44 異国からの訪い人


 ルツが字を覚えてから誰かに手紙を書くことなど初めてだった。


 でも、もし手紙を書くなら最初に母に書こうと決めていた。


 報告書のように形式が決められているわけでもなく、心のうちを文字に起こすことがこれほどまでに難しいことだとは、きっと実際に書かなければわからなかっただろうと思う。


 だから何枚も便箋を無駄にした。書き上げるのに一日かかってしまった。


 自身の母には、これまで育ててくれた感謝とともに、いつまでも家族みんなが元気で、そして無事に生活できるよう軍警としての職務を投げ出すことなく精一杯やっていく決意を認めた。


 ルツはわかっていた。『慣れる』までは、時間がかかるだろうことを。それでも、自分に道を示してくれたミジャンカに胸を張って会えるようになりたかったし、何よりもバイロンで彼女に誓ったことをたがうことのないように前を向こうと心に決めていた。


 ここからでいい。手紙という一つの形にしたことで、心の整理もついていた。休養期間が明けたら、改めて任務にまっすぐに取り組もうと早めに手紙を出すことに決めたのがよかったのかもしれない。ふっと柔らかな笑みを一人浮かべて、私服を纏って宿舎の外へと出た。


 以前はミジャンカから渡された薬入りの紙袋を、どんよりとした気持ちで抱えて戻ってきた道。それを今は少しばかり背筋を伸ばして穏やかな気持ちで歩くルツは、姿勢がいいおかげで顔が真正面を向き、心無しか視界も開けた気がして嬉しさが溢れた。郵便社へと急ぐ。


「…いい天気だなぁ。ん?」


 すると、前から歩いてくる一人の女性が目に入った。白い日傘をさしているところを見るとどこかの貴婦人だろうかと何の気無しに見ていたが、彼女が前方に傾けていた日傘のシャフトを肩に乗せたその瞬間に顔が見えたことでルツは息を呑んだ。


「(うわぁ。凄い美人だ…。)」


 ほぼ黒に近い、肩上で切り揃えられた紺色の髪に見たことのない大きな琥珀の瞳。透き通るように白い肌。その顔立ちは、街行く人が振り返る程に整っていた。年の程は二十代前半に見えるが、纏っている衣服は今の流行にはそぐわない落ち着き払った訪問着で、正直時代遅れの域に入るものだった。ルツは田舎の農村出身の平民なので服の価値などわからなかったが、貴族の女性であれば、代々大事に着られている一族の紋章があしらわれたドレスを夜会で着ることもあると聞いていたので、それならば訪問着にも同じことが言えるのではないかということ、そして彼女の髪の色からリスベニア人のノーブレスだと考えた。


「(上品だし、とても威厳があるな。)」


 その人物はゆっくりとルツの方へと歩いてくる。そしてすれ違おうとしたその時だった。


「もし。失礼ですが。」


「あ、ぼ、僕ですか?」


 優しい静かな声がルツを呼び止める。まさか声をかけられるとは思わず、返答したルツの声は露骨に裏返っていた。その様子がおかしかったのか、その女性は口元を押さえて軽く笑った。


「お急ぎのところ申し訳ありません。バンクス診療所への道をお伺いしても宜しいでしょうか。」


 見ず知らずの、それもこの上ない蛾媚から突然声を掛けられたことに動揺しつつも、その口から出たそぐわない行き先に首を傾げた。


「診療所はこの先の二つ目の角を左に行けばすぐです。でも生憎今は開いていませんよ。」


「そうですか。ではまたの機会に致します。御免下さい。」


 頭を軽く下げ、女性は日傘を正して踵を返そうとした。ルツはその瞬間、ミジャンカがジャイレンにいる間は往診もしていることを思い出し、慌てて声をかける。女性がハウンズではなく医者としてのミジャンカに用事があると思ったからだ。


「あ、あの!僕はルツ・コルベットと申します!よければ、次にいつ開所するか聞いておきましょうか?ある程度の日は、わかると思うのですけど…。もしお急ぎなら別の病院を紹介しますよ!」


 軍警付属の病院は、一般向けの診療も行なっている。距離は寧ろ其方の方が近いくらいだ。目の前の女性が大病を患っている可能性も捨てきれなかったので、ルツはそう申し出たのだ。


 すると、女性は何事も無いかのように再び微笑んだ。


「まあ。お気遣い恐れ入ります。ですが、不要不急ゆえそれには及びません。」


「あ、そうですか…。」


 では、と再び女性は歩みを進めようとする。余計なことをしてしまっただろうかとルツは眉を下げるが、その様子を見た女性が一瞬考える素振りを見せると日傘を持ち替え、スカートの裾を片手で持ち上げた。そのまま片足を引き、膝を曲げて腰を下げたまま少し首を傾ける。その様子はあまりに自然で優雅なもので、ルツの赤くなった耳が更に色味を増した。


「申し遅れました。私はディルタ・シーデルワースと申します。今日は、バンクス診療所の場所が分かれば十分だったのです。軍警の方なら場所をご存知かと思ってお声掛けしたので助かりましたわ。ご親切にありがとうございました。」


「い、いいえ。」


 ディルタと名乗ったその女性は、姿勢を正すと改めて一礼をして元来た道を歩き出した。彼女が振り返った時に髪が揺れ、緩やかな風に乗って鼻腔を擽るような匂いがルツの元へと届く。


 ほんの二、三分の出来事だったと言うのに、ルツは大分長くその場にいたような感覚がした。先ほどとほとんど太陽の位置も変わってなかったのでそれは気の所為なわけだが、彼女の姿が見えなくなった時に、はっと思い出したかのように郵便社へと急ぐ。気付けば曲がる道を間違えていて、慌てて引き返した。


 我ながら美人と話してぼんやりするだなんて単純な性格だと自省しながらも、郵便社に手紙を出すという本来の目的は達成出来そうなのでルツは一人困ったように笑ってみたが、道すがら街角に立つ同僚たちの姿を見てふと足を止めた。


「あれ?そういえば、なんで彼女は僕が軍警だって分かったんだろう?」


 今日は私服だったのに、と。


 彼女は軍警ならばバンクス診療所の場所を知っていると思ったと、そう言った。それならば制服を着用している勤務中の軍警に聞くのが一番確実なのに、何故敢えて自分に声を掛けたのだろうと。匂いで自分の職業がわかるとも思えなかったが、ルツは服の袖を鼻元に持っていってくんくんと嗅いでみた。


「ここ数日は非番だから硝煙の臭いもしない筈だけどな…。」


 そして、一番引っかかったのは振り返り際に彼女から香った独特な匂い。何処かで嗅いだことのあるものだったのだ。それもつい最近。


「(森の中にいるような、優しい爽やかな香りもしたけれど…。)」


 頭をフル回転して記憶を呼び覚ます。人の記憶に一番残りやすいのは匂いだ。手繰り寄せればすぐにわかるはずだ。しかし、うんうんとどんなに頭を捻って考えても不思議なくらい思い出せなかった。


 それはまるで、記憶に鍵がかかってしまったかのようだった。そう思ってしまうと、どんなに力んでも記憶が浮上してくることはないだろうことは何となくわかる。


「うーん…。疲れてるのかなぁ?もういいや、早く帰って休もう。」


 言いようのない違和感に首を傾げながらも、ルツはため息をついて帰路を急いだ。



         ***


「美しい街。ここがジャイレンなのね。」


 丘の上で風に煽られる日傘を畳んで、ディルタは一人呟いた。


 奥に見える王宮を覆うように豊かな緑の葉を茂らす大樹が目に入る。


 太陽の光が目に沁み、肌が赤らんで痛むが再び日傘を開こうとはしなかった。胸元を押さえて、溢れくるものを堪えることが出来ずに涙を流す。


 それは太陽光による痛みからくるものなのか、はたまた胸の奥から滲み出す感情によるものなのか。


 ディルタは、己の髪から香る匂いに眉を顰め、その場で蹲る。


 堪らず自身の紺色の髪を両手で鷲掴みにして、何かを振り払うかのように頭を左右に振る。


「…---、、、っ。」


ディルタは静かに嗚咽を噛み殺して、紡ごうとした言葉を喉の奥に呑み込んだ。


そして、彼女が頭を振る度に香るその香りは微かに甘く、空気にこびりつくように残るものだった。



 

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