46 余所者
天に浮かぶ、大きな月。
時に人はそれを恨めしくも思うだろう。
そこから漏れ出す光が見たくもないものも遍く照らし出すからだ。
「あなた…あなたあぁぁぁあ!!!」
それが例え愛する者の無残な姿であっても。
日常の中で、愛する者の命が塵のように散る様など頭を掠めることはない。
だからこそ、平和な日常でその瞬間が訪れた時の絶望は計り知れないのだ。
「どうして…どうしてなの?あなた…っ!ねぇ私よ!お願いですから目を開けてちょうだい…っ!」
月下の裏道にゆっくりと広がる赤。その赤の源流となっている人間の息は既に呼吸とは呼べなくなっていて、止まるまでもう幾許もない心臓の鼓動に押されて痙攣を始めた肺から流れ出したただの空気の流れに過ぎなかった。瞳から光はとうに消えかけていて、瞼を閉じる力すらも残されていないい。
その傍に駆け寄って慟哭をあげる貴婦人は、自らの絹の訪問着が汚れることも構わずに地面へと座り込み、白髪の混じった髪を振り乱していた。その視界は眼球がまろび出るだろうかというほどに見開かれていた。しかし滂沱のせいで靄がかかったかのように歪んでいく。そのせいなのか、婦人の鼻に届く不快な甘ったるい臭いは本能への警告を促すには役不足で、口からはこの世のものとは思えぬ叫喚が建物に共鳴して朽ち果てた城壁まで響き渡っていた。
「おま、えも逝けぇ…かかかかか!!」
己の半生を捧げ、共に連れ添ってきた伴侶の骸に突っ伏して泣く婦人の視界が何者かの影により更に暗くなる。甘い匂いが濃くなった瞬間に婦人は自分の身に迫っている危険に今更ながら気付き、息を呑んだ。空気を割く刃物の音が耳にたしかに届いたからだ。
終わる。自分の人生が。すでに体温を失いかけている主人の後を追うことになると。頸に刃物の切先が届こうかというそのほんの一瞬の間に、溢れるほどの思考が濁流となって彼女の頭を通り過ぎた。
そのときだった。
パァン!!!!!!!
「ぎゃあああぁぁぁぁ!!」
空気を切り裂く破裂音と、響き渡る苦痛を訴える男の声。婦人は堪らず両耳を覆うも目を閉じたのはほんの一時のことで、影の主が倒れ込んだことを感じると振り返って破裂音がした方向へと向き直った。
目を凝らして漸く見えるほどの距離に佇んでいたのは満月に照らされて輝く金糸と、闇に溶け込むような褐色の肌を持った頑強な男の姿だった。顔に落ちた影の中から浮かび上がる青い隻眼は、夏の海を思わせるほどに清涼なものだったが、オガール人には見られない異邦人のその研ぎ澄まされた眼光は獲物を狙う獣そのものだ。銃口から立ち上る細い煙を吹き消したかと思うと、そのスナイパーライフルを肩口に担いでゆっくりとこちらへと歩いてくる。
距離が近づいて初めてわかる、世の成人男性の平均身長を優に超える筋肉質な身体。歩を進めるたびに響く、舗装の行き届いていない道を踏み締める音が不自然に大きく聞こえた。
その人物は婦人の目の前まで来たかと思うと、彼女には目もくれずに無言で銃弾に倒れた男の胸元に手をかけ、悪魔の鳥が遇らわれた紋章を引き千切った。
「怪我がねェならこの男を置いて直ぐに建物の中に入れ。」
その言葉に、婦人は嫌々と首を振る。既に命尽きたと言っても、夫をいつまでも地面に横たえておくことなど耐えられなかったからだ。出来る事なら安全なところまで運び、然るべき時まで安置してあげたい。それは自然な気持ちだった。
「で、ですがここに一人にしておくわけにはいきません!運びますから…どうか手をお貸しくださいませ!」
泣きながら、縋り付くような視線を自分に向けてくる婦人に、男は紋章を仕舞いながら舌を打つ。そして忌々しそうに言うのだ。
「それはもうあんたの旦那じゃねェ。ただの死体だ。置いて逃げろ。ここは危ねェ。」
「な…っ」
耳を疑うような言葉を吐きかけられ、婦人は言葉を失う。そして、その人物へと伸ばされていた手は虚空を彷徨い、音も立てずに婦人の膝下へと落ちていった。
「なんてことを言うの?そんなこと…いくら何でもあんまりじゃありませんか!」
彼女が男の非情な言い振りに激昂したその時、男は目にも止まらぬ速さで振り返った。そして次の瞬間には婦人を組み敷いていた。反転する視界。大きな掌に自分の首がすっぽりと収まっていることに婦人は恐怖が込み上げてくる。自分を見下ろす冷たい青い瞳から思考を読み取ることはできない。それがより恐怖を煽るのだ。自分はこの男に殺されるのではないかと。しかし冷静になればなるほど叩きつけられた背中に走る痛みは後からやってくる。予想以上の痛みに顔を顰め、「うっ…」と声にならなかった息を喉から絞り出した婦人はここで初めて気付いた。
背後の壁の、つい先程の自分の脳天ほどの高さに穴が開いた。つい今だ。それがわかったのは自分が今押し付けられている地面に壁の一部がパラパラとした粉になって降ってきたからだ。もしも男が自分を押し倒さなければ、今頃は夫と同じく物言わぬ屍になっていたに違いない。
「あ、あぁ…っ!」
「もうわかっただろォが。外がどれだけ危険か。あんたの旦那は危険が去った後で軍警が責任持って送り届ける。だから今は生きることしか考えるなァ。奴らが…フィンドが来る。すぐに逃げろ。」
手荒な真似をして悪かったと男は婦人の首から手を話し、婦人の二の腕を掴んで立ち上がらせる。呆然として服の汚れをはたくこともせず立ち尽くしている彼女を背中に庇い、男は暗闇に向かってライフルを構えた。
風に乗って先ほどと同じ甘い臭いが鼻腔を通り抜ける。そこで初めて婦人は息を呑み、恐怖で膝が笑い出す。
逃げねばならない。頭の中で警告音が鳴っているのに、それが強くなればなるほど膝は喧しく震えるのだ。
「あ、足が…動かない…っ!」
「チッ…!」
直ぐ目の前で聞こえる発砲音と薬莢が落ちる音。不意の出来事で婦人の肩が跳ねたが、それと同時に足の震えが止まったように見えた。
「走れェ!!!振り返るな!」
婦人が走り出す。その様子を建物の一階から見ていた初老の住人が扉を開け、切羽詰まった顔でこちらだと手招きして避難を促していた。
「早く!早くこっちだよ!!!」
その住人の顔は、逃げてくる婦人以上に恐怖に歪んでいた。
何故なら婦人の背後の遥か後方。ライフルを構える男に向かって、リスベニア軍の軍服を着た兵士たちが奇声を発しながら月夜の届かぬ影から湧いたように姿を現したからだ。蠢くその数は数十人。
何が起こっているのかもわからず、靴が脱げることも構わずに命からがらといった様子で駆け込んできた婦人を家の中に引き入れると住人は扉を閉め、その直ぐ隣の壁際に置いていた戸棚を押して移動させ、先程の扉を塞いでしまった。住民は婦人の背中を押して奥へと追いやろうとする。
「出来るだけ扉から離れるんだ!」
腰を抜かしている暇もなく、耳を澄ませば風音の中に遠くから地を揺るがすような呻き声と複数の足音が聞こえてくる。そしてそれは着実に此方に近づいてくるのだ。最初は全く気づかなかったが、足音が大きくなるにつれてカタカタとと小刻みに家中のものが揺れていることがわかったからだ。
万一の為に、家の中に雪崩れ込まれないように扉を塞ぎはしたものの、決して安心は出来ない。窓の外を見ずともわかる身に迫る脅威。婦人の脳裏に、先程の隻眼の青年の姿が浮かぶ。
己を襲おうとしていた者を狙撃した男の腕は確かなのだろう。しかし、ライフル一丁で正気の沙汰では無い兵士達を迎え討とうとしている以上、彼等の完全な足止めを担うには余りに心許ないことは明らかだった。
せっかく助かった命なのに、絶望的な状況から少しも抜け出せていない状況。婦人は愕然とした。両手を痛い程に握り合わせ、跪いてひたすらに祈る。
「あぁお願い…どうか、どうかお守り下さい…っ!あなた…プロフェリア様!」
生前の夫と、そして同時に心の拠り所としていた世界宗教の、未だ嘗て見たこともない予言者に救いを求めた時だ。
窓辺を青白く照らしていた月明かりが雲に遮られて消え失せ、それと同時に鳴り響いたのはけたたましい銃声。そして複数の何かが崩れ落ちるような振動が床を通して伝わってくる。
それは時間にして数秒のことだっただろう。しかし、婦人の鼓動の音は恐怖から家中に響いているのではないかと思うほどに大きくなっていて、彼女は何とか落ち着かなければと固く合わせた両掌を胸元に強く押し付けた。
そのうち音はしなくなった。
「…?」
再び窓を月明かりが照らし出し、いつの間にか鼓動は落ち着いていた。家の中は静寂が蘇っており、婦人は己を招き入れた住民と目を合わせて同時に首を傾げたのだった。
婦人は外の様子を確認しようとゆっくり這うように窓べりに近づき、恐る恐る両手をかけて顔半分だけを出したが、声にならない声が喉の奥から漏れ、目を大きく見開いた。
「なんて、こと…。」
隻眼の青年が既に役目を終えたライフルを下げ、脱力した状態で天を仰いで佇んでいたのだ。そして彼の前に広がる地面を覆い尽くすように倒れた兵士達の姿。彼等はみな揃って青年の前に見えない壁があったかのように距離を置いて倒れていて、誰一人として彼に手の届く距離まで到達してはいなかったことがわかる。
彼の持つたった一つのスナイパーライフルから休まず聞こえていた銃声。その弾丸の嵐によって青年に近づくことすらも出来ず、兵士たちは皆急所を狙撃され、即死したのだ。絶え間なく連射されたにも関わらず、正確に同じ位置を撃ち抜いた青年の姿に、婦人は思わず口元を覆う。
兵士たちの胸からは、既に悪魔の鳥は毟り取られていた。
「まるで…猟犬だわ。」
天を仰いで息を吐くその青年の佇まいは、なんとも形容し難いものだった。幾多の亡骸が転がる異様な光景のはずなのに、婦人の心からは恐怖が不思議なほどに薄れていた。
婦人の姿に気づいた青年は、ライフルを担ぎ直すと踵を返し、こちらへと近づきながら右手を下から上へと振って無言で窓を開けるように促した。慌てて婦人は従う。
彼は婦人と奥にいる住人の姿を視認して何事もないことを確認すると、間もなく軍警が到着すること、彼等による安全確認が終わるまでは建物から絶対に出ない事を言い含めた。
威力の強いスナイパーライフルで複数の人間を撃ったにも関わらず汗ひとつかいてない顔。青年は自分の背後に凄惨な現場が広がっているというのに、ただの通りすがりの無関係な流れ者のように涼しい顔をしていた。
「俺は行く。言う通り家の中にいろォ。」
「あ、あの…でも軍警にこの様子について聞かれたら、私たちは何と答えたらよろしいのです?だって、あなたは行ってしまわれるのでしょう?」
婦人は不安げに青年へと問うた。この青年が軍警関係者なのかどうかは定かではなかったが、どこまで状況を把握しているかもわからない軍警が後から来て、現場に一番近い場所にいる自分たちに何が起きたか聴取に訪れる事は容易に想像出来たからだ。
「あんたらは深く考える必要はねェ。迷惑もかけねェよ。」
その青年は言った。
『カースティ・グリフィスがフィンドを処分したとだけ伝えろ。』と。
カースティと名乗ったその男は、それだけ告げると徐に立ち去ろうと窓から離れようした。
すると、小さく風を切る音と共に婦人の顔のすぐ脇を何かが背後から通り過ぎて行った。それは、青年の頭にゴッと鈍い音を立てて当たったかと思うと力なく地面へと落ちていく。婦人は驚いて地面へと視線を移すと、それが初めてインク瓶である事がわかった。背後から、荒い息音ともに足音が近づいてきたかと思うと、その人物によって肩が押され、体勢を崩した婦人は地面へと膝をついた。
「処分しただと?ふざけるな!」
婦人を家へと招き入れた住民が、怒りの形相でカースティを罵倒する。
「あんたが…あと少し早ければ妻は助かっていたのに…!何で、何でもっと早く来てくれなかったんだ!」
その言葉で、婦人にはこの住民に何が起きたのかがわかった。己をいち早く危機から救ってくれたのも、フィンドの恐ろしさを身を以って思い知っていたからだと。
カースティは振り向きも、反論もしない。背を向けながら、ずっと住民の罵声を甘んじて受け入れているようだった。
「難民だけでもこの上ない迷惑を蒙ってるっていうのに、挙げ句の果てにはフィンドに身内を殺されるなんて、こんな遣る瀬無いことあるか!?何故俺達オガール人がこんな思いをしなけりゃならないんだ!こんなこと納得出来るかよ!!」
住民の怒りの矛先は、やがて余所者を受け入れることを決めた国へ向けられる。その口からは、日々押さえつけていた鬱憤が言葉となって次々と溢れ出ていく。
オガール人なら、大抵誰でも心の奥底に難民とフィンドへの恐れと不安を抱いている。彼等は、日々自分の雇用や安全を脅かされながらの生活を強いられている。
この住民とてわかっていた。カースティがオガール人でもなければ、将又悪人でもない事を。余所者でありながら、またその余所者からこの街を守るために一人で戦ったことも。
この異邦人は、『リスベニア人』の脅威から自分たちを救うために街へと駆けつけ、確実に彼等を屠ったのだ。ただその過程に辿り着く前に犠牲が出た。それが自分の身内だった。
仕方のない事だったと頭ではわかっている。自分は妻を助けられなかった。それでも言わずにはいられなかった。
「この余所者が…っ!!妻を返せ!なぁ、あんたからも言ってやれよ!」
「え…。」
不意打ちで自分に向けられた言葉。婦人は弾かれたように顔を上げた。
「わ、私は…。」
しかし、何も言えなかった。
愛する伴侶を殺されたのは自分も同じだ。しかしカースティがいなければ恐らく自分は死んでいた。軍警がもしあの場にいたとしても、あの数のフィンド相手に太刀打ち出来なかったはずだ。今の自分が彼に礼を言う事はあっても、悪意をもって罵詈雑言を投げつける事は違う。しかしそれを怒りと悲しみで支配された住民に諭すこともまた違うのではないかと思った。
結果、婦人は口を閉ざしたのだ。
それに更に業を煮やしたのだろう。住民はカースティへ畳み掛けた。
「人殺し!人殺しめ!とっとと出て行け!」
それは己の妻を失ったことへの絶望からか、フィンドを狩ったことへの畏れからか。
最後まで、結果として自分の身の安全を守ったカースティへ労いや礼を口にする事はなく、住民は彼を罵倒し続けた。
婦人は、住民の心中を慮るとカースティを擁護することが躊躇われる自分への歯痒さもあったが、せめて自分は決して敵意がないこと、窮地を救ってくれた彼への感謝を伝えようと立ち上がり、カースティを見た。
そこで、いつのまにか彼が上身をこちらへ少し向けていたことに気づく。視線が噛み合った。
その間も住民が心の内を吐き出し続ける。それを受けるカースティの目には、先程の鋭さはなかった。しかし、代わりにその目にたたえられたものの正体まで婦人には分かろうはずもなかった。彼女は、それは悲しみでも苛立ちでもない、自分には到底理解できない感情だとすぐに気づいた。
ひとつだけ確かなことがあるとすれば。
カースティは婦人の前に現れた時から徐に立ち去るその時まで、ついぞ自身の髪と同じ月をその目に映すことはなかった。
彼は再び背を向けると、月光の届かない夜の帳へと静かに消えていった。
「人殺し!」
その後も、涙と共に壊れた絡繰人形のように同じ言葉しか発さなくなった住民の叫びだけが、街に木霊していた。
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