第168話 風の誘いとしくじり
血まみれの私を置いて立ち去った、あの男――ヒューイは何処から私に話しかけているのだろう?
舘の周囲や庭の木々――バルコニーの手すりに身を乗り出して周囲を見回してみるけれどそれらしき姿はない。
『アンタから見えない場所にいるよ……それにしても、酷い傷だな』
向こうからはしっかりこちらの姿が見えるようで、私の顔の傷に気づいて苦笑いしているかのような声が聞こえてくる。
「……何しに来たのよ?」
セリアが部屋の中にいる事を確認して彼女に聞こえない程度の小声で呟く。
『さっきジェダイト領の交渉がほぼこちらの要望通りに終わったんだ。もうここに来る理由が無くなったから最後にアンタと話しておきたくてね』
「……私、貴方と話す事なんて無いわ」
機嫌の良さそうな彼の声に、自分でも驚く位冷めた声で答える。
『俺はあるんだよなぁ……何でアイツに俺の事を言ってない?』
「貴方の事を言えばまた誰かが死ぬでしょう?」
『まさか……それが嫌ってだけで全部自分で抱えてダンマリ決め込んでるのか? 死にかけた上にそんな傷まで負わされてるのに?』
「そうよ。貴方にとって悪い状況でもないでしょう?」
馬鹿にしたような言葉にグッと反論を抑える。彼のペースに飲まれてはいけない。
『まあ……確かに願ってもない状況だ。しかしアンタも相当なお人好しだな……そんなに自己犠牲ってのは甘く酔えるものなのかね?』
姿が見えていたら掴みかかってやりたい――ギリ、と唇を噛みしめて部屋に戻ろうとすると風に押し戻される。
『まあ待てよ。その傷、綺麗に治してやるって言ったらどうする? 今からアンタをダンビュライト侯の館まで運んでやるって言ったら?』
魅力的な言葉に一瞬惹かれたけど今は午後――クラウスが寝てる時間だ。行った所でどうしようもない。
明日の午前に連れて行ってもらう事も考えたけどこの男を信頼していいのだろうか? 手を出せないからと血まみれの私を見捨てたこの男を?
「……やめておくわ。貴方の手を借りた事をダグラスさんに知られたら後が怖いし、そのせいでまた誰か死ぬかも知れない。それに貴方、呪いがどうとかで私に手が出せないって言ってなかった? 貴方に呪いがかかる展開もちょっとね……」
勿論これ以上厄介事を抱え込みたくないという意味で、だけど。
この人に呪いがかかって、また誰かに恨まれる――なんて展開、もう二度とゴメンだ。
『俺を思いやってくれる気持ちは嬉しいが……俺は好みの女性の為なら多少の怪我は厭わない』
「……好み?」
予想外の言葉に思わず怪訝な声で問い返す。
『俺の今の好みは丁度、ショートボブで頑固なお姫様でね。全身傷だらけだと尚良い。俺は怪我をしたり多少の邪魔が入る程度で諦めるような中途半端な恋はしない』
情熱的なのは否定しないけど一体その恋は何日続くのだろう?
恐ろしい
『この間、アンタを見捨てる形で出ていったお詫びをさせてほしい……アンタに嫌われてると思うと胸が苦しくて張り裂けそうなんだ』
好みのタイプに当てはまった割には私に一切姿を見せないこの状況に違和感しか無い。
好みの話が嘘である事も否定できないし、その演技かかった口説き文句も信頼できない。
(だけど……今の私には全く打つ手がない。もしできたら、程度の願いは頼んでもいいのかも知れない)
裏切られてもそんなにダメージを受けないような、そんな願い――1つだけ、あると言えばある。
「……本当に助けてくれるのなら、ダグラスさんをここから連れ出してほしい。2~3時間位、この館から離れてくれたら……」
『……その意図は?』
「悪いけど言えないわ。そこまで貴方を信頼してる訳じゃない。これを叶えてくれたとしても私は今後貴方のお願いには一切応じられないし……だから、これを叶えるかどうかは貴方の自由」
『なるほど……もう少し甘えてくれてもいいんだけどな。まあいい、その願い叶えてやるよお姫様。30分以内にあいつをここから連れ出してやる』
その言葉を最後に、柔らかい風が途絶えた。
(30分以内……何処かから出ていく様子を見れないかしら……?)
バルコニーからは門の様子は見られない。見るなら廊下側の窓だ。部屋に戻って20分程過ごした後トイレに行く風を装って部屋を出る。
トイレに行く道すがら門の辺りが見える窓をチェックすると、門の前に黒馬車が止まっており、白髪の男性――ヨーゼフさんが御者席に座っている。
(本当に、協力してくれるの……?)
信用ならない男だと思ってたけど――侯爵の魂を助けにくる情の厚さを考えると何もかも信用できない訳じゃないのかもしれない。
(これなら……クラウスに助けを求められるかも……)
逸る気持ちを抑えて一旦トイレに入り、少し間をおいた後に改めて門の方を見ると黒馬車がいなくなっている。
「アスカ様。ダグラス様が先程来られて、少し街まで出かけてくると……」
部屋に戻るなり報告するセリアに『ああ、そう……』と興味無さげに答えて布団に包まる。
すぐ目を閉じるのは良くない。ダグラスさんがしっかり館から離れるまで待たないと。
「あの、アスカ様……一ヶ月後には傷は今より随分と目立たなるそうですし、私、傷を隠す為のメイクをもっと勉強しますので……あまり、ご自身を追い詰めないでくださいね?」
「……うん」
セリアの重なる呼びかけに弱々しく答える。やはりノートを読まれている。それが分かっていてもセリアにまで塩対応を続けるのは辛い。
早くこの状況から脱出したい。ひたすら時間が過ぎるのを待っている内に自然と瞼が降り、夢の世界に
暗闇の世界。遠くに見える白い光。だけど――足元には制限時間を教えてくれるあの子がいない。
「ラインヴァイス……クラウス! 何処にいるの!?」
そう叫んで辺りを見回しても誰もいない。やはりあの遠くに見える白い光の中にいるんだろう。
(テレパシーなら、届くかしら……?)
自分の治療でもうすっかり白の魔力が尽きてしまってるから、使うなら黒の魔力しかない。
(でも……クラウスを攻撃する訳には……ああでも、ソフィアにテレパシーを送った時、ソフィアは頭痛に苦しんでいるようには見えなかったな……)
自分に痛みが来るように仕向ければ、相手には痛みがいかないのかもしれない。黒の魔力をクラウスに送る事に抵抗はあるけれど――他に手段がない。
『クラウス、ごめん……助けて!!』
強く願うと同時に襲い来るのは鋭い頭痛と、聞きたくなかった唸り声。
嫌な予感がして振り返ればまるで天敵を見たかのように、尻尾を膨らませて威嚇する大きな黒猫。
「ペイシュヴァルツ……どうして……!?」
途中でヒューイがしくじった――? 頭痛がする中、途切れ途切れにフル回転させる。
――私がいない時が心細いというのであれば、ペイシュヴァルツを帯同させましょう――
こんな時に限って思い出す、嫌な事。
(……しくじったのは、私の方って事?)
私を信じられなくなったから、監視役まで付けたと。そしてこの暗闇の中に溶け込んで私を監視していたペイシュヴァルツは見事に私の裏切りを目の当たりにしている。
一切の手段が絶たれた状況に重いため息をつく。
「……ねぇ、ペイシュヴァルツ。なんで私にダグラスさんの過去の夢を見せるの?」
そうペイシュヴァルツに問うと、白い光を見据えていた視線がこちらに向けられる。
威嚇していつ襲いかかってきてもおかしくないその表情にもう怯んでなんかいられない。
今は、主を想うあまり私に過去を押し付けてくるこの黒猫を説得できるかどうか――その可能性にかけるしか無い。
「同情を引くつもりだったとしても、あの人が私のそういう眼差しを嫌ってるのは貴方も分かってるわよね……?」
主の身に起きた事を知っているならダグラスさんが私に『そういう視線は好きじゃない』と言っていた事も知っているはず。
「……私にあの人を好いてほしいなら、少し位私に協力してくれてもいいんじゃないの? 私がラインヴァイスとクラウスにコンタクト取るのを見逃してくれるとか……私、自分を犠牲にして長い時間をかけて好きな女の傷を治そうとする男より、自分の感情をグッと堪えて恋敵に頭下げて頼み込んで短時間で確実に好きな女の傷を治す男の方がよっっっぽど格好良いと思うのよ……!」
男が愛する女性の為に宿敵に真摯に頭を下げる姿――そんな展開、大抵の女性はこう胸にくるものがあるだろう。
プライドの高い男が頭を下げるのなら尚更刺さるものがある。
ペイシュヴァルツの表情が威嚇のものから何処と無く冷めたものに変わっている事に気づいて我に返ると、大きな黒猫はやれやれ、と言わんばかりの態度で私から背を向けて去っていく。
見逃してくれるの――!? と思って改めて白い光を振り返るともう白い光は完全に消えてしまっていた。30秒の制限時間が過ぎてしまったようだ。
(はぁ……色神とはいえ猫相手に何力説してんだろ、私……)
一人ぽつんと取り残された空間で、軽いため息を付いた。
それからどの位時間が経ったんだろう? ぼんやりと天井が見え、ゆっくりと体を起き上がらせると同時にノック音が響く。
セリアが開けるとダグラスさんの姿が見えたので咄嗟に布団を被る。
さっさと日記を持って部屋から出ていってほしいと思う中、ベッドのすぐ近くに人の気配を感じる。
(…ついに、堪忍袋の緒が切れたかな?)
信じられない女に監視役を付けて早々に自分を裏切る行為を取っている事が分かったら、キレない方がおかしい。
(こうなったら、徹底的に言い合って……)
「……そこまでクラウスに会いたいのでしたら、近日中に会わせましょう」
意外な言葉に思わず身を起こして見上げると、悲しそうな、悔しそうな――そんな表情を浮かべたダグラスさんが私を見下ろしていた。
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