第1部・7章

第212話 大事な事を忘れた女・1


 温かく穏やかな感覚に包まれた中、目を覚ますと視界に広がるのは真っ白な天井と……真っ白い毛玉。


(……毛玉?)


 私の顔のすぐ横に真っ白で大きくてフカフカモフモフな毛玉がある。

 ついその毛玉に手を伸ばすと、フカっと柔らかく滑らかな手触りがとても気持ち良い。


「気持ちいい……」


 触り心地の良いフリース生地よりもずっと滑らかな手触りにうっとりと呟く。


「おはよう、アスカ」


 すぐ近くから聞き覚えのある声が毛玉と逆方向から響く。

 振り返ると肘をついてこちらを見据えて微笑むクラウスがいた。コートを着ていない薄灰のタートルネック姿はまたちょっと印象が違う。


 その微笑みはキャアキャアと黄色い声をあげて失神する女性が続出しても不思議じゃない位美しく、神々しさすら感じるもの、だけど――


(……何で?)


 頭の中の疑問符がでか過ぎてその芸術を堪能する事が出来ない。反射的にクラウスに背を向けて状況を確認する。


 純白の部屋、純白のベッド、横に純白の毛玉(触り心地最高)、後ろにクラウス。 

 そして着ているのは白のネグリジェ――首元から下着を確認すると白い下着を身に着けている。


(どういう事……?)


 状況は把握したけど理解が出来ない。

 とりあえず今、両手を動かす事に何の痛みも生じない上に傷一つ残ってないのはクラウスが治してくれたからだろう。

 だけど――この不可思議な状況に疑問符がさらに大きくなっていく。


(えーっと……私、確かアンナの懐妊パーティーに行って、そこで優里とソフィアに会って帰りたいって言って、帰ろうとしてダグラスさんに見つかって後ろから抱き締められて……)


 駄目だ、そこから思い出せない。思い出そうとすると光景が白一色に染まってしまう。ホワイトアウトという言葉が浮かんで消えた。


 それでもまだここがセレンディバイト邸で、ダグラスさんの部屋とか自分の部屋とか漆黒の部屋とかで、隣に寝てるのがダグラスさん……とかだったらこれだけの情報でも理解できる。


 逃げようとした所を捕まえられてついに強制ベッドインしちゃったんだろうなって。

 もちろんそれも大問題だけど、そういう展開ならまだ<理解>は出来る。


「アスカ……どうしたの?」


 後ろから囁かれるクラウスの酷く優しい声が怖い。


 どうしたもこうしたも……この状況がどうした? と問い返したい。

 けど、もう少し心の準備が必要だ。手触りの良い毛玉を撫でて脈打つ胸の鼓動を落ち着かせながら考える。


(……って、そもそもこのモフモフ自体何なの?)


 まず確実に分かる事から把握していこう。チラ、とモフモフの全体図を確認すると、大きな鳥のようだ。

 上の方に視線をあげると、薄灰の瞳がジッとこっちを見ている気がする。色は違うけどその今いち微妙な目つきは――


「ラインヴァイス?」

「キィッ!」


 私の問いかけに元気な鳴き声をあげる。鳴き声は変わっているけれど、このノリは間違いなくラインヴァイスだ。

 真っ白で綺麗で触り心地に最高の毛並み。このボリューム。知らない間に見事な成長を遂げてる。

 成長速度が明らかにおかしいと思うけどここ異世界だし、色神だし普通の鳥とは違うんだろう。それより――


「ねぇ、ラインヴァイス……この状況どういう事?」

「キィ……」


 私の問いかけにラインヴァイスは目を細めて落ち込んだような声を出す。


「私、ダグラスさんと致しちゃったの?」

「キィ……」


 肝心の問いかけに更に目を細めてまた落ち込んだような声を出す。


 ラインヴァイスは人語を理解する。そのラインヴァイスが私の問いかけにテンション低い声を返すという事は、つまり……そういう事なんだろう。


 ラインヴァイスを撫でている内に自分の腕も足も何故かツルツルのスベスベな事に気づく。

 懐妊パーティーの時には長袖でロングスカートのシンプルなドレスだったからムダ毛処理はしなかった。これは、もう……間違いない、のだろうか?


「アスカ……僕を無視しないでくれる?」


 落ち込む間もなく真後ろから少し不機嫌な声が放たれる。


「ご、ごめん……状況が、理解できなくて……」


 何だか後ろを振り返るのが、クラウスの方を向くのが怖い。

 素直に記憶がありません、って言ってしまって良いんだろうか――?


 明らかにこの一線越えててもおかしくない、というか一線越えてない事の方がおかしいシチュエーションでそれはあまりにも失礼じゃないだろうか?


(でも、思い出せないのは事実だし……嘘を付いたりこのままスルーしてクラウスの機嫌を損ねるよりは正直に言った方がいいわよね……)


 恐る恐るクラウスに向き直して、でも直視はできなくて少し俯く形で言葉を紡ぎ出す。


「あの……私、懐妊パーティーの途中から記憶が無くて……ダグラスさんに捕まってから、何がどうなってこうなってるのか全く分からなくて……」


「……そう、やっぱり」

「やっぱり……!?」


 表情を変えずに分かっていたかのように呟かれて、思わずクラウスを直視してしまう。


「ああいう状況だと覚えてないのも無理ないよ。順を追って説明していくね」


 そう言って少し表情を陰らせながらクラウスは説明してくれた。


 ダグラスさんに捕まった私はそのまま連れ帰られてしまった事。

 クラウスがそれをパーティーから帰ってきたリチャードから聞いてラインヴァイスに乗って助けに来てくれた事――


「それで、僕がアスカの部屋に入ったら……アスカとダグラスが同じベッドの上で眠ってたんだ。全裸で」


 全裸でその状態で致してないはずがない――さよなら、私の初体験。


 まだギリギリ全裸になったタイミングで助けられたのかも――という望みすら潰えさせる言葉をクラウスに告げられ、実際には泣かないけど心のなかで一筋の涙が流れ、無意識に両手を強く握りしめる。


(強引に、無理矢理された記憶があるよりずっとマシなんだろうけど……)


 いつかはあり得るかも知れない事、と覚悟決めていたとは言えやはり極力避けたかった初体験。だけどその記憶が何ら一切無いと全く実感がわかない。

 ねえ、私、次に誰かとそういう状況になった時にどういうスタンスでいればいいの? 分からない。


「セックスはハグやキスとは比べ物にならない位の量の魔力を大量に注ぐ行為だからね……僕が助けた後、ダグラスから離れて黒の魔力の安定を失ったアスカはマナアレルギーを起こしてしまったんだ。直前の記憶が吹っ飛んでも仕方ないよ」


 私が今考えている事も知らずにクラウスが優しく励ましてくれる。


 マナアレルギー――意識混濁とか精神崩壊とかのリスクを孕むなら記憶を喪失するのも考えられない話じゃない。

 だけどそれなら何で私は今こんなに心が楽な感じでいられてるんだろう?


 ダグラスさんに安定してもらっている時でも感じていた陰鬱な感覚が、今は全くない。


 自分の胸に手を当てて、目を閉じて魔力を確認してみる。


(……自分の中が、黒の魔力で満たされているのを感じる。でも……白の魔力にも満たされてる……?)


 自分の中に少し間を置いて並ぶ白と黒の魔力。大きさは殆ど同じ――のように感じる。


「とりあえず服と下着はこの部屋にあった物を僕が着せたけど……」


 下着のお下がりは抵抗あるけどノーパンノーブラで過ごす方が抵抗ある。洗浄されてるだろうし潔く諦めよう……って、


(待って……今考えなきゃいけない所はそこじゃない……!)


 この状況に、クラウスの今の発言。全裸って事は……服を着せたって事は……白の魔力に満ちてるって事は……


 そのままクラウスと向かい合って話し続ける事が恐ろしくなってきて、ゆっくり上半身を起こしてクラウスの方を見下ろす。


「クラウス……貴方、もしかして……」

「何?」


 ダグラスさんと致したのは確定だとして、クラウスは……?

 確認したいけど、また勘違い、って言われるのも怖い。


(どうしよう……聞いてまた勘違いだったら私に新たな黒歴史が刻まれる……いや、でも、この状況、5人に3人は致したかどうか確認するでしょ……でも、聞いて『そうだよ』って言われたらどっちに転んでも地獄……聞くという行為にメリットが何一つ無い)


 聞かないでいるモヤモヤに対し、聞く事によるスッキリ感にデメリットを足して秤にかけて出した結論は――


「何でもない」


 世の中、確かめなくていい事もある。本人が言うことわざでもないけど知らぬが仏って言うしね。

 それに致したなら致したってクラウスから言ってくるでしょ。それを言わないって事は、つまり、致してないって事でいいんじゃないかな?


「そう? それならアスカ、君に言っておかなきゃいけない事があるんだけど……」


 ああ、聞きたくない、知りたくない。

 お願い。お願いだからどうかこのまま、何も知らない馬鹿でいさせて。


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