第173話 揺れる心・1


 朝――激しいノック音に起こされる。

 身を起こして1回だけ欠伸をしてからドアを開くと、新聞を片手に真剣な表情のセリアが入ってきた。


「アスカ様、大変です! 昨夜メアリー様が何者かに襲われて重体だそうです……!!」

「あ、それは……」


 それダグラスさんの仕業、と言おうとしたけど言ってしまったらダグラスさんはどうなるんだろう?


 皇家仕えの伯爵を生きるか死ぬかの状況に追いやった事が皇家に知られたら――今の険悪な状況も相まって物凄く厄介な状況になってくるかも知れない。


「それは、大変だわ……新聞に詳しく書いてあるの?」

「え、あ、はい……どうぞ」


 状況が分かってるせいか過度に驚く演技も出来ず、頭が痛い感じを装いながら新聞を受け取る。

 これ以上予測できない状況に追い込まれたくない。


 新聞にはメアリーが昨夜皇城の自分にあてがわれた部屋で何者かに斬られ意識不明の重体である事、今現在皇城の治癒師が治療にあたっている旨が記載されていた。

 昨夜に起きた事件という事もあってかそれ以上の情報はない。


(クラウスはすぐに行くと言ってくれたけど、大丈夫かしら……)


 できれば今からでも皇城に行ってメアリーの様子を見に行きたい。

 だけど今もし皇城でクラウスに会ったらどういう展開になるか分からない。

 クラウスはどういう意味で『助けに行く』と言ったんだろう?


 傷を癒やしてくれるだけならとてもありがたいんだけど、私の酷い姿を見て『この館から助け出す』という意味だったとしたら――


(今は……ダグラスさんを刺激する行動を取らない方が良い……)


 昨日はダグラスさんが最も体調が悪くなる深夜のギリギリの時間だったからこそあそこまで優位に立つ事が出来たのだ。


 仮にクラウスに助け出されたとしてもクラウスが寝ている時に連れ戻しに来られたらひとたまりもない。

 ペンダントを手に入れまだ転送の日まで日数もある今、この屋敷から脱出した所でメリットはない。


 そもそもこの傷だってダグラスさんがやってる事が気に入らなくて私が首を突っ込んだ結果なだけで、私がダグラスさんに直接傷つけられた訳でもないのだ。それに――


――行かないで、ください――


 あの人に必死な顔でそう言われて、大きく心が揺らいだ。


 この世界に残る――それは、この館で過ごす内に何度か頭を掠めた事はある。だけど昨日は掠めるだけに留まらなかった。


――私の行動を制限するのなら、どうか、私の傍を離れないでください――


 行動制限とか余計な言葉はいらない。傍から離れないでくださいだけ言われたかった。


――私が人の道から外れるのが嫌だと、言うなら……貴方がずっと、傍にいて私を止めてください……!――


 何で最後に脅しをかけてくるのか理解できない。しかも言葉の後に魔法陣――多分眠らされるか動きを止められるかの魔法だったんだろうけど――あれは最悪。もうちょっとこちらの反応を待ってほしかった。


 脅されて魔法陣出されて防いで怒鳴って飛び出してしまったけど。

 散々彼のプライドやこだわりを貶している私を尚引き止めようとしてくれた事が嬉しくなかった訳ではないのだ。


(……重症だわ)


 彼に影響されてしまったのだろうか? 自分の歪んだ慕情と心境に、ため息をつく。

 あの時は『傍にいてくれないなら人の道を踏み外す』という酷い脅しに大半の感情が向いてしまったけど、切実に自分を求められ、引き止められた想いには酷く心を揺さぶられる。


 あそこまで強く自分を求めてくれる人に、自分の思いや考えを理解してもらえたら。変わってもらえたなら――そういう希望を抱いてしまう。


 あの人の人格が破綻してるのは分かってる。だけど言い方ややり方こそ大きく間違っていても、私に向けられる想いの中に純粋な好意がある事も分かっている。


 もしかしたら――でも――だけど――自分の中で繰り返される<でもでもだって>を嫌でも自覚させられる。


(こんな気持ちじゃ、クラウスはもちろん優里にも会いづらい……)


 皇城にメアリーの様子を見に行くとなれば優里に会う可能性も高い。行った所で私が何か出来る訳でもない。中途半端な感情はただ2人を困らせるだけだ。


 どの道塔への転移石があるから私一人でも塔に行ける。こうやって迷う位ならもっとダグラスさんと話して、私じゃどうにもできないなって思ったら帰ればいい。


(お互い、きちんと話し合えば分かり合えるかもしれない……なんて、まさか今になって思うなんてね)


 皇城を出る時にレオナルドに言われた言葉が脳裏をかすめる。

 今でも分かりあえるはずとまでは思えないけど、分かり合えたら、と思う。今のあの人ならちゃんと話せば変わってくれるかも知れない。


 もし分かり合えたなら。誰かから強制されたのではなく自分で帰る帰らないを決めたなら、きっとこの世界に残って後悔する時が来たとしても自分が悪かったのだと諦めがつく。



 昨日ダグラスさんが買ってきてくれた服の中から水色を基調にしたワンピースに着替えて朝食を取る。

 メアリーの事が気がかりであまり食欲が沸かないけどまたそのうち戦闘になるかも知れないし体力はつけておかなくちゃ、と思い何とか食べきる。


 その後無理のない範囲で筋トレも終えて改めて昨日買ってきてくれた服や装飾品を確認していると、ヨーゼフさんが昼食を運んできた。


「アスカ様、ランドルフから昨日の話を聞きましたぞ。貴方は本当に……」

「え……アスカ様、また何かやらかしたんですか?」


 入ってくるなり苦言を呈してきたヨーゼフさんに、セリアがきょとんとした顔で食いつく。


「……主に寝る前の口づけを強請ってまた大喧嘩したそうです」


 私がセリアに話してない事の意味を察したのか、ヨーゼフさんは1つ咳払いをして答えた。

 いくら言えない部分のほうが多いからとはいえ、その言い方はいかがなものだろうか? セリアの微妙な視線が痛い。


 こういう所を放置しておくから私がどんどんとんでもない人間のように思われていってる気がするけど、今ここで弁明するのもややこしい。


「そう言えば今日、皇城の治癒師が来る日じゃなかった?」

「先日の治癒師には昨日キャンセルの手紙を出しております。あの小僧が来るとなれば金の無駄ですからな。ああ、そうそう金と言えば……」


 思い出したように話題を変えるとヨーゼフさんが滑らかに答え、黒いズボンのポケットから銀貨を1枚取り出し、そのまま手渡される。


「……これは?」

「先日の賭けの報酬です」


 ダグラスさんが初日から漆黒の部屋に入った私を馬鹿にするかどうかの賭け――こっちは有耶無耶にしてしまおうと思ったきりすっかり忘れていたのに。


「受け取れないわ。怪我した当日は何も言われなかったもの。その次の日がああだったから負けたとも思ってないけど……引き分けって事でいいんじゃない?」

「それならお互い報酬を出し合う引き分けがあっても宜しいのでは?」


 煌めく綺麗な銀貨に欲が出つつ銀貨をのせられた手をそのままヨーゼフさんに差し出すと、ヨーゼフさんは目を細め微笑んだ。


「……銀貨1枚やるから、あの人に肩もみか膝枕してやれって事?」


 引き分けた賭けすら無駄にしないその思考は素直に感心する。


「ほっほっ……恥ずかしいのであれば私を言い訳にしても構いませんぞ? おや……?」

 ヨーゼフさんは何かに気づいたように不自然に言葉を止める。


「……珍しい。今日は少し早く起きられたようですな」


 ヨーゼフさんが独りごちて間もなくノックも無しにダグラスさんが部屋に入ってきた。焦った表情で周囲を見渡し、私と目があった瞬間表情が緩む。


「いた……」


 安堵の息をついてそう呟いたかと思いきや、彼はそのまま床に倒れ込んだ。


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