でだろう?

 流石にこの上空で暴れる事はしないだろうと様子を伺っているとアスカの目の焦点が合ってないことに気づく。様子がおかしいと思うと同時に、


「ああああああああああっ!!!」

 絶叫に合わせるようにアスカの中にある黒の魔力が吹き上がった。


(これは……マナアレルギー!?)


 再び強制睡眠スリープをかけようとしたけれど、アスカが自らの左手を噛もうとしたから陣術を中断して慌ててアスカの左手を引き寄せる。


 噛む物を失ったアスカは僕の首元に思い切り噛み付いてきた。


「ぐうっ……!!」


 噛み付かれた皮膚が衣服ごと引き千切られんばかりの激痛が走る。


「アスカ、ちょっ……!!」


 今のアスカの狂乱がマナアレルギーによるものなのは想像に難くない。

 今緩和するには、白の魔力を注ぐしか、だけど今の状態でキスなんてしようものなら唇を噛みちぎられる。


 本当に――何から何まで、僕は判断が遅い。

 とにかく今は抱きしめて白の魔力を注ぐしかない。


 そうだ。今は痛くて魔法なんて使えない。抱きしめるしか、ない。


 痛い、痛い、痛い――これは絶対、痕になる。皮膚を引き千切られようものなら、きっとものすごい痕になる。

 血が吹き出せば、それは少なからずアスカの中に入っていく。


(……ああ、神様、僕の願いを叶えてくれてありがとう)


 アスカが僕にくれる、確かな傷。

 これで僕も同じ位アスカを傷つける事が許される。

 この傷が深ければ深い程、僕も、アスカに酷い事が出来る。


 でも僕はあいつみたいになりたくない。

 アスカを困らせたくない、追い詰めたくない。


 だから――ラインヴァイスの力を借りよう。父様と同じ様に、不幸なアスカを助けてあげるんだ。


 ねぇ、アスカ――君は自分が洗脳されている事を否定したね。

 もう君のあいつに対する想いが紛い物だろうと本物だろうとどうでもいいよ。

 その想いを構成する記憶を消してしまえば良いんだから。



 だけど――涙が止まらないんだ。どうしてだろう?


 君が穢れたから? 違うよ。君が穢れた程度じゃもう僕の君への想いは止められないんだ。

 きっと君が誰と契ろうが、誰の子を孕もうが、誰の子を産もうが、この想いは失せない。


 痛いから? それも違う。だって僕はもう君の全てを受け入れるって決めたんだ。君も、君がくれるこの痛みも。


 とめどなく流れ出る涙がアスカの髪を濡らしていく。


 僕は、君の為なら他人と協力する事を厭わない。君が望むなら何もかも捨てられる。君がそんな風に僕を変えてくれたんだ。


 そうだ。僕は僕を変えてくれた君と離れるのが寂しいんだ。

 好きだから。愛しているから。失いたくないから。


 ああ、こればかりは僕も譲れないみたいだ。君の傍にいたい。

 誰にも邪魔されずに君と2人で静かに幸せに暮らしていきたい。

 僕も君と一緒に地球に行けば、それが叶うかな?

 

 大丈夫だよ。君は僕を無理に愛さなくていい。僕が君を愛したいだけだから。

 愛してくれたら嬉しいけど。でも、君からの愛がなくても君は十分僕を幸せにしてくれるから。


 だから僕も君を幸せにしてあげる。僕が君の願いを叶えてあげる。


 君が怪我をしたら僕が癒やしてあげる。君が汚れたら僕が綺麗にしてあげる。


 そう、君の穢された心も、体も全部――僕が綺麗にしてあげるから。


 だから、ねぇ、アスカ――


 もう二度と、僕の傍から離れたりなんかしないで。



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